トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編
第130話 / 全149話
選別の手
草を踏む音が、止まった。
白い手の動きに、迷いはなかった。
こちらへ、まっすぐ、伸びてくる。
逃げる間は、なかった。
指先の一本一本から、細い糸のような光が伸びて、俺たちを、一人ずつ、包んでいく。
レオンの肩に。
アリアの肩に。
ミミルの、籠を抱く腕に。
角兎の背に。
俺の背に乗る、錆びた剣の柄に。
黒竜の、翼の付け根に。
そして、俺の殻に。
これは、前に見た、試作の卵を測っていた手と、同じだ。
あの時は、丸い殻を、指先で、確かめていた。
今は、俺たちを、確かめている。
光は、熱くも、冷たくもなかった。
ただ、確かめるように、触れてくる。
量るように。
誰も、動けなかった。
草原の音が、遠のいた気がした。
時間が、引き伸ばされたように、長く感じる。
ミミルの腕の中で、俺の籠が、微かに、軋む。
角兎が、低く、喉を鳴らした。
黒竜が、翼を、半分だけ、広げる。
逃げる隙を、探しているのが、分かった。
だが、見つからなかった。
草原には、隠れる場所が、どこにもない。
遠くの丸い影たちだけが、変わらず、選ばれ続けている。
俺たちも、今、同じ場所に、立っている。
「――勇者、再利用」
レオンの肩の光が、強く、瞬いた。
同時に、腰の聖剣が、高く、鳴った。
あの日と、同じ音。
急かすような、硬い音だった。
「くっ……」
レオンの手が、柄へ、吸い寄せられる。
自分から、握ったんじゃない。
握らされている。
剣が、鞘の中で、じりじりと、動く。
先端が、光の柱の方角へ、向く。
前にも、見た。
施設の部屋で、同じように、柄が、レオンの手ごと動いた日。
あの時は、俺へ、刃が向いた。
今度は、違う。
刃は、誰も、狙っていない。
ただ、レオン自身を、連れ去ろうとしている。
どちらが、ましなのか、俺には、分からなかった。
あの日、レオンは、素手で刃を掴んで、止めた。
今度も、同じように、力で、止めるつもりなのか。
手のひらに、また、血が、伝うのだろうか。
「右へ、行こうとしてやがる」
レオンが、歯を食いしばる。
「勇者、再利用……道具として、また、使い直すつもりか」
剣の柄を握った手が、震える。
引かれているのは、腕だけじゃない。
足も、少しずつ、光の柱の方へ、滑り始めている。
「――聖職者、再配置」
アリアの肩の光が、細く、伸びる。
感応針が、独りでに、傾いた。
「……これは」
アリアの声が、掠れる。
「私は、もう、聖職者では、ありません」
言葉は、届かない。
光は、返事を、待っていない。
感応針の先が、白く染まり、糸に沿って、震え出す。
アリアが、針の柄を、両手で、強く、握り直す。
「聞いてもらう必要は、ありません」
「私が、決めたことです」
祈る相手が、いなくても、祈る足は、止めない。
ついさっき、この草原の入口で、そう言ったばかりだった。
もう一度、確かめるように、胸の内で、繰り返す。
肩書きを、取り戻すために、ここへ来たわけじゃない。
名を返した日から、変わったことなど、一つもなかった。
「――現地住民、破棄」
ミミルの足元で、地面の色が、変わった。
薄く、沈み始める。
草が、籠越しに、じわりと下がっていくのが分かった。
「……っ」
ミミルが、俺の籠を、強く、抱き直す。
「破棄……」
声が、震えていた。
「私は、この世界に生まれて、育った。それだけの理由、ですか」
答えは、返らない。
光は、ただ、判定を済ませただけだった。
俺の殻の奥が、跳ねる。
これは、知っている。
廃棄推奨。素材価値、低。
あの木札と、同じ響きだった。
言葉一つで、誰かの全部が、決められる。
ついさっき、俺がそれを突きつけられたばかりだった。
今度は、ミミルが。
助けたい。
だが、この光は、殻でも、魔力腕でも、掴める類のものではなかった。
ミミルの胸に抱かれたまま、沈んでいく地面を、見ているしかない。
殻の奥で、何かが、焦げるように、熱くなる。
「――随伴、二。破棄」
俺の背で、剣が、低く鳴った。
「……そうかい」
声に、皮肉の棘は、あったが、驚きは、なかった。
「適合を、省略された俺には、似合いの判定だ」
角兎の足元にも、同じ光が伸びる。
地面が、じわりと、沈み始めた。
角兎の種族も、名前も、判定の声は、一度も、口にしなかった。
数える価値すら、認めていない。
角兎は、鳴かない。
ただ、耳を、伏せた。
抗う仕草すら、見せない角兎に、剣が、もう一度、低く鳴った。
「聞こえてんのか、兎。……まだ、諦めてねえよな」
耳が、わずかに、持ち上がる。
小さな、返事だった。
答える言葉を、角兎は、持たない。
それでも、伝わるものは、あった。
「――旧守護種、破棄」
黒竜の体が、大きく、震えた。
『……我、が』
念話に、初めて聞く揺らぎがあった。
『あの日、抗った者たちも』
『……同じ判定、か』
黒竜の脇腹、継いだ傷の周りに、光の糸が、幾重にも絡みつく。
脚が、じりじりと、崩れた見張り台の方角へ、引かれていく。
瞳の金色が、揺れた。
あの日、隣で消えた一体を、思い出しているのが、俺には分かった。
また、選びかけているのかもしれない。
あの、白でも黒でもない、名づけようのない力を。
俺は、殻継の感触を、黒竜の方へも、微かに、伸ばした。
届いたかどうかは、分からない。
それでも、伸ばさずには、いられなかった。
あの日、隣にいた一体も、こうして、誰かに、伸ばされる手を、待っていたのだろうか。
もう、確かめる術は、ない。
あの場所で、選び直すと、黒竜は、言ったはずだった。
だから、今度は、一人で、選ばせない。
「――試作、廃棄済み」
俺の殻には、光の糸が、絡まなかった。
引く先が、ない。
もう、終わった話だから。
既に済んだ判定を、なぞっているだけだった。
妙に、静かな気持ちだった。
痛くも、悔しくも、ない。
ただ、はっきりと分かる。
俺だけが、今、この場で、自由に動ける。
自由という言葉が、こんなに、重く感じたことは、なかった。
動けるなら、動くしかない。
誰かが、動かなければ、この場は、そのまま、沈んでいく。
仲間を、順に、見る。
レオンの足が、光の柱へ、滑っている。
ミミルが、地面に、沈んでいる。
角兎と、錆びた剣が、同じように、沈みかけている。
黒竜の脚が、見張り台へ、引かれている。
アリアだけが、まだ、自分の足で、立っていた。
誰から、動くべきか。
考える時間は、なかった。
レオンの足が、光の柱の方角へ、また一歩、滑った。
剣が、鞘から、半分、覗く。
何度も、柄に手をやっていた、あの癖を、俺は、覚えている。
迷うたび、確かめるたび、レオンは、いつも、そうしていた。
今、その手が、自分の意志で、動いているのか。
それとも、まだ、引かれたままなのか。
レオン自身にも、分からないようだった。
白銀の刃が、少しずつ、抜け出していく。
抜かせるわけには、いかない。
それでも、俺の手は、まだ、そこまで届かなかった。
「嫌だね」
レオンが、低く、唸るように言った。
「道具として、使われるのは……一度で、十分だ」
レオンの右手が、腰の帯へ、伸びる。
留め具を、外す。
剣を、鞘ごと。
草の上へ。
置いた。
乾いた音が、響いた。
守る時の、音。
俺には、いつも、そう聞こえていた音だった。
剣が離れた瞬間、レオンの体を引いていた光が、ふっと、緩む。
レオンの目が、地面の剣を、見下ろす。
迷いは、まだ、残っているように見えた。
それでも、拾わなかった。
「俺は、もう勇者じゃない」
誰へでもなく、ただ、そこにある剣へ、言った。
「お前を、また、あいつらの道具に、させる気はない」
鳴っていた剣が、静かになった。
光の糸が、力を失い、地面へ落ちて、消える。
レオンの足が、止まった。
錆びた剣が、俺の背で、掠れた声を上げた。
「情けねえ姿、見せてんじゃねえぞ、兎」
角兎の耳が、ぴくりと動く。
沈みかけていた足が、一度、地面を、強く踏んだ。
いつもの合図だった。
沈む速さが、鈍る。
アリアが、感応針を、白い糸の一本へ当てた。
これも、人の作った規格の糸だ。
前に、そう気づいたことを、思い出す。
針の先が、震えながら、糸を、少しずつ、押し返していく。
「……効きます」
アリアの声に、力が戻る。
ミミルは、まだ、沈み続けていた。
俺は、殻の内側で、暴れそうになる焦りを、抑える。
助けなければ。
俺は、殻継の感触を、伸ばした。
塞ぐためでも、繋ぐためでもない。
ここから、離れるためだった。
《空間への干渉》を、ミミルと、白い手の間へ、差し込む。
半歩ぶん。
遠ざける。
沈んでいく力が、ふっと、軽くなった。
足元の地面が、ただの、草原の土へ、戻る。
「……あ」
ミミルの声が、掠れる。
俺は、続けて、角兎と、錆びた剣の方へ、同じ感触を伸ばした。
半歩。
もう半歩。
一度に、大きくは、動かせない。
だから、何度も、小さく押す。
殻の内側が、軋む。
熱を持つ。
それでも、止めなかった。
角兎の足首に、光の糸が、まだ、絡みついている。
もう一押し。
さらに、もう一押し。
糸が、緩み、地面から、離れていく。
角兎の足が、地面から抜ける。
最後に、黒竜との間へ。
半歩。
『……すまぬ』
黒竜の脚が、見張り台から離れる。
瞳の揺れが、少しずつ、収まっていく。
殻の熱が、なかなか、引かない。
それでも、誰も、沈んではいなかった。
それだけで、十分だった。
ミミルが、俺の殻を、指先で、軽く、叩く。
一度。
二度。
三度。
いつもの合図。
大丈夫、という意味だと、俺には、分かった。
レオンが、草の上の剣を、拾い上げた。
鞘に収める。
今度は、自分の手で。
「行くぞ」
短く言う。
白い手は、まだ、こちらを向いたままだった。
だが、判定の糸は、もう、届かない。
距離が、開いている。
一行は、光の柱とは逆の方角へ、駆けた。
草を蹴る音。
息を殺した足音。
振り返らずに、進む。
白い手が、追ってくる気配は、なかった。
その代わり、遠くから、平らな声が届く。
「――随伴物、選別対象、離脱。……記録、更新」
声に、感情はない。
ただ、事実だけを、記していく声だった。
記録は、更新されても、俺たちは、まだ、ここにいる。
それだけで、十分だと、思った。
しばらく走ってから、ミミルが、足を止めた。
息が、荒い。
「……現地住民。それだけで、私は、破棄、なんですね」
声が、震えている。
「さっき、私は、あなたに、言いました」
「書かれた言葉が、その子の全部だとは、思わない、と」
「今度は、自分の番でした」
声には、震えが、まだ、残っていた。
それでも、止まらなかった。
沈みながら、ミミルが何を考えていたのか、俺には、すぐに、分かった。
ミミルが、俺の殻を、そっと、なぞる。
「怖かったです。でも……あなたが、いてくれました」
俺は、右へ揺れた。
伝えたいことは、多すぎて、一つに絞れない。
それでも、右へ揺れた。
それだけで、伝わる気がした。
アリアが、感応針を、そっと、しまいながら、呟いた。
「再配置……戻れる場所は、もう、ありません」
「それでも、私は、ここに、立っていられます」
声に、迷いは、なかった。
ミミルが、その横で、小さく、頷いた。
錆びた剣が、俺の背で、低く鳴った。
「破棄、破棄……何度、言われても、慣れねえもんだな」
声に、いつもの皮肉が戻っている。
「悪くねえよ。……お前らが、拾いに来てくれる限りは」
角兎が、剣へ、鼻先を、軽く押し当てた。
黒竜が、翼を、大きく広げ直す。
『我が、守っていたものも……あの見張り台の下の者たちも』
『判定一つで、消えるものでは、ない』
『それだけは、我が証だ』
声に、力が戻っていた。
勇者、聖職者、現地住民、随伴、旧守護種、試作。
言葉は、みんな、違う。
それでも、行き着く先は、同じだった。
誰かが、決めた枠に、押し込まれること。
俺たちは、その枠から、抜け出した。
一人でじゃない。
みんなで。
レオンが、腰の剣に、触れる。
「拾い直したのは、あいつらに従うためじゃねえ」
「俺が、また、選んだだけだ」
草の上に置いた、あの一瞬。
軽くなったわけじゃ、ない。
むしろ、その重さを、確かめてから、また、背負い直した。
そう見えた。
俺は、自分の判定を、思い出す。
試作、廃棄済み。
もう、済んだ話。
だから、糸も、伸びてこなかった。
それでも。
拾われた今は、済んでいない。
ここにいる。
まだ、続いている。
息を整えた一行の前に、草原が、大きく開けていた。
中央に、何もない、白い、椅子のようなもの。
誰も、座っていない。
その奥に、巨大な、光る盤が、浮かんでいる。
玉座には、埃も、汚れも、なかった。
誰も、座ったことがないように、見えた。
それでも、そこには、誰かを、待っているような、静けさがあった。
盤には、無数の、文字の列が並んでいた。
まるで、世界そのものの、名前のように。
その多くの隣に、同じ言葉が、添えられている。
名前の一つ一つが、遠くの誰かの、暮らす場所を、指しているのだと、俺は、ようやく気づいた。
「……更新、済み」
アリアが、盤を見上げたまま、呟いた。
その数の多さに、誰も、すぐには、言葉を継げなかった。
風のない草原で、盤の光だけが、静かに、揺れていた。
誰も、まだ、その意味を、口にできなかった。