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トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編

第131話 / 全149話

空の玉座

約5,366字

俺たちは、しばらく、動けなかった。

 盤の光は、途切れることなく、瞬き続けている。

 名前の数は、数えようとして、すぐに、諦めるしかなかった。

 多すぎた。

 目で追うたびに、また、次の名前が、視界に入ってくる。

 終わりが、見えなかった。

 誰も座っていない、あの白い椅子を、なんと呼べばいいのか、俺には、分からなかった。

 それでも、頭に浮かぶ言葉は、一つしかなかった。

 空の玉座。

 誰かのために、用意されたまま、誰も座らなかった場所。

 表面には、装飾の、一つもなかった。

 ただ、白いだけの、椅子だった。

 草原の光は、変わらず、どこからともなく、満ちている。

 それでも、この場所だけ、空気の重さが、違う気がした。

 ミミルが、俺の籠を、抱いたまま、玉座の方へ、視線を、向ける。

「……誰も、座ったことが、ないのに」

「なぜ、こんなに、静かなんでしょう」

 その問いに、応じる声は、なかった。

「静かすぎて、気味が、悪いくらいだ」

 レオンが、剣の柄に、手を、添えた。

 抜く構えではない。

 ただ、確かめるような、仕草だった。

 アリアが、一歩、前へ出る。

 感応針を、構え直した。

 鑑定板も、懐から、取り出す。

 両方を、盤の光へ、向けた。

「……調べても、いいですか」

 誰へ問うでもない、静かな声だった。

 答える者は、いない。

 それでも、アリアは、針を、盤の縁へ、そっと当てた。

 針の先が、震える。

 いつもより、細かく、速く。

 鑑定板の面に、文字が、浮かんでは、消えていく。

 俺には、読めない速さだった。

 アリアの目が、その文字を、追い続ける。

「……これは」

 声が、掠かすれた。

 ミミルが、俺の籠を、抱き直しながら、近づく。

「アリアさん、何が」

 答えるまで、少し、間があった。

「更新済み、というのは……作り直された、という意味です」

「壊されて、また、一から、生まれ直した、世界」

「一から……」

 ミミルの声が、小さく、震える。

「今の、街や、谷や、廃村も……同じように、消されて、また、作り直される、ということですか」

 誰も、頷うなずけなかった。

 頷くことは、まだ、できなかった。

 その言葉が、草原の空気を、重くした。

 レオンが、玉座の方角を、見据える。

「……この世界が、初めてじゃ、ねえってことか」

 誰も、すぐには、答えなかった。

 答えられなかった、というのが、正しい。

 俺は、盤の文字の列を、もう一度、見上げた。

 名前は、途切れることなく、地平の向こうまで、並んでいる。

 その一つ一つが、誰かの、暮らしていた場所だったはずだ。

 街があり、森があり、廃村があり、谷があった、場所。

 俺たちの世界と、同じ形をした場所。

 一つや、二つじゃない。

 十や、百でも、足りない。

 見渡す限り、並んでいる。

 この一行だけが、特別に、選ばれて、狙われたわけじゃなかったのだと、俺は、今更、思い知らされる。

 同じことが、数えきれないほど、繰り返されてきた。

 その中の、ただの一つが、俺たちの世界だった。

 ミミルが、俺の籠を、強く、抱き直す。

「こんなに、多くの世界が……」

 声が、続かなかった。

「原本にも……これほどの数は、一度も、記されていませんでした」

 アリアの声も、掠れていた。

「知られていない、というより……記す者が、誰も、いなかった、ということです」

「――問い合わせ、受信」

 盤の中央から、初めて、平らな声が、響いた。

 誰も、動けなかった。

 声には、抑揚も、感情も、なかった。

「本盤は、運用記録の、閲覧端末です」

「意思決定の、機能は、持ちません」

 アリアの手が、針を握ったまま、止まる。

「では……この場所を、決めているのは、誰なんですか」

 問いに、一拍の、間があった。

「神々は、不在です」

 その一言が、静かに、落ちた。

「運用規格のみが、運用を、継続しています」

 誰も、息を、しなかった。

「……不在……ですか」

 アリアの声が、震える。

「最初から、いなかった、ということですか。それとも……」

「記録に、不在の、開始時期は、ありません」

「観測された、限りでは……常に、不在でした」

 その一言が、決定的だった。

 最初から。

 ずっと。

 誰も、そこには、いなかった。

 アリアの膝が、崩れかける。

 感応針が、手から、滑り落ちかけた。

 法衣の裾が、力なく、揺れる。

 立っている、というより、かろうじて、崩れていないだけに、見えた。

 俺は、殻の中で、叫びたかった。

 声は、出ない。

 念話で届けられるのは、一言か、二言が、限界だった。

 届けたくても、届けられない言葉が、こんなに、あることを、俺は、初めて、思い知った。

「アリアさん」

 ミミルが、腕を、伸ばしかける。

 だが、届く前に、アリアの足が、止まった。

 崩れ落ちる、その途中で。

「……承認は」

 声が、掠れながらも、続いた。

「承認は、どうやって……下りたんですか」

 盤が、答える。

「規格が、定める、閾値に、到達しました」

「修復費用、基準値、超過」

「該当する、世界の、破棄範囲を、選定」

「選定は、判断ではなく、算定です」

「意思は、介在していません」

 誰かが、決めたわけじゃない。

 誰かが、この世界を、憎んだわけでも、裁いたわけでもない。

 ただ、数字が、線を、越えた。

 それだけだった。

 あの日、聖都の空に、初めて、亀裂が、走った朝を、俺は、思い出す。

「修復費用、基準値超過」

 あの時、そう告げた声と、今、目の前で語られている理屈は、同じものだった。

 あれは、始まりの合図であると同時に、もう、答えそのものでもあった。

 俺たちは、ずっと、その答えの中を、歩いてきたのかもしれない。

 レオンが、拳を、握る。

「……敵も、いねえのか」

 声に、行き場のない怒りが、滲にじんでいた。

「殴る相手すら、いねえってことかよ」

 誰も、口を、開かなかった。

 盤は、ただ、光り続けている。

 アリアが、膝を、地面についた。

 感応針が、草の上に、落ちる。

 拾おうとする気力すら、失われたように、見えた。

「……私は」

 声が、絞り出される。

「ずっと、祈って、きました」

「聖女だった頃も……名を返した、後も」

「相手が、人ではないと、知った時も……まだ、どこかに、誰かが、いると、思っていました」

「でも」

 言葉が、そこで、詰まった。

「誰も、いなかった、んですね」

 誰も、答えられなかった。

 答える資格が、あるとすれば、それは、俺だけだったのかもしれない。

 だが、俺には、声がない。

 殻継かくけいの感触を、伸ばすことしか、できない。

 俺は、アリアの方へ、微かに、それを、伸ばした。

 継ぐためじゃない。

 ただ、そこにいると、伝えるためだった。

 アリアが、顔を、上げる。

 その目に、涙は、なかった。

 ただ、深い、空白があった。

 俺の籠へ、視線を、落とす。

 その時、何かが、アリアの奥で、動いたのが、分かった。

 思い出したように、口が、開く。

「……私は、以前」

 声が、まだ、掠れていた。

「世界樹の根元で、言いました」

「祈りの先に、神様なんて、いなかったかもしれません。それでも……この子は、ずっと、応えていた。誰かの祈りに」

 俺の中で、その言葉が、鮮明に、蘇る。

 あの時、アリアは、確かに、そう言った。

 まだ、半信半疑だったはずの、あの言葉を。

「あれは……願望では、なかったんですね」

 アリアの手が、震えながら、草の上の感応針を、拾い上げる。

「神様が、いなくても」

 声に、少しずつ、力が、戻っていく。

「祈りは、誰かに、届いていました」

「エッグに、届きました」

 その一言が、俺の殻の奥まで、まっすぐ、届いた。

 俺は、思い出す。

 あの日、大神殿の祭壇で、アリアは、白い肩掛けを、外した。

「祈りは、捨てません」

 そう、言い切った日。

 あの時は、まだ、祈る先が、人ではないと知っただけだった。

 どこかに、何かが、いるという前提は、消えていなかった。

 今は、違う。

 相手は、最初から、どこにも、いなかった。

 それでも、アリアは、今、膝を、自分の力で、持ち上げようとしている。

 あの日より、ずっと、深い場所から。

 アリアが、自分の足で、立ち上がる。

 誰の手も、借りずに。

「聞いてくれる神様が、いなくても……届く相手が、いる」

「今は、それだけで、十分です」

 声に、迷いは、もう、なかった。

 ミミルが、そっと、息を吐いた。

 黒竜が、低く、唸うなる。

『……強い、女だ』

 誰も、否定しなかった。

 レオンが、玉座の方へ、視線を、戻す。

「じゃあ、聞くが」

 盤へ、まっすぐ、問いかけた。

「これを、止める方法は、あるのか」

 盤が、応える。

「取り消しの、権限は」

 一拍。

「どこにも、存在しません」

 同じ、言葉だった。

 外縁で、聞いた、あの声と。

 それでも、今度は、俺の中で、違う響き方をした。

 あの時は、絶望に、近かった。

 今は、もう、知っている言葉だった。

「……分かってる」

 レオンが、それでも、食い下がる。

「権限がねえのは、聞いた。だが、それだけじゃ、終わらねえ理屈が、あるはずだ」

 沈黙が、少し、続いた。

「実行には」

 盤が、続けた。

「当事者による、孵化ふかの、確定が、含まれます」

「当事者って言うのは……オルビスの、ことか」

 レオンの問いに、盤は、直接、答えなかった。

 代わりに、言葉を、続けた。

「孵化を、拒む、個体は」

「実行対象から、除外されます」

「除外……つまり、その個体だけは、対象から、外れると」

 アリアが、確かめるように、問う。

「その通りです」

「意思による、除外は、規格が、唯一、認めている、例外です」

 誰も、すぐには、言葉を、継げなかった。

 止める権限は、どこにもない。

 だが、孵かえる当人が、孵ることを、拒めば。

 実行そのものが、成り立たない。

 これは、誰かを、倒す話じゃない。

 誰かに、拒んでもらう話だ。

 ミミルが、静かに、呟つぶやく。

「欠陥は、終わりじゃない……ずっと、そう、思ってきました」

「拒むことも、同じなのかもしれません」

「完全だから、拒めないのだとしたら……ひびがあるということは、拒める、ということでも、あるんですね」

 その言葉に、俺は、右へ、揺れた。

「なら、話は、簡単だ」

 レオンが、笑うでもなく、言った。

「向こうに、拒む理由を、作ってやりゃあいい」

 俺の殻の奥が、静かに、熱くなる。

「じゃあ……オルビスに、拒ませりゃ、いいのか」

 レオンの声に、初めて、光が、差した。

 盤の答えは、変わらず、平らだった。

「対象に、拒否の、履歴は、ありません」

「一度も」

 その一言が、また、場の温度を、下げた。

「観測された、限りでは……対象は、迷ったことが、ありません」

 迷わない。

 一度も。

 迷わない、ということは。

 俺には、ある、ということだ。

 ひびがあるから、俺は、迷える。

 この違いが、今は、頼りだった。

 黒竜の瞳が、細くなる。

『……悪意のなさが、恐ろしいと、我は言った』

『迷いのなさも、同じだ』

『選ばぬのではない。選ぶという、発想そのものが、ない』

 低い声が、静かに、落ちる。

 アリアが、静かに、頷く。

「選べない、ということは……縋すがることも、できない、ということですね」

「私たちには、まだ、選べることが、残っています」

 錆さびた剣が、俺の背で、低く、鳴った。

「拒むって選択肢が、初めから、無い奴に、拒めって言うのか」

「そりゃ、随分と、分の悪い、賭けだな」

 誰も、笑わなかった。

 それでも、絶望ではなかった。

 道は、あった。

 細くても、確かに、あった。

 俺は、自分の中で、一つの考えが、頭をもたげるのを、感じた。

 拒めば、止まる。

 なら、俺も。

 いや。

 俺は、すぐに、その先を、打ち消した。

 俺は、世界卵せかいらんではある。

 だが、オルビスじゃない。

 あの完全な殻と、俺の、ひび割れた殻は、同じ言葉で、括れるものじゃない。

 拒むという理屈が、俺にも当てはまるのか。

 当てはまらないのか。

 それすら、今は、分からない。

 答えを、急がなかった。

 急いで、間違えるには、あまりに、大きすぎる問いだった。

 角兎つのうさぎが、俺の殻に、そっと、鼻先を、押し当てる。

 考え込んでいるのを、見抜かれた、気がした。

 ミミルが、俺の殻を、指先で、軽く、叩いた。

 一度。

 それきりだった。

 今は、そこまででいい、という、合図のようだった。

 その時、盤の光の一部が、揺らいだ。

 文字の列の中、ひときわ大きな、一つの印。

 これまで「保管領域、待機中」と、記されていたはずの場所。

 その表示が、静かに、切り替わる。

「世界核へ、到達」

 誰かが、息を、呑んだ。

 玉座の後ろ、それまで何もなかったはずの床に、丸い、白い口が、開いていく。

 管のような、まっすぐな、下り口だった。

 底は、見えない。

 ただ、遠くから、低い、重い響きが、かすかに、伝わってくる。

 俺の罅ひびの地図が、その響きに、呼応して、疼うずいた。

 止めるための、疼きじゃない。

 辿り着くべき場所を、示す、疼きだった。

 管の縁に、模様は、なかった。

 滑らかで、迷いのない、曲線だった。

 まるで、最初から、そこにあることを、疑ったことすら、ない、というように。

「……あそこに」

 アリアが、白い管を、見据える。

「オルビスが」

 黒竜が、翼を、大きく、広げる。

『行くぞ』

 短い、念話だった。

 迷いは、もう、その声に、残っていなかった。

 角兎が、白い管の縁まで、先に、駆け寄り、一度、地面を、強く、踏んだ。

 いつもの、合図。

 俺の背で、錆びた剣が、掠れた声を上げる。

「賭けの相手が、拒めるかどうかも、分からねえ相手たあ、剣呑だな」

「それでも、行くしかねえんだろ」

 軽口の下に、覚悟が、滲んでいた。

 ミミルが、俺の籠を、しっかりと、抱き直す。

「行きましょう」

 もう、その声に、迷う色は、なかった。

 誰も、頷く必要は、なかった。

 行くしかない。

 その一点で、迷う者は、誰もいなかった。