トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編
第132話 / 全149話
判定不能
白い管の中は、思っていたより、静かだった。
翼の音も、衣擦れも、音になる前に、丸い壁へ、吸われていく。
風は、ない。
匂いも、ない。
神の庭と、似ている。
それでも、違う場所だと、殻の奥で、分かった。
壁に、模様は、なかった。
ただ、なめらかな曲線が、下へ、下へと、続いている。
黒竜が、翼を、すぼめて、慎重に、降りていく。
その背で、ミミルが、俺の籠を、しっかりと、抱いていた。
角兎が、その肩口に前脚をかけて、下ばかりを、じっと見ている。
錆びた剣が、俺の背で、低く、呟いた。
「静かすぎる場所は、あんまり、好きじゃねえ」
「静かな場所ほど、後で、うるさくなる」
誰も、それに、笑わなかった。
だが、否定もしなかった。
レオンが、剣の柄に、手を、添えたまま、進む。
「……何が、待ってようが、驚かねえよ、もう」
その声にも、以前ほどの、強がりは、なかった。
むしろ、静かな、覚悟の色に、近かった。
低く、重い響きが、下から、絶えず、伝わってきた。
一つだと、思っていた。
耳を澄ますほど、その奥に、もう一つ、違う律動が、隠れている気がした。
まだ、遠い。
まだ、確かめられない。
拒めば、止まる。
あの問いを、俺は、まだ、自分の中に、置いたままだった。
答えは、出ていない。
それでも、今は、答えを急ぐ場所じゃない、という感覚だけが、はっきりしていた。
ミミルの腕の中で、籠が、小さく、揺れる。
「……エッグ、寒く、ないですか」
俺は、左へ、揺れた。
寒さは、感じない。
それでも、聞いてくれたことが、殻の奥を、少しだけ、温めた。
管が、不意に、広さを増した。
壁の曲線が途切れ、丸い、踊り場のような場所に、出る。
その中央に、白い仮面が、立っていた。
裾が、風もないのに、揺れている。
「――随伴、規格外個体」
平らな声が、久しぶりに、響いた。
抑揚のなさは、変わらない。
「未処理、を、確認」
レオンが、腰の聖剣に、手を、添える。
「……まだ、いたのかよ」
「本端末の、役目は」
声が、続く。
「実行を、見届けること」
「その役目は」
「まだ、終わっていません」
外縁で聞いた、あの言葉と、同じだった。
だが、続いた言葉は、違った。
「完全廃棄、再実行」
俺の殻の奥が、冷たくなる。
その言葉に、覚えが、あった。
「……また、それを」
ミミルの腕が、俺を、強く、抱き寄せる。
「一度も、話を、聞きません」
「対話は、実行の、条件では、ありません」
「承認は、既に、完了しています」
声が、続く。
「随伴、規格外個体の、消去は、実行の、完了条件に、含まれます」
アリアが、感応針を、握り直した。
「一度、退かせたはずです」
「退避は、撤退では、ありません」
「機能を、再配置しただけです」
黒竜が、低く、唸った。
『……何度でも、来る、ということか』
「規格に、回数の、制限は、ありません」
平らな声が、応える。
誰も、その言葉に、驚かなかった。
驚くには、もう、慣れすぎていた。
白い仮面の両袖の内側から、糸ではなく、白い光の粒が、幾つも、こぼれ落ちた。
ミミルが、俺の籠を抱いたまま、とっさに、体を、丸め込む。
自分の体で、覆うつもりだった。
粒は、まっすぐ、俺の籠へ、群がっていく。
ミミルの腕を、すり抜けて。
「……エッグ……!」
叫び声が、粒の向こうで、遠くなる。
レオンが、聖剣を、光の粒へ、振り下ろした。
刃が、そのまま、粒を、通り抜けていく。
手応えは、なかった。
「――なんだ、こいつ……!」
アリアが、感応針を、突き立てる。
糸には効いたはずの、その一撃も、今度は、粒に、弾かれるだけだった。
「効き、ません……!」
黒竜が、爪を、振るう。
『……退け……!』
念話に、初めて、焦りが、滲んでいた。
届く前に、粒が、俺の籠を、覆い尽くしていた。
角兎が、体ごと、突っ込もうとして、見えない壁に、弾かれる。
地に転がりながらも、すぐに、体を起こし、また、駆け寄ろうとする。
錆びた剣が、叫んだ。
「おい、聞いてんのか、白い仮面……!」
前は、これで、隙ができた。
今度は、何も、変わらなかった。
「声は、届きません」
平らな声が、告げる。
「この処置に、対話の、余地は、ありません」
誰の力も、届かない。
誰の声も、聞かれない。
それでも、誰一人、諦めていなかった。
諦めないという、その一点だけが、今の俺には、何よりの、支えだった。
殻に、触れられない。
それでも、ミミルは、空を、三度、叩いた。
こつ、こつ、こつ。
触れられなくても、届くと、信じているような、仕草だった。
その振動が、罅を伝って、俺の中へ、流れ込んでくる。
光の粒が、殻に、触れる。
痛みは、なかった。
あの日と、同じだった。
仲間の声が、遠のいていく。
叫び声も。
剣の音も。
膜に囲まれた、あの通路と、同じ静けさが、粒の内側に、満ちていく。
殻の、いちばん外側から、輪郭が、薄くなっていく。
殻に、ひびが、広がっていく。
覚えているはずのものが、端から、欠けていくのが、分かった。
止められない、と、分かった。
工房の、薬草の匂い。
谷底で、剣に殻片を託した、あの夜の手つき。
廃村の、地下蔵の、土の匂い。
世界樹の、樹皮の、乾いた手触り。
外縁の面を、ミミルが踏んだ時の、殻を弾いたような音。
誰も座らなかった、あの白い椅子の静けさ。
アリアが、自分の足で、立ち上がった、あの瞬間の、空気。
どれも、まだ、あった。
まだ、失っては、いなかった。
それでも、輪郭が、少しずつ、薄くなっていく。
殻が、灰に、変わり、灰が、光の粒に、変わっていく。
静けさが、近づいてくる。
名前が、遠くなる。
顔が、霞んでいく。
その先に、何もない場所が、待っていることを、俺は、もう、知っていた。
だが。
殻の奥、罅の地図の一つ一つが、消える代わりに、疼き始めた。
遠くから。
あちこちから。
同時に。
こつん、こつん、こつん。
谷の、宝箱の律動だった。
規則正しく、途切れず、届く。
脚のない箱が、それでも、写しを守り続けている、あの意地の音だった。
続けて。
怯えた、小さな鼓動が、幾つも。
逃げる方向には、動かない。
廃村の、あの子たちの、鼓動だった。
卵様、と、まだ、呼んでくれる声が、震動の底に、確かに、混じっていた。
もう一つ。
規則正しく、軋むような、低い振動。
街の、壁を支える、二枚重ねの層が、耐え続ける、あの音だった。
誰かが、今も、その縁を、支え続けている。
休むことも、忘れたような、根気強さだった。
最後に。
もっと、遠く、もっと、深く。
大きすぎて、輪郭を摑めない鼓動の、端。
殻の中の、小さな芽が、それに、応えて、震えた。
世界樹の、根の傍らに、まだ、立っている誰かの、気配だった。
掟を破ってまで、道を開いてくれた、あの震える声の、続きだった。
あの日、施設の虚無で届いたのは、三つの音だった。
こつ、こつ、こつという、殻を叩く音。
とん、とん、とんという、足踏み。
かたん、という、剣を置く音。
外にいるはずのない場所から、届いた、奇跡だった。
今は、違う。
外は、もう、ない。
俺自身が、この世界の、罅そのものだからだ。
谷も、廃村も、街も、世界樹の根も。
ミミルの、届かなかった指先さえも。
どこも、俺の、外側じゃない。
全部、俺の、殻の、続きだった。
消そうとしても。
消える場所が、この世界のどこにも、なかった。
あの日、俺を拾い上げてくれた手は、たった一つだった。
今、俺を引き止めているのは、数えきれない、たくさんの手だった。
拾われた側から、世界そのものと繋がる側へ。
いつの間にか、そんなに遠くまで、来ていたのかと、俺は、思った。
光の粒が、震える。
殻を、覆う速さが、鈍る。
「――出力、増強」
平らな声が、告げた。
粒の光が、一段、強さを、増す。
殻の奥、罅の疼きも、それに、応じて、強くなった。
谷の律動が、廃村の鼓動が、街の振動が、世界樹の応えが、一斉に、殻の芯へ、流れ込んでくる。
押し合う力が、殻の内側で、鈍く、軋んだ。
それでも、消えなかった。
止まる、というより、迷っているように、見えた。
「――算定、継続」
平らな声に、初めて、間が、空いた。
「対象、消去、不成立」
光の粒が、一つ、また一つと、力を失って、地に落ちていく。
俺の籠が、また、視界を、取り戻す。
ミミルの手が、そこに、あった。
「エッグ……!」
白い仮面が、こちらへ、向き直る。
しばらく、何も、言わなかった。
「――規格外個体、再測定」
声が、続く。
「完全廃棄、対象、として、扱えません」
「意識体、経験記録、因子紋、殻の欠片」
「いずれも、単独では、存在しません」
「全て、罅として、世界と、連続しています」
「判定、不能」
一拍、置いて。
「規格外は、規格では、測れません」
誰も、口を、挟まなかった。
挟む、隙が、なかった。
白い仮面の、裾の揺れが、止まる。
「見届ける、役目は」
声に、初めて、平らでない、何かが、混じった気がした。
気のせいかもしれない。
「ここで、終わります」
それだけを、告げて、白い仮面は、動かなくなった。
誰も、近づかなかった。
近づく理由が、見当たらなかった。
それでも、角兎が、低く、身を沈めたまま、じりじりと、間合いを詰める。
鼻先が、仮面の縁に、触れた。
布のような裾が、力を失ったように、地に、崩れ落ちる。
仮面も、支えを失って、傾ぐ。
仮面の下には、何も、なかった。
目も。
口も。
顔の、輪郭さえも、そこには、なかった。
仮面は、誰かを、覆っていたのではなかった。
仮面そのものが、最初から、全部だった。
アリアが、崩れた布へ、静かに、目を、落とす。
「……祈る相手が、いなかった、あの盤と」
「同じ、なんですね」
声に、驚きより、静かな、納得が、滲んでいた。
「誰も、いない場所に、役目だけが、あった」
誰も、それを、否定しなかった。
レオンが、崩れた布へ、目を、細める。
「仮面があるうちは、何かが、いる気が、してたんだけどな」
「本当は、逆だったのかもな。……仮面が、なくなって、初めて、誰も、いなかったと、分かった」
その言葉に、誰も、頷かなかった。
それでも、誰も、間違っているとは、思わなかった。
黒竜が、崩れた布の残骸へ、視線を、落としたまま、動かなかった。
しばらくして、低く、呟く。
『……あいつも、こんな、顔を、していたのだろうか』
外縁で語った、あの一体のことだと、すぐに、分かった。
退けと言っても、決して、退かなかった、あの同胞のことを。
誰も、答えを、持っていなかった。
レオンが、聖剣を、鞘へ、戻す。
「……勝った、気は、しねえな」
「はい」
アリアが、静かに、頷く。
「これは、負かした、というより……役目が、なくなった、ということだと、思います」
ミミルが、俺の殻を、両手で、包んだ。
声が、震えていた。
「怖かった、です」
「本当に、怖かった」
声が、まだ、震えている。
「触れられなくて……何も、できなくて」
「それでも、叩くことしか、できなくて」
「それでも、良かったんです」
ミミルが、殻へ、額を、そっと、押し当てる。
「届いて、くれて……ありがとう、ございます」
俺は、右へ、揺れた。
俺も、怖かった。
だが、いちばん怖かったのは、消えることでは、なかった。
ミミルの手の届かない場所へ、俺だけが、行ってしまうことだった。
殻の奥が、まだ、軋んでいる。
消されかけた分だけ、数字は、重くなっていた。
それでも、消えなかった。
その事実の方が、今は、ずっと、重かった。
角兎が、俺の籠の縁に、鼻先を、押し当てる。
いつもより、長く、触れたままだった。
無事を、確かめているような、仕草だった。
俺は、右へ、小さく、揺れた。
ここに、いる。
まだ、ちゃんと、ここに、いる。
黒竜が、崩れた布の脇を、そっと、通り抜ける。
『……行こう』
誰も、異を、唱えなかった。
管は、まだ、下へ、続いている。
角兎が、先に、進み出す。
錆びた剣が、背中で、小さく、鳴った。
「判定、不能、か。……悪くねえ、称号だぜ」
俺は、右へ、揺れた。
悪くない、と、思った。
アリアが、鑑定板を、そっと、懐へ、しまう。
「表示されるとしたら……危険度は、なし、のままでしょうか」
「食用は、不可、素材価値は……測定、不能、でしょうか」
いつもの、真面目な口調で、アリアが、数えている。
それが、今は、誰よりも、俺の心を、軽くしてくれた。
ミミルが、小さく、笑った。
久しぶりに見る、笑い方だった。
「それは、きっと、これまでと、同じです」
しばらく、静かな、下りが、続いた。
壁の白さが、少しずつ、濃さを、増していく。
冷たかった空気が、いつの間にか、体温に近い、温かさへ、変わっていた。
黒竜の、継がれた脇腹の傷が、その温かさに、微かに、疼く。
やがて。
底の方から、また、あの重い響きが、はっきりと、届き始める。
一つじゃない。
二つだった。
ひとつは、ひび割れた、途方もなく巨大な、何かの、脈動。
もうひとつは、ひとつも罅の入っていない、傷ひとつない、卵の、鼓動。
二つが、重なりながら、下から、迫ってくる。
どちらも、俺の、ずっと先にあるはずの、姿だった。
罅だらけの、途方もなく大きな、傷ついた核。
罅ひとつない、完全な、卵。
二つの間に、俺は、これから、立つことになる。
俺の罅の地図が、その両方に、同時に、応えて、疼いた。
判定不能、という言葉が今回の一番書きたかった台詞でした。
測る側の言葉で測れないものを、そのまま置いていく終わり方にしたかったです。
次はいよいよ世界核へ到達します。