トップ / 目次 / 第七部 完全世界卵オルビス編
第133話 / 全149話
世界核
白い壁が、不意に、途切れた。
視界が、一気に、開ける。
黒竜の背から見下ろす先に、これまでのどの広間よりも、途方もなく大きな空間が、広がっていた。
天井は、見えない。
床の端も、見えない。
ただ、遠くまで、柔らかな乳白色の光だけが、満ちている。
音が、それまでより、深く、響くようになっていた。
風は、ないのに、空気そのものが、脈打っているように、感じられる。
聖都の尖塔も、世界樹の幹も、この広さの前では、小さく思えるほどだった。
その中央に――二つの、巨大な、影があった。
黒竜が、翼を大きく傾け、ゆっくりと、高度を、落としていく。
降りるほどに、影の輪郭が、はっきりしてきた。
一つは、罅だらけだった。
人の背丈の、何十倍もある、古い、丸い塊。
表面の全体に、網目のような罅が、幾重にも、走っている。
その罅の一本一本が、俺の殻の奥にある地図と、寸分、違わない形をしていた。
交わり、分かれ、また交わる、その律動まで、同じだった。
もう一つは、その、すぐ隣に、浮かんでいた。
白く、滑らかで――ひびが、一本も、なかった。
継ぎ目すら、見当たらない、完璧な、殻。
覚えのある、姿だった。
「……あれは」
ミミルの声が、震える。
「オルビス」
二つの巨体は、どちらも、乳白色の、大きな、窪みに、収まっていた。
誰も座らなかった、あの白い玉座と、同じ材質の、窪みだった。
窪みの縁は、滑らかで、迷いのない、曲線を、描いている。
古い核は、その窪みの、中心に、深く、根を、下ろすように、収まっていた。
オルビスは、まだ、窪みの、縁の方に、寄り添っているだけだった。
だが、その距離は、見ている間にも、少しずつ、縮まっている。
黒竜が、その手前で、翼を、たたんで、慎重に、着地する。
開けた床は、石でも、金属でもなく、乳白色の、なめらかな面だった。
ミミルが、俺の籠を、抱いたまま、黒竜の背を、そっと、降りる。
レオンとアリアも、続いて、地に、足を、つけた。
角兎が、真っ先に、床を、確かめるように、匂いを、嗅いだ。
これ以上、近づくことに、誰もが、迷いを、見せた。
どくん。
どくん。
二つの鼓動が、重なりながら、広間の空気を、震わせている。
一つは、罅の軋む、鈍く、重い、律動。
もう一つは、ひとつの澱みもない、規則正しい、音。
どちらも、俺の殻の奥に、同時に、響いていた。
古い核からは、疼きを抱えたまま生きている者の、温かさが伝わってきた。
オルビスの方からは、何も、伝わってこない。
温もりも、匂いも、ない。
あの、保管領域で、薬すら弾かれた時と、同じ、拒み方だった。
黒竜の体が、一瞬、こわばった。
『……あの、卵か』
念話に、初めて聞く、色があった。
恐れとも、確信ともつかない、低い、震え。
「知ってる、のか」
レオンが、聖剣の柄に、手を、添えたまま、問う。
『あの日、外縁で、孵されかけた、あの卵だ』
『我らが、止めたのは、あの一度、だけだった』
黒竜が、古い核へ、視線を、移す。
『これは……あの日、卵を、迎え入れかけていた、器か』
『覚えている、気がすると言った、あの日の、続きが……ここに、あったのか』
アリアが、感応針を、そっと、掲げた。
針先が、震え、二つの方向へ、同時に、引かれる。
「……針が、迷っています」
「古い核と、オルビス、どちらの、反応も、拾ってしまって」
続けて、鑑定板を、そっと、構えた。
指先が、微かに、震えている。
「……測り、きれません」
アリアが、鑑定板を、静かに、下ろす。
「これまでの、どの対象とも、違います」
「大きすぎて……板の、外まで、はみ出しているような、感覚です」
ミミルが、帳面を、開こうとして、やめた。
「書き、留められる、気が……しません」
「それでも、私は、見ています。ここに、確かに、あるものとして」
その言葉に、誰も、異を、唱えなかった。
錆びた剣が、俺の背で、低く、唸った。
「罅だらけの、化け物みてえな、大きさだ」
「それでいて……なんだか、懐かしい、匂いがする」
俺も、同じことを、感じていた。
工房の、薬草の匂いとも、廃村の、土の匂いとも、違う。
もっと、遠く、もっと、根の深いところにある、覚えのある、匂いだった。
罅だらけの核から、微かに、こちらへ、呼びかけるような、疼きが届く。
殻の奥の地図が、その一つ一つの罅と、静かに、重なっていく。
まるで、初めから、一つのものだったかのように。
ミミルが、俺の籠を、抱き直した。
「エッグ、大丈夫、ですか」
俺は、右へ、揺れた。
怖くは、なかった。
それより、強く、感じたのは――懐かしさだった。
自分の、ずっと、先にあった姿だと、殻の奥が、告げていた。
古い核の傍らで、オルビスが、緩やかに、身じろぎした。
殻の表面が、光を、返しながら、揺らぐ。
白い巨体が、少しずつ、古い核へ、体を、寄せていく。
核の縁が、軋んで、わずかに、位置を、ずらされた。
押し退けられている。
殻が、殻を。
「……入れ替わろうと、してやがる」
レオンの声が、低く、掠れた。
「あの、罅だらけの奴と、あそこの、傷一つない奴が」
「同じ、場所に、収まる、器だってのか」
黒竜が、低く、唸る。
『あの日も、そうだった』
『白い仮面たちは、この座へ、白い卵を、収めようとしていた』
『我らが、抗わなければ……あの日、既に、入れ替わっていた』
その声に、古い痛みが、滲んでいた。
見張り台の縁に、鱗の欠片を、置いてきた、あの一体のことを、思い出しているのだと、分かった。
「もし……入れ替わって、しまったら」
ミミルの声が、掠れる。
「エッグの中の、罅の地図は、どうなる、んでしょうか」
誰も、すぐには、答えなかった。
俺自身、答えを、持っていなかった。
地図の元が、消えてしまえば――俺の殻の罅も、行き場を失うのかもしれない。
考えかけて、俺は、それを、今は、脇へ、置いた。
今、確かめるべきことじゃない。
「今度は……その、抗う役が」
アリアが、そこで、言葉を、切る。
「俺たちに、回ってきたってことか」
続きを引き取って、レオンが、聖剣の柄を、握り直した。
その顔に、恐れよりも、覚悟の色が、強くなっていた。
黒竜が、低く、続けた。
『あの日と、違うのは――我が、一人ではないことだ』
その言葉に、誰も、何も、返さなかった。
だが、誰の顔にも、同じ、静かな、頷きがあった。
アリアが、握っていた、感応針を、じっと、見つめる。
「保管領域の、文字盤に……ありました」
「一、オルビス、孵化。二、旧世界、破棄。三、新世界、再構築」
「目の前の、これは……その、一番目が、進んでいる、ところなんですね」
誰も、それを、否定しなかった。
ミミルが、俺の籠を、そっと、抱き直す。
「止める方法は……まだ、分かりません」
「それでも、来た意味は、あったと思います」
レオンが、低く、続けた。
「二番目が、始まる前に……止める。それだけだ」
しばらく、誰も、動かなかった。
近づく勇気も、退く理由も、見当たらなかった。
錆びた剣が、試すように、低く、声を、放った。
「……おい。聞こえてんのか」
返る、反応は、なかった。
声というものが、この場所では、初めから、意味を持たないようだった。
オルビスの殻の一点が、ふと、淡く、光った。
小さな、灯りのような、震え。
その光が、俺の殻の奥、罅の地図の一点と、静かに、繋がった。
触れられた、という感覚は、なかった。
それでも、殻の縁が、じん、と、熱を、持つ。
誰かに、名を、呼ばれた時のような、そんな、温度だった。
これまで、右か左、あるいは、数語の念話でしか、応えられなかった。
だが、今、殻の縁に触れているのは、糸でも、光の粒でも、ない。
何か、もっと、根の深いところで、繋がろうとする、感触だった。
声ではない。
言葉でも、ない。
それでも、確かに、意味が、流れ込んでくる。
殻の紋を通して、言葉が、流れた。
――ひび割れた、失敗作が。
――なぜ、まだ、存在している。
冷たくも、熱くも、ない。
ただ、事実だけを、確かめるような、響きだった。
俺は、驚きながらも、すぐに、悟った。
同じ、世界の殻に、繋がる、卵同士なら――殻の紋を、通して、言葉が、届く。
右か、左か、それしか、返せなかった、この俺に。
初めて、言葉そのものを、返せる、相手が、現れた。
「……エッグ?」
ミミルが、俺の籠を、覗き込む。
俺の殻が、微かに、光を、帯びていることに、気づいたようだった。
角兎が、耳を、ぴんと、立てる。
何かが、起きていると、気配だけで、察したようだった。
俺は、答えを、探した。
なぜ、まだ、ここにいるのか。
その問いに、右か左では、応えられない。
初めて、この、白い殻を、見た日のことを、思い出した。
あの日、崩壊防止薬の一滴すら、玉のように弾かれるのを、見た。
祈りすら、届かなかった。
迷いこそが、俺と、こいつを、分ける、たった一つの、違いだと、あの時、俺は、思った。
迷うから、殻が軋み、そのたびに、誰かの合図が、それを、支えてくれた。
迷いのないこいつには、支えてくれる誰かも、要らないのだろう。
あの、草原で、悟ったことも、あった。
右にも、左にも、綺麗には、押されなかった。
選ばれなかったんじゃない。
数え切れなかっただけだ。
さっき、消えかけて、悟ったことも、あった。
外が、もう、ない。
俺自身が、この世界の、罅、そのものだった。
三つの気づきが、殻の奥で、一つに、繋がっていく。
俺は、殻の紋へ、意思を、押し出した。
言葉に、しようと、思ったのは、初めてだった。
――俺は、選ばれなかったんじゃない。
――右にも、左にも、数え切れなかっただけだ。
――消えかけて、分かった。
――俺自身が、この世界の、罅、そのものだ。
――失敗作だから、ここにいる。
その意思が、殻の紋を、伝って、流れていく。
オルビスへ――そして、殻の外へも、零れ出た。
「……今」
ミミルが、息を、呑んだ。
「エッグの……声が、聞こえました」
「音じゃ、ない、けど……確かに、言葉、でした」
レオンが、目を、見開く。
「……空耳、じゃ、ねえよな」
「俺にも、聞こえたぞ、今の」
アリアが、胸の前で、両手を、握り合わせる。
「私にも……届きました」
「失敗作だから、ここにいる……そう、言ったんですね」
黒竜が、静かに、頷いた。
『……お前らしい、答えだ』
『選び直すと言った、あの日の、続きだな』
角兎が、耳を、柔らかく、伏せる。
安心したような、それでいて、誇らしげな、仕草だった。
アリアが、そっと、目を、閉じる。
「祈る相手が、いない場所でも……言葉は、届くんですね」
「聞く相手さえ、いれば」
その声に、あの草原で立ち上がった時と、同じ、静かな強さが、あった。
俺は、右へ、揺れた。
声を、出したわけじゃ、ない。
それでも、確かに、届いた。
錆びた剣が、俺の背で、掠れた声を、絞り出す。
「……長ぇ言葉、初めて聞いたぜ」
「悪くねえ、言い分だ」
ミミルが、俺の殻を、両手で、そっと、包んだ。
「初めての、長い、言葉が……私たちに、向けられたんじゃ、なかったんですね」
声に、微かな、寂しさが、滲んでいた。
だが、すぐに、それを、押しのけるように、続けた。
「それでも……嬉しいです」
「エッグの、言葉が、ちゃんと、あるって、分かっただけで」
俺は、もう一度、右へ、揺れた。
届けたかったのは、オルビスだけじゃなかった。
零れ出た、その先に、ミミルたちがいてくれて、良かったと思った。
角兎が、鼻先を、俺の殻の縁へ、そっと、押し当てる。
いつもと、違う、確かめ方だった。
俺の中に、言葉が、生まれたことを、確かめるような、仕草。
言葉を、持ったからといって、何かが、大きく変わった気は、しなかった。
それでも、殻の奥が、これまでより、少しだけ、軽くなった気が、した。
右か左かでしか、応えられなかった自分に、もう一つ、道が、増えた。
その道の先にいるのが、味方ではなく、敵だとしても。
オルビスは、しばらく、動かなかった。
殻の疼きも、意味も、返してこない。
ただ、その表面が、これまでで最も強く、白く、光り始めた。
言葉は、もう、なかった。
返事も、問いも、そこには、もう、なかった。
光だけが、こちらへ、向けられていく。
圧、としか、言いようのない、重さだった。
空気が、押し下げられるように、重くなる。
乳白色の床が、その重さの下で、微かに、軋んだ。
アリアの、感応針が、限界まで、振れる。
「……これは」
「話しかけている、圧じゃ、ありません」
「押し、潰す、圧です」
ミミルが、俺の籠を、両腕で、しっかりと、抱え込んだ。
その手が、微かに、震えているのが、殻越しにも、分かった。
黒竜が、前へ、一歩、踏み出す。
翼を、大きく、広げた。
『……来るぞ』
「知ってるぜ、そんなことは」
レオンが、聖剣を、鞘から、半分だけ、抜く。
「見りゃ、分かる」
角兎が、低く、身を、沈める。
錆びた剣が、俺の背で、静かに、鳴った。
「悪いが、俺は、まだ、退く気は、ねえよ」
ミミルが、俺の籠の紐を、両手で、しっかりと、握り直した。
「私も、です」
その声に、震えは、もう、なかった。
アリアが、感応針を、胸の前へ、構える。
祈るような、それでいて、戦うための、構えだった。
誰も、まだ、剣を、完全には、抜かなかった。
それぞれの、得物を、握る手に、力が、こもるのが、殻越しにも、伝わってくる。
それでも、誰一人、退かなかった。
俺の殻の奥、罅の地図が、古い核の、すべての罅と、同時に、疼いた。
オルビスとエッグ、二つの卵の対話でした。「意味だけの言葉」という制約の中で、エッグの初めての長い言葉が誰に向けられ、誰に零れ出るのかを書きたかった回です。
次はいよいよ、二つの殻がぶつかります。