第99話 / 全149話
殻片の買い手
城門を抜けた直後の熱気は、思ったより長く続かなかった。
貼り紙の前で、しばらく誰も動かなかった。
「秤の印……見覚えは、ありませんか」
アリアが、紙の隅を指でなぞりながら聞く。
「ヴァルム商会の意匠だ。荷馬車の焼き印で、何度か見た」
レオンが、低く答える。
俺の殻の奥が、また冷えた。
あの名前。
あの、商品価値、という言葉。
忘れたことは、一度もなかった。
拘束具の、冷たい鎖の感触も、殻はまだ、覚えていた。
あの夜以来、姿を見ていない。
それでも、消えたとは、一度も思えなかった。
「教会へ行く前に、これを確かめます」
ミミルの声は、静かだった。
「エッグの殻片を、こんなふうに買い集めているなら……放っておけません」
「賛成だ」
レオンが、頷く。
「あんたの用事は、後でいい」
「私も、そのつもりでした」
アリアが、鑑定板を胸に抱き直す。
「聖職者としての用件は、今日でなくても構いません」
「一つだけ、聞いてもいいか」
レオンが、腕を組む。
「あんたの用事は、教会の中の話だろ。放っておいて、平気なのか」
「平気ではありません」
アリアが、静かに答える。
「それでも、今、目の前にある殻片の話の方が、確かめるべきことです。教会は、逃げません」
その声には、迷いより、覚悟の方が、多く混じっていた。
方針は、揃った。
俺は、籠の中で、答える代わりに、じっとしていた。
揺れれば、人目を引く。
今は、我慢のときだった。
城門の広場を抜けると、道は緩く下りになった。
建物の色が、少しずつくすんでいく。
石畳が土に変わり、看板の文字も雑になっていく。
同じ貼り紙を、また見つけた。
柱に一枚。
塀に一枚。
几帳面な文字。
秤の印。
まるで、道しるべのようだった。
「意図的、ですね」
アリアが、貼り紙の間隔を目で追う。
「目立つ場所を選んで、繰り返し、貼ってあります」
「客を、この先へ誘導してる」
レオンが、路地の奥を顎で示す。
角兎が、先に立って歩き出した。
鼻先を、地面すれすれに下げている。
匂いを、追っているらしかった。
背の剣が、小さく軋んだ。
「……鉄屑と、油の匂いだ」
「嫌な匂いか」
「嫌いじゃない。……俺も、似たようなものだからな」
掠れた声に、感情はほとんど乗っていなかった。
それでも、俺には、少しだけ、重く聞こえた。
通りの名は、木札に彫られていた。
屑市通り。
壊れた道具、使い古した布、欠けた食器。
値のつかないものが、値をつけられて並んでいる場所だった。
城門の広場で聞いた行商人の呼び声とは、質が違う。
ここの声は、もっと嗄れていて、もっと早口だった。
売る側も、買う側も、お互いの足元しか見ていない。
子供が一人、俺たちの脇を駆け抜けていった。
裸足だった。
聖都の白い尖塔は、ここからでも見える。
だが、届く光の量が、明らかに違っていた。
その一角に、露店が並んでいた。
どの台にも、共通の紙が立てかけてある。
秤の印。
一つの台の前で、ミミルが足を止めた。
「殻片も、買い取っていますか」
「殻片? ああ、あれか」
無精髭の男が、面倒そうに答える。
「うちじゃ扱いが小さい。奥の元締めのとこだ。ひびの入った卵殻片なんて、うちらには持ち込まれても値がつけらんねえ」
「元締め、ですか」
「特別枠だよ。上から、それだけは直接買い取れって言われてる」
「元締めってのは、どんな奴なんだ」
レオンが、腕を組んで聞く。
「物腰は柔らかいさ。でも、値切ろうとすると、目が、笑わなくなる」
男の言葉に、俺の殻が、また、冷たくなった。
間違いない。
男が、路地の奥を指した。
「あそこの裏、倉庫の脇だ。今日も、いるはずだぜ」
ミミルが、小さな銅貨を一枚、台へ置いた。
「ありがとうございます」
「別に。……ここらじゃ、殻片なんて、拾ってもすぐ売っちまう。あんたらも、売る側かい」
「いいえ」
ミミルは、それ以上、答えなかった。
男は、興味を失ったように、視線を、次の客へ移した。
情報は、あっさり出てきた。
あっさりすぎて、少し怖い。
だが、確かめるしかなかった。
一行は、指された路地へ向かった。
路地は、細く、日陰だった。
喧騒が、少しずつ、遠くなる。
代わりに、荷車の軋みと、遠い鐘の音だけが、耳に残った。
角兎の耳が、ぴんと立った。
誰かがいる。
その気配だけで、分かるらしかった。
倉庫の脇、木箱が積まれた小さな空き地に、机が一つ置かれていた。
机の上には、薄い帳面と、天秤の形をした文鎮。
殻片らしき欠片が、布の上に幾つも並んでいる。
どれも、艶のない、白っぽい欠片だった。
その向こうから、声が聞こえた。
「……はい、それで結構です。確認でき次第、次の便で」
丁寧な声。
抑揚の少ない、慇懃な口調。
俺の殻の奥が、冷たく、強張った。
忘れるわけがない。
ミミルの手も、同時に強張るのが、籠越しに伝わった。
机の向こうから、男が顔を上げる。
整った髪。
穏やかな表情。
だが、目だけは、笑っていなかった。
ロイムだった。
一瞬、時間が止まった。
ロイムの視線が、ミミルの顔で止まる。
次に、ミミルの胸の籠へ。
「……まさか」
声が、初めて、揺れた。
「その卵……いや」
言い終わる前に、ロイムは踵を返した。
机を蹴り倒し、倉庫の裏へ走る。
紙束が、宙に舞った。
「待て!」
レオンが、先に動いた。
倉庫の壁を蹴って、跳ぶ。
ロイムは、思ったより速かった。
だが、レオンの足に、敵うはずもなかった。
路地を、一息に詰める。
ロイムの襟首を、後ろから掴んだ。
「離せ……!」
「逃がすかよ」
レオンがそのまま、ロイムを地面へ押さえつけようとする。
「レオンさん、待ってください……!」
アリアが、駆け寄りながら声を上げた。
「力ずくでは……本当のことは、聞けません」
「怯えさせるだけです」
ミミルも、続けて言う。
「叫ばれたら、衛兵が来ます。それに……」
その先を、ミミルは言わなかった。
言わなくても、分かった。
それに、俺が、抑えられなくなる。
ミミルは、そう続けたかったはずだ。
「甘い」
レオンは、ロイムの腕をねじ上げたまま、動かなかった。
「こいつは、逃げ足だけは速い。今、離したら二度と捕まらん」
「乱暴は、しないでください」
アリアが、レオンの腕に手を添える。
「どうか……お願いします」
レオンは、舌打ちした。
それでも、腕の力を、少しだけ緩めた。
俺の殻の奥で、何かが、鎌首をもたげた。
これまでとは、違う。
食欲の衝動でも、破壊の衝動でもない。
もっと、静かで、もっと、ひやりとした声だった。
――支配すれば、争いは消える。
押さえつければいい。
すべて、俺の腕の下に置いてしまえば、揉めることも、怯えることも、叫ぶことも、なくなる。
レオンも。
ロイムも。
ミミルも、アリアも。
みんな、俺が支配すれば、この場は、静かになる。
魔力腕が、殻の奥で、疼いた。
殺せという声なら、まだ知っていた。
施設で、何度も聞いた声だった。
だが、これは、違う。
壊せとは、言っていない。
従わせろ、と言っていた。
その方が、優しい声のように聞こえるのが、なにより、まずかった。
伸ばせば、届く。
伸ばせば――
ふいに、角兎の鼻先が、俺の殻の側面に、そっと触れた。
三度でもなく、合図の言葉でもない。
一度だけ。
静かに。
それだけで、十分だった。
伸びかけていた力が、殻の中へ、すとんと戻る。
角兎へ、届くように、念じた。
『……助かった』
怖かった。
攻撃したい衝動より、これは、ずっと怖かった。
だって俺は、今、一瞬でも――みんなを、道具みたいに、扱おうとした。
ロイムと、同じ発想で。
ミミルが、俺の籠へ、そっと手を添えた。
「エッグ……大丈夫、ですか」
右へ、小さく、揺れる。
嘘だった。
でも、今はそれで、よかった。
レオンは、ロイムを立たせたまま、壁際へ追い詰めた。
殴りはしなかった。
それでも、退路は、完全に塞がれていた。
ロイムは、荒い息のまま、一行を見回した。
逃げ場がないと悟った顔だった。
「……話せば、見逃してくれるんですか」
「話の中身次第だ」
レオンが、腕を組む。
ミミルが、一歩前へ出た。
「殻片を、なぜ、こんなに買い集めているんですか」
ロイムは、しばらく黙っていた。
やがて、乾いた声で、話し始めた。
「……あの夜、逃げてから、商会には戻れませんでした」
「本部は、私を切り捨てました。買付責任者の独断――そう、報告されたそうです。……便利な言い方です」
知っている話だった。
工房の一件で、噂には聞いていた。
「行くあてもなく、身を隠していたところへ……声をかけてきた人たちがいました」
「白い仮面……ですか」
アリアが、静かに聞く。
ロイムは、驚いたように、アリアを見た。
「……よく、ご存じですね」
「見覚えが、あります」
アリアの声に、緊張が滲んだ。
「教会の中に……正式な聖職者にも知らされていない、系統があります。その、末端かもしれません」
「詳しいことは、私も知りません」
ロイムは、首を振った。
「ただ、指示だけが、届きます。買い取る品目、値段、期限。……逆らえば、次はもっと、悪いことになると、最初に念を押されました」
「顔は、見たことがないのか」
レオンが、低く聞く。
「一度も。声も、毎回、違う仮面の者が来ます。誰も、名乗りません」
脅されている。
それは、本当らしかった。
アリアが、鑑定板を握る手を、強く握り直した。
「教会が……そんな、ことを」
声が、震えていた。
自分の帰る場所の裏側を、見せつけられた顔だった。
「なぜ、殻片なんですか」
ミミルが、重ねて聞く。
「値がつくからです」
ロイムが、乾いた笑いを浮かべる。
「それも、法外に。ひび割れた卵の殻片一つで、並の魔物素材の何十倍も」
「その金は、どこから」
「知りません。ただ……買い取った品は、必ず同じ場所へ集められます。世界卵の素材として、扱われていると聞きました」
その言葉に、空気が変わった。
レオンが、眉を寄せる。
「世界卵……何だ、それは」
「私にも、分かりません。ただ、素材にしては、値の付き方が、異常です」
ロイムが、乾いた唇を舐める。
「私が受け取る指示書にも、いつも、同じ一文が添えてありました。世界卵の素材、優先確保、と」
世界卵。
殻の奥で、古い記憶が疼いた。
まだ何も分からなかった頃。
鑑定の画面に、一瞬だけ映った文字。
あの黒塗りの文字。
読めなかった続き。
あれが、これに繋がっているのか。
確かめる術は、まだなかった。
それでも、殻の奥が、ざわついた。
ロイムは、震える声のまま、続けた。
「本部は、殻片を、薬の材料として扱っていました。私も、最初はそう思っていました」
「でも、値がここまで釣り上がるのは……おかしいと、途中で気づきました」
「回収網の上の方は、私なんかには、絶対に本当のことを言いません。でも……何度か、聞こえてしまった言葉があります」
ロイムが、俺の籠を、まっすぐ見た。
値踏みする目ではなかった。
怯えた目だった。
「あんたの殻は、ただの薬の材料じゃない」
「――神の卵の材料なんだよ」
沈黙が、路地に落ちた。
誰も、すぐには、言葉を継げなかった。
やがて、ミミルが、静かに口を開いた。
「……殺すつもりは、ありません」
「捕らえもしません。あなたを裁くのは、私たちの役目では、ありません」
ロイムが、驚いたように、ミミルを見た。
「その代わり」
ミミルは、手を差し出した。
「記録を、見せてください。あなたが今まで、何を、どこへ運んだか」
ロイムは、迷った。
長く。
だが、レオンの壁際の視線と、アリアの静かな眼差しの前で、選べる道は、多くなかった。
懐から、薄い帳面を取り出す。
「……これが、全部です」
手が、震えていた。
「戻れば、消される。話したことが、知られれば……」
「なら、俺たちと来い」
レオンが、ぶっきらぼうに言う。
「守ってやるとは言わん。だが、一人で震えてるよりはマシだろ」
ロイムは、何も言わなかった。
ただ、帳面を握る手の力が、少しだけ、緩んだ。
アリアが、静かに、口を挟んだ。
「教会の腐った部分を、暴く証にします。……隠さず、全部、話してくださって、感謝します」
「聖職者様に、礼を言われる立場では……ありません」
ロイムの声から、初めて、慇懃さが剥がれていた。
残ったのは、ただ、疲れた男の声だった。
ミミルが、受け取った帳面の、最初の一頁だけ、目を通した。
日付と、品目と、数字が、几帳面な字で並んでいる。
その几帳面さが、逆に、痛々しかった。
「……後で、全部、読みます」
ミミルは、帳面を、外套の内側へ、そっと仕舞った。
角兎が、初めて、ロイムの足元へ近づいた。
鼻先で、そっと、帳面の端に触れる。
匂いを、覚えるように。
空き地の向こう、屑市通りの喧騒は、変わらず続いていた。
誰も、この一角で何が起きたか、気にも留めていない。
日が、少しずつ、傾き始めていた。
俺は、籠の中で、小さく、右へ揺れた。
殻の奥は、まだ、冷たいままだった。
支配すれば争いは消える、というあの声は、消えていなかった。
殻の隅に、小さく、うずくまっている。
次に湧く時、また、角兎の鼻先が間に合うとは限らない。
それでも、今は、この帳面が、次の一歩だった。
聖都に着いて早々、嫌な顔との再会になりました。エッグの新しい衝動は「支配」という、これまでとは質の違う怖さです。
次は、手に入れた帳簿を読み解きます。