第98話 / 全149話
食えば力になる
谷を出て、しばらくは、下りだった。
やがて、道は、上りに変わった。
岩と、痩せた木々の間を縫う、細い山道だった。
俺は、ミミルの胸の前、たすき掛けの籠の中で揺れていた。
壊れた携帯用のゆりかごは、修繕材で継いである。
継ぎ目は、少しいびつだった。
それでも、揺れは、前よりずっと、優しかった。
「険しい道は、まだ、続きます」
アリアが、地図を畳みながら、言う。
「十日、ですよね」
「ええ。歩けば、それくらい」
レオンが、先頭を歩く。
聖剣は、腰に、しっかりと収まっていた。
角兎は、俺たちの足元を、慣れた様子で駆けていく。
背に乗った剣は、揺れに合わせて、かすかに軋んだ。
「留守番より、いい」
掠れた声が、そう、つぶやいた。
俺は、振り返って、谷の入口を見た。
もう、木々の陰に隠れて、宝箱も椅子も扉も、見えなかった。
それでも、あそこに、残っている。
黒竜も、傷を癒しながら、残っている。
それだけで、十分だった。
「谷に、残った奴らのことは、気になるか」
レオンが、背中越しに、剣へ聞く。
「気にならない、と言えば、嘘になる」
「だが、俺は、こっちを選んだ。それだけだ」
一日目の夜、火を囲んで、誰も、多くは、語らなかった。
それでも、殻に触れるミミルの指の温度が、いつもより長く、そこに留まっていた。
二日目の夜、殻の奥に、いつもの文字が浮かんだ。
変わらない数字に、少しだけ、安堵した。
三日目も、道は、同じように険しかった。
登っては下り、下っては、また登る。
角兎が、藪の中から、木の実と、小さな野兎を、何度も、運んできた。
レオンが、それを、手早く火にかける。
「食えるだけ、食っとけ。この先、どうなるか、分からん」
アリアが、干した薬草を、湯で戻して、傷薬を作り直していた。
夜は、岩陰に火を焚き、交代で見張りに立った。
語らなくても、進む方向だけは、揃っていた。
四日目の昼、道は、細い岩の尾根に差しかかった。
尾根の途中、道が、途切れていた。
崩れたのか、最初からないのか、深い裂け目が、岩を割っている。
「渡し橋の跡が、ある。……もう、朽ちてるな」
レオンが、覗き込んで、舌打ちする。
「迂回すれば、どれくらいだ」
アリアが、地図を、指でなぞった。
「丸一日、余分に。……崖沿いを、大きく回ることになります」
俺の殻の奥で、何かが、疼いた。
あの扉を、内側から支えた時と、同じ感触だった。
まだ、使い方も、よく分からない力だった。
それでも、試す価値は、あると思った。
右へ、深く、揺れる。
『……やる』
「無理は、しないでください」
ミミルが、俺を、裂け目の縁まで、そっと運びながら、言う。
「危ないと感じたら、すぐ、揺れて教えてください」
右へ、もう一度、深く、揺れた。
俺は、殻の奥の力を、裂け目の両岸へ、押し当てるように、伸ばした。
届かないはずの岩と、岩の間が、わずかに、縮む。
距離そのものが、無理やり、繋がれていくような感触だった。
完全に消えたわけではない。
それでも、飛び移れる幅にまで、狭まった。
「今だ」
レオンが、先に跳び、縄を渡す。
角兎が、軽く跳ねて、先に渡り切った。
一人、また一人と、渡っていく。
最後にミミルが渡り終えた瞬間、殻の奥の疼きが、鈍い痛みに変わった。
伸ばしていた力が、糸が切れるように、戻る。
視界の端が、一瞬、白く滲んだ。
「エッグ……!」
ミミルの手が、殻へ、すぐに触れる。
『……平気』
右へ、揺れる。
嘘ではなかった。
ただ、体の奥に、澱のような疲労が、また少し、積もった気がした。
「まだ、半分も、飼いならせていない」
背中で、剣が、掠れた声で、呟いた。
「俺の時も、そうだった。適合を省略された器は、力に振り回される」
「それでも、続ければ、馴染んでくる。……たぶんな」
その言葉に、慰めと、警告の両方が、混じっていた。
五日目の夜、火の傍で、ミミルが、確保した記録の束を、広げていた。
「見張りは、私が、代わります」
アリアが、言う。
「ありがとうございます。……もう少しだけ」
ミミルの指が、細かい文字を、たどっていく。
俺は、殻越しに、その動きを、ずっと感じていた。
六日目、山道は、森に変わった。
木々の間から、獣の唸り声が、聞こえたのは、昼を回った頃だった。
牙の長い獣の群れが、藪の奥から、一斉に飛び出してくる。
毛並みは、灰がかった赤。
数は、五、六頭。
先頭の一頭が、喉の奥から、長く、低い遠吠えを上げた。
空気そのものが、重くなる。
肌を、直接、押さえつけてくるような、圧だった。
「うっ……」
アリアが、片膝をつく。
角兎の毛が、逆立った。
俺の殻には、その圧が、届かなかった。
殻の奥の、あの力が、勝手に、押し返しているようだった。
神性への耐性が、この圧を、殻の内側で、受け止めている。
根拠のない確信が、そう、告げていた。
なぜ、獣の遠吠えに、そんな圧が宿るのか。
分からない。
それでも、今は、考えている暇がなかった。
「エッグ、動けるか!」
レオンの声に、右へ、深く、揺れて答える。
四本の魔力腕を、展開する。
「エッグ、右!」
レオンの声に合わせ、右から来た一頭を、腕で叩き落とす。
もう一頭が、アリアへ牙を向けた瞬間、別の腕が、割り込んで、弾き飛ばす。
残りは、レオンの聖剣と、アリアの祈りに込めた光、角兎の体当たりで、次々と沈んでいく。
最後の一頭が、俺の腕に、押さえ込まれたまま、動かなくなった。
戦いは、終わった。
――はずだった。
殻の奥から、これまでとは違う声が、湧き上がった。
食えば、力になる。
攻撃したい、という衝動とは、違う。
もっと、静かで、もっと、粘つく声だった。
腕が、押さえ込んだままの獣の骸へ、勝手に、力を伸ばしていく。
毛皮の下、まだ温かい因子の気配。
それを、根こそぎ、吸い尽くしたい。
骨まで、余さず。
頭のどこかで、そんな言葉が、繰り返された。
『……』
右にも、左にも、揺れられなかった。
自分の腕が、自分のものではないように、感じた。
こつ、こつ、こつ。
殻に、三度、響いた。
同時に、角兎の鼻先が、殻の側面に、そっと触れる。
「エッグ」
ミミルの声が、静かに、届く。
「それは……その子の、命だったものです」
腕の先で、力が、揺れる。
止まる、寸前だった。
『……分かってる』
念話で、そう返す。
腕が、ゆっくりと、骸から離れた。
力の名残が、指先に、じん、と残った。
物足りなさに、似ていた。
それが、何より、怖かった。
攻撃衝動なら、まだ、分かる。
敵を、壊せという声には、覚えがあった。
だが、これは、違う。
殺した後に、湧いてくる。
まるで、それが、当然のことのように。
「大丈夫、ですか」
アリアが、鑑定板を、獣の骸へ向ける。
「食用……可、ですか」
アリアが、その一文を、繰り返す。
「肉として、なら」
ミミルが、静かに、応じた。
「エッグが、感じたものは、たぶん、それとは、別のものです」
その通りだった。
俺が欲しかったのは、肉ではない。
あの、因子そのものだった。
殻の奥に、また、あの文字が、小さく、浮かんでいた。
二日前に見た時より、わずかに、上がっていた。
「殻、少し、熱いです」
ミミルが、そっと、指を這わせる。
「……気の、せいでしょうか」
俺には、答えられなかった。
右でも、左でもない、小さな震えだけを、返した。
七日目、八日目と、道は、下りに転じ、村の明かりも、遠くに見え始めた。
道端に、小さな石の祠が、ぽつぽつと、現れ始める。
「聖都に、近づいている証です」
アリアが、祠の前で、一度だけ、手を合わせた。
夜ごと、ミミルは、確保した記録を、読み続けていた。
「見つけました」
八日目の夜、ミミルが、声を上げた。
「器が、世界の傷に、触れ続けると……何が起きるか、書かれた記録です」
レオンが、身を寄せる。
「なんて、書いてある」
ミミルが、羊皮紙の一節を、指でなぞりながら、読み上げる。
「試作の器は、量産と違い、傷の残留因子を、直接、感知できるように作られている、と」
「感知できる、から……何だ」
「感知するだけでなく、少しずつ、取り込んでしまう構造だった、とあります」
「傷に触れた器は、傷の性質を、少しずつ、取り込んでいく、と。……取り込みすぎた器は、いずれ、内側から、崩れる」
アリアの手が、白い法衣の裾を、握る。
「教会の言い伝えでは、傷を癒す者を、彼方より招く、と……習いました。招いた先が、こんな仕組みだったなんて」
声が、震えていた。
「量産の器が、暴走したのも……」
「同じ理由、だと思います」
ミミルが、頷く。
「エッグの殻も、世界の傷に、何度も、触れてきました。虚無の底にも、行きました。……ここ数日、殻が、少しずつ熱を持つようになったのは、たぶん、その兆候です」
俺は、右にも左にも揺れず、ただ、黙って聞いていた。
数字を知らないミミルが、それでも、正しく、言い当てていた。
「適合を省略された器の、行き着く先と……同じかもな」
背中で、剣が、低く、呟いた。
「俺も、初めは、ただの剣として、振るわれるだけだった。それが、少しずつ、軋み始めた」
「治せる、のか」
レオンが、低い声で聞く。
「塞ぐことは……できるかもしれません」
ミミルの声に、迷いが滲んだ。
「でも、それは、前と同じ道です。塞げば、孵化へ、向かう」
「孵化すれば、安定するんじゃ、ないのか」
レオンが、重ねて聞く。
「安定は、します。……でも、それは、もう、今のエッグじゃ、ないかもしれません」
九日目の夜、最後の野営だった。
俺の殻の奥に、また、あの文字が浮かんだ。
戦っていない、ただの夜だった。
それでも、数字は、また、わずかに、上がっていた。
ミミルは、荷袋から、薬研と、小瓶をいくつも取り出していた。
「決めました」
俺の殻へ、両手を添える。
「ひびを、塞ぐ薬は、作りません」
「ひびを、残したまま……崩壊だけを、防ぐ薬を、作ります」
レオンが、眉を寄せる。
「危なくは、ないのか」
「危ない、と思います。塞がないぶん、ずっと」
ミミルの声は、それでも、揺れなかった。
「それでも、あなたが、あなたのまま、いられる方法を、選びたいんです」
その一言に、迷いは、もう、残っていなかった。
「無理に、何かに、ならなくてもいいんです」
「ひび割れたまま、生きる方法を、探しましょう」
俺は、右へ、深く、揺れた。
それ以外に、返せるものが、なかった。
もし、あったなら――もっと、他の言葉で、返したかった。
十日目の午後、山道が、下り切った先に、石造りの高い壁が見えた。
壁の向こう、幾つもの尖塔が、白く、光を反射している。
聖都だった。
城門は、思ったより、大きく開いていた。
行き交う人の数も、これまでの道中とは、比べものにならない。
「着きましたね」
アリアの声に、安堵と、緊張の両方が、混じっていた。
門番が、二人、槍を構えて立っていた。
行き来する荷馬車や、旅装の一行を、順に、検めている。
「聖職者様が……こんな旅装で」
門番の一人が、アリアの法衣の裾に気づいて、目を丸くした。
「巡礼の、帰りです」
アリアが、静かに、答える。
嘘ではなかった。
俺は、籠の中で、大人しく、揺れないでいた。
珍しい荷物として、あらためて検められては、面倒だった。
門番は、レオンの聖剣に、一瞬、目を留めたが、何も言わずに、通した。
門をくぐると、石畳の広場が、扇のように、広がっていた。
行商人の呼び声、荷車の軋み、子供の笑い声。
山道の十日で忘れかけていた、人の暮らしの音だった。
俺は、その賑わいを、籠の中から、ただ眺めていた。
「教会に、確かめなければならないことがある。忘れたわけじゃ、ないな」
レオンが、確かめるように、聞く。
「忘れては、いません」
アリアの声は、静かだった。
門の脇、木の板に、幾枚もの紙が、重ねて貼られていた。
賞金首の似顔絵、行方知れずの人捜し、依頼の張り紙。
城門の掲示板は、聖都で、最も人の目に留まる場所らしかった。
だから、そこに、貼られる。
その中に、一枚、様子の違う紙があった。
達筆でも、荒い字でもない、几帳面な文字だった。
「――これ」
アリアの指が、止まる。
俺の殻の奥が、静かに、冷えた。
「ひび割れた卵殻片、高値で買い取る」
紙の隅には、商会のものらしい、秤の印が、小さく押してあった。
ミミルの手が、俺の籠を、強く握った。
聖都まで十日、道中でエッグに新しい渇望が芽生えました。
攻撃衝動とはまた違う怖さです。
ミミルの方針も決まりました。次はいよいよ聖都の中です。