第六部 孵化選択編
第97話 / 全149話
目覚めた竜と白く消された名前
夜明けの色が、谷の岩肌に滲み始めていた。
焚き火の残り火は、もう、指先ほどの大きさしかない。
誰も、まだ、眠っていなかった。
ミミルは、地面に座り込んだまま、殻へ手を添え続けている。
レオンは、抜いた聖剣を、膝の上で、じっと見つめていた。
アリアは、黒竜の脇腹の布を、そっと巻き直していた。
傷は、まだ、塞がっていない。
昨夜、みんな、限界近くまで、体を、使い切っていた。
それでも、誰も、目を閉じようとはしなかった。
黒竜の、目覚めを、待っていた。
俺自身も、殻の奥に、鈍い疲労が、澱のように、溜まっていた。
それでも、意識は、はっきりしていた。
この感覚も、虚ろをまとってからの、新しい何かなのかもしれなかった。
そのとき、黒竜の寝息の律動が、変わった。
浅く、速かった呼吸が、一段、深くなる。
もう一段、深くなる。
「――誰か」
アリアの声が、静かに、鋭くなった。
黒竜の瞼が、震える。
ゆっくりと、開いた。
「起きた……!」
ミミルが、声を上げた。
黒竜は、しばらく、瞬きを繰り返した。
視線が、焚き火から、俺たちへ、順に、巡っていく。
やがて、俺の殻の上で、止まった。
『――お前』
低い声だった。
いつもより、掠れていた。
起き上がろうとして、脇腹の傷に、体が、少し、ぐらついた。
レオンが、慌てて、肩を支える。
「無理に、動くな」
「傷が、開きます。せめて、しばらくは、横になって」
アリアが、布を、押さえながら、言う。
だが、黒竜は、聞く様子がなかった。
『放っておけ。それより――』
黒竜は、痛みを堪えるように、一度、目を閉じた。
開き直した目に、いつもの鋭さが、戻っていた。
黒竜の目が、俺の殻の上を、これまでよりも長く、なぞった。
『その殻は……何だ』
俺は、答えようとした。
だが、伝えられる形が、まだ、少ない。
『……変わった』
ひと言きりの、短い念話だった。
黒竜の眉が、寄る。
『変わった、では、分からぬ』
もっと、伝えたい。
死んだこと。
記憶殻に、戻ったこと。
失ったものと、残ったもの。
全部、伝えたい。
それでも、念話は、いつも、途中で、言葉を見失う。
『……死んだ』
『……戻った』
『みんな、守った』
途切れ途切れの単語が、殻の奥から、押し出される。
黒竜の表情が、険しくなっていく。
『守った、とは――何から』
問いに、答える言葉が、また、途切れる。
伝えたいのは、白い仮面たちのことだった。
施設のこと、命令回路のこと、今も逃げ続けているあの声のこと。
どれも、一語には、収まらなかった。
『……あいつら』
もう一度、念じてみる。
『あいつら、とは――誰だ』
答えられない。
言葉を探すほど、殻の奥が、詰まっていくようだった。
誤解が、積み重なっていくのが、分かった。
届けたいことが、こんなにも、近くにあるのに。
まだ、それを運べるだけの言葉を、持っていなかった。
「私が話します」
ミミルが、黒竜の前へ、進み出た。
「完全廃棄で、一度、消えました。鑑定板の欄まで、全部、空白になって」
黒竜の目が、細くなる。
「それでも、施設の外に預けていた殻の欠片――記憶殻から、この、虚ろをまとった姿で、戻ってきました」
「でも、全部は、戻らなかったみたいです。何を失ったのかは、私にも、分かりません」
ミミルが、俺の殻を、振り返る。
伝えられる形は、少ない。
それでも、これだけは、自分で渡したかった。
『……前の、名前……消えた』
ミミルの指が、殻の上で、止まった。
念話の届いた黒竜の目も、わずかに、揺れた。
「それでも、こいつは、ここにいる」
レオンが、静かに、付け加えた。
「それだけで、十分だと、俺は、思う」
黒竜は、しばらく、答えなかった。
脇腹の傷が、痛むのか、身じろぎもしない。
『……虚無を、まとったか』
その声に、初めて、恐れに近いものが、滲んだ。
『我が、かつて、選びかけたものに、近い』
「お前が……?」
レオンが、聞き返す。
黒竜は、答えなかった。
『その先は、まだ、言わぬ』
「いつまで、隠すつもりだ」
レオンが、食い下がる。
『お前たちに、話す時が来れば、話す。今は、その時ではない』
それ以上、押しても、崩れない声だった。
代わりに、俺の殻を、じっと、見つめ続けた。
『殻の在り方が、変わったということは――お前は、我の知る器を、一つ、通り越した』
『言うておく。完全に孵れば、世界が割れる』
低く、重く、その言葉が、谷に、響いた。
前にも、聞いた警告だった。
だが、今は、以前より、重かった。
「まだ、孵るつもりは、ありません」
俺の代わりに、ミミルが、答えた。
右へ、深く、揺れた。
その通りだ。
角兎が、耳を伏せて、黒竜の傍らへ、そっと、寄り添う。
俺の殻の微かな震えを、読み取ったような、静かな仕草だった。
黒竜は、しばらく、俺を見つめたまま、動かなかった。
やがて、視線を、アリアの抱えた記録の束へ、移す。
『それは……』
「施設の中枢から、確保しました」
アリアが、鑑定板と、束になった書き付けを、地面へ広げる。
管路の全体地図と、無数の記録行。
昨夜、命がけで奪ったものだった。
「見せてくれ」
黒竜が、深く負傷した体を、少しだけ、持ち上げた。
瞳の奥に、古い時代の光が、一瞬、揺らいだ。
その目が、記録の上を、一度、滑る。
人の目なら、何刻もかかるはずの分量だった。
黒竜の目は、一行、なぞっただけで、止まった。
『これは――量産と、試作、二つの区分がある』
「区分……?」
アリアが、身を乗り出す。
『大半は、量産だ。効率のために、同じ工程で、大量に、送り出された器』
『だが、一部に、試作という区分がある。工程の外で、個別に、作られたものだ』
「工程の外……」
ミミルが、呟く。
「量産すら、及ばない何かを、意図して、作っていたということですか」
『そうだ』
黒竜の声が、低くなる。
『量産は、数を求めた。試作は、何かを、確かめるために、作られた』
その一言に、その場の空気が、変わった。
「錬金術でも、同じです」
ミミルが、震える声で、続けた。
「量産の薬を作る前には、必ず、試作を、何度も作ります。……失敗しても、構わない前提で」
「失敗しても、構わない、だと……?」
レオンの声が、尖る。
「そんな理由で、命を、作っていたのか」
誰も、すぐには、答えられなかった。
『試作というものは、常に、割り切れぬものが、混じる』
黒竜が、低く、続けた。
『割り切れぬものほど、都合が悪くなった時、真っ先に、消される』
レオンの手が、無意識に、聖剣の柄へ伸びる。
黒竜の爪の先が、記録の一箇所を、示す。
魔力紋の欄に、細い紋様が描かれていた。
見覚えがあった。
記録室の円盤で見た、あの、名称も経緯も白く消された行に刻まれていた紋と、寸分違わず、同じだった。
照合番号は、ここでも、欠番のままだった。
名称の欄も、経緯の欄も、また、白く塗り潰されている。
それでも、区分だけは、はっきりしていた。
量産の中の、外れ値ではない。
最初から、量産とは、別の枠で、作られた何か。
殻の奥が、鈍く、疼いた。
同じ紋を持つ何かが、俺より先に、この区分の中に、いた。
名前も、経緯も、消されたまま。
それが、誰なのか。
なぜ、消されたのか。
考えるほど、答えより先に、寒さに似た感覚が、殻を這い上がってくる。
理由は、分からない。
それでも、目を、離せなかった。
「エッグ……?」
ミミルが、覗き込む。
俺は、左でも、右でもなく、殻を、小さく、震わせただけだった。
分からない。
自分でも、まだ、分からない。
ミミルが、俺の殻に、そっと、指を、這わせる。
新しいひびが、増えているわけでは、なかった。
それでも、色が、心なしか、濃く、見える気がした。
「今は、それだけ、確かめておきましょう」
声に、いつもの、柔らかさがあった。
『気になるか』
黒竜が、静かに、問う。
右へ、深く、揺れた。
『今は、それでいい。急いで確かめることではない』
その一言だけは、いつもより、柔らかかった。
アリアが、書き付けの写しを、丁寧に、束ね直す。
「原本は、私が。写しは……どなたかに、預けたいのですが」
「俺たちが、持つ」
宝箱が、蓋を、わずかに持ち上げた。
「いや、脚の下が、一番、安全だ」
椅子が、割り込む。
「動ける俺が、一番向いている」
扉が、地面を軋ませて、詰め寄る。
三体が、互いの上へ、押し合うように、身を寄せ合った。
「留守番なら、俺たちの仕事だ」
「留守番だけじゃない。番人だ」
「番人なら、なおさら、頑丈な奴が向いてる」
言い合いは、しばらく、続いた。
「争うことでは、ないと思いますが……」
ミミルが、困ったように、呟く。
背中で、錆びた剣が、小さく、笑うように、軋んだ。
「三人とも、譲る気は、ないだろう」
「なら、三人で、持てばいい」
剣の一言に、三体は、顔を見合わせるように、動きを止めた。
やがて、宝箱が、蓋の中へ、写しを収め、椅子がその上に乗り、扉が、二つを、体で覆うように、横たわった。
「これで、文句はないな」
扉の声に、宝箱と椅子が、同時に、軋んだ。
同意の合図らしかった。
「黒竜のことも、頼む」
レオンが、三体へ、頭を下げる。
「言われずとも」
椅子が、掠れた声で、答えた。
「剣、お前は」
椅子が、問う。
錆びた剣は、少しの間、黙っていた。
「適合を省略された俺と、あの試作という枠は……他人事に、思えない」
「だから、俺は、あいつの背に乗る。今度は、留守番じゃない」
その言葉に、誰も、異を唱えなかった。
「エッグ」
扉が、地面を軋ませて、少しだけ、近づく。
「写しは、必ず、守る。だから、お前は、確かめてこい」
俺は、右へ、深く、揺れた。
「無事に、戻ってこいよ」
椅子が、ぶっきらぼうに、付け加えた。
俺は、背に、剣の重みを、確かめるように、感じた。
軽くはない。
それでも、悪くない、重さだった。
黒竜は、脇腹を庇いながら、体を、地面へ横たえ直した。
『我は、ここに、残る。この傷で、共に歩けば、足手まといにしかならぬ』
『傷が塞がり次第、後から、追う。お前の殻の気配なら、どこにいても、辿れる』
その一言に、寂しさが、滲んでいた。
角兎が、黒竜の鼻先へ、そっと、自分の鼻を寄せた。
しばらく、そうしてから、離れて、俺たちの列へ、戻ってくる。
見送るのではなく、また会う、という顔だった。
宝箱が、蓋を、こつん、と一度、鳴らす。
「行ってこい」
短い、それだけの言葉だった。
それでも、十分だった。
「これから、どこへ、向かう」
レオンが、腕を組む。
アリアが、指先で、地図の上の道のりを、なぞった。
「歩けば、十日は、かかります。……黒竜の翼があれば、もっと、早いはずですが」
『飛べぬ』
黒竜が、短く、答えた。
『この傷では、長くは、保たぬ。無理に飛べば、途中で、落ちる』
誰も、それを、責めなかった。
「歩きます」
ミミルが、静かに、言った。
「急ぐ理由はあっても、無理に、翼を借りる理由は、ありません」
レオンが、地図の上、谷から聖都までの山道を、指でなぞる。
「険しい道だな」
「それでも、通れない道じゃない」
アリアが、地図を、もう一度、広げた。
昨夜より、光が、強くなった分だけ、羊皮紙の上の線が、くっきりと見える。
管路を示す無数の線の中で、一本だけ、色が違った。
地図の隅から伸びていた、あの一本の線。
《完全世界卵保管領域》へ続く、未知の経路。
黒竜が、その線を、目でなぞる。
『この線は……』
途中で、言葉を止めた。
「どこかへ、繋がっているんですか」
レオンが、身を寄せる。
黒竜の爪が、線の先を、示した。
線は、幾つもの地形を横切り、最後に、一つの円のしるしへ、吸い込まれていた。
円の中に、聖都の紋章。
『この線は……聖都の、真下を通っている』
誰も、しばらく、声を出さなかった。
「教会の……本拠……」
ミミルの声が、掠れる。
アリアの手が、地図の上で、止まった。
その指先が、微かに、震えている。
俺は、殻の奥で、鈍く、痛みに似たものを、感じていた。
教会は、俺たちを、追ってきた側だ。
その本拠の、真下に――未知の到達点が、繋がっている。
偶然とは、思えなかった。
「教会が、知らないはずが、ない」
レオンの声が、低くなる。
「あの白い仮面どもも、教会と、同じ場所から来ていたということか」
誰も、すぐには、答えられなかった。
アリアの手が、白い法衣の裾を、強く、握りしめる。
教会は、彼女にとって、育った場所であり、仕えてきた場所だった。
その根の深くに、何が、埋まっているのか。
知りたくない、という思いと、知らなければならない、という思いが、同時に、殻の外にまで、伝わってくるようだった。
俺は、何も、言えなかった。
それでも、右へ、そっと、揺れた。
急がなくていい、という、伝えたいことがあった。
「アリアさん」
ミミルが、そっと、声をかける。
アリアは、鑑定板を、両手で、胸に抱いたまま、しばらく、動かなかった。
祈りの言葉を、口の中だけで、確かめているように見えた。
夜明けの光が、少しずつ、強くなっていく。
ミミルが、荷袋を、肩へかけ直す。
レオンが、聖剣を鞘へ収め、位置を、確かめる。
旅支度は、もう、整っていた。
残るのは、行き先を、言葉にすることだけだった。
やがて、アリアが、顔を上げた。
その目に、迷いは、なかった。
「聖都の大神殿の地下へは、私が、案内します」
「――教会に、確かめなければならないことが、あります」
黒竜がようやく目を覚ましましたが、話は噛み合わないままです。念話はまだ短い言葉しか届きません。
次はいよいよ聖都へ向かいます。