第96話 / 全149話
不良品たちの反撃
扉は、閉じなかった。
輪郭だけが白く縁取られた闇の向こうで、白い仮面が幾つも、等間隔に並んでいる。
どれも、身じろぎ一つ、しない。
その奥のほうに、確かに、誰かがいる気配があった。
あの、平らな声の、いちばん濃いところ。
殻の底が、迷いなく、そう告げていた。
根守り村を出てから、ここまで、ずっと、追われ続けてきた。
追跡個体、記録室、討伐命令、矯正不能、完全廃棄。
その全部の大本が、今、目の前にあった。
「行きます」
ミミルが、震える声を抑えて言った。
問いではなく、決意だった。
「俺も」
レオンが、腰の聖剣に手をかける。
アリアが、感応針を握り直し、小さく頷いた。
角兎が、先に一歩、闇の縁へ踏み出す。
焚き火跡の向こうで、黒竜だけが、動かない。
脇腹の傷は、まだ塞がっていない。
目も、閉じたままだった。
連れていくには、あまりに、危うい。
「――ここは、私たちが」
軋む声が、届いた。
振り返ると、宝箱が、蓋を持ち上げるようにして、こちらを見ていた。
「留守番くらい、できる」
椅子が、脚を一本きしませながら、続ける。
扉も、地面を引きずって、じりじりと、黒竜の傍らへ詰め寄った。
役に立てなかった話は、もう、聞き飽きた、という響きだった。
背中で、錆びた剣が、小さく軋む。
「俺は、行く」
剣の声には、迷いがなかった。
「適合確認を省略された借りが、まだ、返せていない。返せる時に、返さないと、一生このままだ」
その一言で、決まった。
俺は、右へ、深く揺れた。
行く。
みんなと、一緒に。
黒竜のそばに、宝箱と椅子と扉が残った。
誰も、命令を待たなかった。
それぞれが、自分の役目を、自分で選んでいた。
その光景が、殻の奥に、いつまでも、残った。
施設に「省略」された誰もが、今は、誰かに命じられなくても、自分で立っている。
ミミルが、最後に、黒竜の頭に、そっと手を触れた。
「行ってきます」
答えは、なかった。
それでも、まぶたの下で、何かが、微かに動いた気がした。
見間違いかもしれない。
それでも、俺は、それを、見間違いにはしないでおいた。
俺たちは、あるはずのない扉をくぐった。
足元に、床という床がなかった。
白だけが、どこまでも続いている。
殻の奥の、まだ使い方も知らない力が、この扉を、内側から支えている、そんな感触があった。
支えているから、みんなも渡れる。
根拠のない確信が、なぜか、はっきりとあった。
神性への耐性が、あの声の圧に殻を押し潰させない。
空間への干渉が、繋がるはずのない場所同士を、無理やり繋いでいる。
自分の中の力なのに、まだ半分も、飼いならせていなかった。
それでも、今は、それでよかった。
完全に使いこなせなくても、今、必要な分だけ、動いてくれればいい。
視界だけは、やけに、通っていた。
白い仮面の列の、いちばん奥。
太い光の柱が、天井も床もない虚空から伸びて、幾つもの細い筋へ枝分かれしていた。
筋の先は、見覚えのある管路網の、さらに奥へ繋がっている。
柱の根元に、銘板が、静かに浮かんでいた。
並んだ仮面の一つ一つが、視線のようなものを、こちらへ向けている。
感じるのは、悪意じゃない。
もっと、乾いたものだった。
値踏みするでもなく、ただ、記録するだけの目。
あれが、大本だ。
殻のひびが、初めて、迷わず示していた。
「規格外個体、随伴四名、侵入を確認」
平らな声が、仮面の列の中央から響いた。
「権限区分外への到達。想定外です」
声に、動揺はない。
それでも、いつもより、わずかに間が長かった。
「あなたが、いちばん濃い場所ですか」
ミミルが、まっすぐ、声を投げる。
「私は、判定端末です。個としての濃淡は、存在しません」
答えになっていない答えだった。
「なら、聞き方を変える」
レオンが、一歩、前へ出た。
「お前が処理してきた数だけ、誰かが、名前も付けられずに消えた。それを、命令だからで済ませるのか」
「命令ではなく、規格です。私に、済ませる、済ませないという主観は、ありません」
「主観がないなら、なおさら、質が悪い」
レオンの声が、低くなる。
アリアも、鑑定板を胸元へ引き寄せたまま、続いた。
「前にも、あなたに、同じ言葉を、伝えました。傷を癒す者を彼方より招く、と」
「もう、繰り返しません。あなたたちが、その言葉を都合よく使っていたなら――私は、その言葉より、今、目の前で戦っている人たちを、信じます」
平らな声は、しばらく、応えなかった。
「あなたがたの信仰の再評価は、私の管轄外です」
冷たい答えだった。
それでも、俺には、その冷たさの裏に、わずかな焦りが、透けて見える気がした。
「アリアさん、お願いします」
ミミルが、短く声をかける。
「はい」
アリアが、鑑定板を掲げたまま、柱の光筋を辿り始めた。
角兎が、床のない床を蹴って、柱の反対側へ回り込む。
「――敵性対象を、破壊せよ」
殻の奥に、あの声が、落ちた。
同じ声だった。
根守り村への道でも、記録室でも、通路でも聞いた、あの命令。
四本の腕が、勝手に、持ち上がろうとする。
ミミルへ。
レオンへ。
視界の隅に、赤い枠が、また滲んだ。
「エッグ」
ミミルが、爪の下へ、まっすぐ進み出た。
逃げなかった。
差し出された右手が、微かに、震えている。
それでも、その手は、止まらなかった。
右手が、殻を、叩く。
一度。
二度。
三度。
「選ぶのは、あなたです」
以前と、同じ意味の言葉だった。
だが、今の俺には、違って聞こえた。
衝動は、消えなかった。
消せないと、もう、知っていた。
だが、今度は、それでいい、と思えた。
三度目の音が、殻の奥まで届いた瞬間、俺は、初めて、自分で、狙いを選び直した。
壊したいのは、ミミルじゃない。
壊したいのは、あの平らな声そのものでもない。
壊したいのは――俺たちを、道具に変えた、あの回路だ。
北西へ引かれ続けた、あの感応針の揺れ。
通路の壁の亀裂で、増幅した衝動。
記録室の映像を見て、伸びかけた腕。
全部、同じ場所から来ていた。
それが、初めて、目の前にあった。
衝動を、消す必要は、なかった。
握り潰す力を、握り潰す相手を、自分で選べば、それでよかった。
四本の腕が、ミミルの手前で、大きく方向を変える。
光の柱へ、まっすぐ、伸びた。
まだ使い方も知らない、あの空間への力が、腕の先で、初めて、形を持つ。
殻の裂け目が、そこだけ、闇よりも深い色に染まった。
摑んだ光の筋が、指の隙間から、音もなく、吸い込まれていく。
消えていくんじゃない。
どこにもない場所へ、送っている。
そういう感触だった。
「命令回路、応答不能。……再構築、不可」
平らな声に、初めて、詰まりが混じった。
仮面の列が、一斉に、揺れる。
「矯正、不能。個体、規格外。判定、再開――」
あの文字が、また、視界の隅に浮かびかけた。
以前なら、その一文字ごとに、殻が竦んだ。
今は、違った。
判定なら、好きに続ければいい。
俺は、俺の選んだ狙いを、変えなかった。
「不良品……」
「上等だ」
俺の代わりに、剣が、掠れた声で言い返した。
「その呼び方、もう聞き飽きた」
背の剣が、柄を、レオンのほうへ向けるように、小さく軋んだ。
「――今だけ、握れ。俺が、選んだ」
剣に転生させられた俺を、また剣として使うのか、と、古戦場で拒んだ、あの声だった。
それが今は、自分から、差し出されていた。
レオンが、息を呑んで、俺の背から、柄を引き抜く。
聖剣ではなく、錆びた剣を構え、光の柱の根元から伸びていた、鞭のような防衛の腕を、一薙ぎで叩き落とした。
「借りは、これで、半分だ」
剣が、掠れた声で、そう言った。
「回路、確保しました」
アリアが、鑑定板を抱えたまま、声を張った。
板いっぱいに、光る文字が流れている。
召喚実績、適合工程の省略、器の暴走、新しく生まれる世界の傷、また魂を集める循環。
谷底から記録室まで、見てきたはずの流れが、そのまま、ここに、まとまっていた。
「量産して……捨てて……また、傷を、集めていた」
アリアの声が、震えた。
「処理数が上がるたびに、傷の数も、同じだけ、上がっています。……宝箱さんたちのような、名前を持つ器は、全体の、ほんの一部です」
その他の大半は、名前どころか、声さえ持てないまま、器に馴染めず、崩れていったのだろう。
数えることさえ、誰もしなかった数。
「これで、全部です。処理数と、傷の増える数が、同じ折れ線で、重なっています」
誰にも見せるつもりのなかった記録が、今、ようやく、外の光にさらされていた。
レオンが、錆びた剣を、いったん俺の背へ戻し、代わりに、自分の腰の聖剣を抜く。
その切っ先で、柱に絡んだ細い管を、一本、断った。
断たれた管の向こうから、微かな光が漏れる。
「これ以上は、増やさせない」
角兎が、鼻先で、柱の裏の隠し記録へ触れ、そこにあった座標の束を、光筋ごと浮かび上がらせた。
「白面の神官」
ミミルが、殻を支えたまま、声を上げる。
「あなたは、何を、守ってきたんですか」
答えは、なかった。
仮面の列の向こうで、空間が、歪み始める。
「私は、判定端末です。基準に従い、処理するのみ」
「基準を、決めたのは、誰ですか」
ミミルの問いに、平らな声は、答えなかった。
答えられないのか、答える権限がないのか。
その区別さえ、もう、どうでもよかった。
誰かが決めた基準が、誰かを、こんなにも、簡単に道具へ変える。
それだけで、十分だった。
「――撤退。機能は、別端末へ移行します」
その言葉と同時に、仮面の列が、光の粒になって、崩れ始めた。
いちばん奥の壁に、文字だけが、残る。
消えたのは、命令回路だけだった。
神官本体は、また、逃げた。
捕まえられなかった。
それでも、殻の奥が、こう告げていた。
道具にされる理由は、もう、消えた。
あの声を消さなくても、俺は、俺のまま、選べる。
その時、扉の向こうから、乾いた衝撃音が届いた。
「閉じさせるかよ」
扉の、低い声だった。
振り返る。
白い空間の縁が、大きく揺らいでいた。
閉じようとしている。
黒竜の眠るあの場所ごと、切り離そうとしている、そんな揺れ方だった。
境目から、白い光の腕のようなものが、幾つも、滲み出していた。
黒竜の眠る場所ごと、内側へ、引きずり込もうとしている。
地面を引きずるようにして、扉が、その形のまま、境目へ体を押し当てた気配があった。
白い腕の一本が、扉の縁を摑む。
軋む音とともに、扉の表面に、亀裂が一つ、走った。
それでも、扉は、退かなかった。
椅子が、一本きりの脚を踏ん張り、隙間へ楔のように挟まる。
宝箱が、大きく蓋を開け、伸びてくる白い腕を、蓋で挟み込んで押さえていく。
留守番だと言った三人が、今、自分たちの体だけで、境目を支えていた。
誰も、壊れなかった。
揺れが、少しずつ、収まっていく。
「――こっちも、無事だ」
扉の声が、静かに、届いた。
俺たちは、崩れかけた白の中を、駆け抜けるようにして、谷の入口へ戻った。
夜営跡は、元のままだった。
黒竜は、まだ、目を覚ましていない。
宝箱は蓋を閉じ、椅子は脚を折り、扉は地面に横たわったまま、それぞれ、疲れたように、動きを止めていた。
誰も、欠けていない。
「戻ってきた……」
ミミルが、崩れるように、地面へ膝をついた。
アリアが、抱えていた記録を、鑑定板の上へ、そっと広げる。
管路と、世界の傷の位置を重ねた、全体の地図だった。
施設の数は、思っていたより、ずっと多い。
そして、見たことのない一本の線が、地図の隅から、遠く、伸びていた。
「これは……」
アリアの指が、線の先で、止まる。
そこに記された文字は――《完全世界卵保管領域》。
どこにあるのかも、何を意味するのかも、まだ、分からない。
それでも、あの虚無の底で聞いた、ひび一つない鼓動が、遠く、重なった気がした。
「見ないふりは、もう、できませんね」
アリアが、地図を畳みながら、静かに呟いた。
レオンが、断ち切った管の欠片を、握ったまま、黙って頷く。
「これを持って、どこへ届ければいい」
誰も、すぐには、答えられなかった。
届ける先が、教会なのか、それとも、もっと別の場所なのか。
それすら、まだ、決まっていない。
それでも、抱えている記録の重さだけは、確かだった。
扉が、亀裂の走った体を、少しだけ持ち上げる。
「これくらいの罅、何度目だと思ってる」
椅子が、掠れた声で、笑うように続いた。
「脚が一本でも、立てる。罅が一つでも、支えられる」
宝箱の蓋が、こつん、と小さく鳴った。
同意の合図らしい、と、なんとなく分かった。
「エッグ」
ミミルが、殻へ、そっと手を添えた。
「大丈夫ですか」
右へ、深く揺れた。
大丈夫だ。
衝動は、消えていない。
これからも、消えないかもしれない。
それでも、もう、怖くはなかった。
握るか、止めるか。
最後に選ぶのは、いつも、俺だ。
レオンが、聖剣を鞘へ収めた。
背中で、錆びた剣が、小さく息をつくように、軋んだ。
「借りは、全部、返せたか」
誰にともなく、そう呟いた声には、少しだけ、軽さがあった。
角兎が、剣の柄へ、鼻先を寄せる。
労うような仕草だった。
「次は、どこへ向かう」
レオンが、静かに、そう呟いた。
その問いに、まだ、誰も答えを持っていなかった。
それでも、誰も、足を止める気配はなかった。
夜が、少しずつ、明けていく。
焚き火の残り火が、まだ、小さく灯っていた。
誰一人、欠けていない。
誰一人、壊れていない。
欠けたものたちが、欠けたまま、勝った。
第五部、ここで一区切りです。
箱も椅子も扉も剣も、誰一人、壊れずに戦い切りました。
次の部からは、また新しい景色です。