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トップ / 目次 / 第五部 世界の傷編

第95話 / 全149話

記憶殻

約5,241字

声は、止まらなかった。

「――エッグ」

 何度も、何度も、同じ響きが、光の筋の向こうから、届く。

 困った時に、眉を寄せる、あの誰かの声。

 輪郭のない今の俺にも、それだけは、はっきりと、分かった。

 声が、少し掠かすれた。

「聞こえてる……? お願い、もう一度だけ、応えて」

 応えたい。

 だが、応えるための口も、喉も、今の俺には、なかった。

 それでも、声のほうは、待たずに、続けた。

 途切れながら、拾い集めるように、これまでのことを、話し始める。

「地割れを出て……ここまで、丸一日近く、かかりました。レオンさんが黒竜を担いで、アリアさんが支えて……角兎つのうさぎが、ずっと、先導してくれて」

 誰も、途中で、諦めなかった、と、声が、震えながら、伝えてくる。

 辿り着いた谷の入口には、剣が、まだ、立っていたこと。

 宝箱も、椅子も、扉も、誰一人、欠けていなかったこと。

 声の向こうに、そういう景色が、確かに、あるらしい、と分かった。

 光の筋が、少しずつ、幅を広げていく。

 その隙間から、温かいものが、流れ込んできた。

 魔力だ、と、直感的に分かった。

 それも、覚えのある、あの魔力だった。

「あなたの殻片……ずっと、持ってました。谷底で、作り直した、あれ」

 声が、震えながら、続く。

「剣に、預けていました。施設の、外に。だから……施設の消去は、届かなかった、はずです」

 言葉の意味を、摑もうとする。

 うまく、繋つながらない。

 それでも、届いた欠片だけを、拾い集めた。

 殻片。

 施設の、外。

 届かなかった。

「……でも」

 声が、一段、低くなった。

「これを使うのは、私のわがままかもしれません」

「紋に刻んだのは、合図だけじゃなくて……私の、感情も。魔力も。一緒に、流れ込んでいました。刻んでいる間に、気づいたんです。これを核にしたら、あなたは、私の想いごと、背負って戻ることになる」

「それは、縛ることと、同じかもしれない」

 声が、迷いに、揺れた。

「それでも、渡します。戻るかどうかは……あなたが、選んで」

 温かいものが、そっと、差し出される感触があった。

 押しつけては、こない。

 ただ、そこに、置かれただけだった。

 選ぶための言葉を、まだ、持っていなかった。

 それでも、迷いは、なかった。

 罅ひびは、繋がった跡だ。

 欠けていたから、伸ばした手に、応えたい。

 それだけで、十分だった。

 完全な鼓動は、まだ、遠くで、揃えと呼び続けている。

 だが、その声はもう、俺を溶かすほどの強さを、持っていなかった。

 欠けたままでいい。

 欠けたまま、あの三つの音の隣へ、戻りたい。

 それが、今の俺の、全部だった。

 俺は、差し出された温かさへ、残っていたすべてを、預けた。

 ――虚無因子の定着を確認。

 ――記憶殻の魔力紋、および外部因子(術者由来)の同期を確認。

 ――現在の意思による選択を、最優先の起動条件として採用。

 ――進化条件を満たしました。

 ――《殻継転生かくけいてんせい》を発動します。

 どく、ん。

 生命力:0/38

 どく、ん。

 生命力:15/38

 どく、ん。

 生命力:38/38

 音が、戻った。

 風の匂い。

 焚き火の燃え残りの匂い。

 誰かの、汗と、涙が混じった匂い。

 どれも、施設の中では、感じたことのないものだった。

「エッグ……!?」

 その声が、いちばん先に、耳へ届いた。

「起きた……! 起きました……!」

 別の声が、重なる。

 祈るような、低い調子だった声。

 続けて、地面を蹴る、規則正しい足音。

 こつん、と、殻へ何かが触れる、小さな衝撃。

 俺の中に、また、あの文字が浮かんだ。

個体名エッグ
種族虚無卵
種族ランクS-
レベル1/50
ひび割れ率5%
生命力38/38
魔力55/55
攻撃力12
防御力25
敏捷6
知力24
運4
固有スキル
《殻継転生 Lv4》
《孵化未遂 Lv5》
《因子吸収 Lv5》
通常スキル
《魔力腕 Lv4》
《神性への耐性 Lv1》
《空間への干渉 Lv1》
称号
《転生者》
《孵化不全》
《消えても還る卵》
《虚無を継ぐ卵》

 虚無卵。

 竜の力は、いくつか、消えている感触があった。

 焼けを弾く力も、竜の威圧も、鱗の硬さも、もう、殻の中にない。

 灰から戻る、あの力も、今は、感じられなかった。

 代わりに、知らない感触が二つ、殻の芯に、居座っていた。

 神性への耐性と、空間への干渉。

 使い方は、分からない。

 それでも、確かに、そこにあった。

 竜の力を、失ったことに、寂しさがなかったと言えば嘘になる。

 あの炎を弾く感触も、威圧で敵を怯ませる重みも、確かに、俺の一部だった。

 それでも、失うことには、もう、慣れていた。

 慣れることが、良いことだとは、思わない。

 それでも、失うたびに、何かを、新しく受け取ってきた。

 今度は、耐性と、干渉。

 まだ、何に使うのかも、分からない力だった。

 視界が、開く。

 重さが、戻っていた。

 殻の底に、地面の冷たさが、じんわりと伝わってくる。

 息を吸うたびに、夜気が、殻の隙間を通り抜けていく感覚があった。

 久しぶりの、この体の重さが、なぜか、心地よかった。

 最初に映ったのは、ミミルの顔だった。

 涙で、輪郭が滲にじんでいる。

 それでも、目の端が、少しだけ下がっていた。

 困った時に眉を寄せて、無事な時には、そうやって笑う顔。

 輪郭を失いかけていた、あの顔だった。

 戻ってきた。

 周りを見る。

 焦げた地面ではなく、谷の入口の夜営跡だった。

 傍らに、柄へ布包みを結んだままの、錆さびた剣が立てかけてある。

 少し離れた場所で、古びた宝箱と、脚が一本しか残っていない椅子と、地面を引きずって動く、重い扉が、こちらをじっと見ていた。

 誰も、殻の欠片を持って、歩き出してはいなかった。

 焚き火跡の向こうで、黒い竜が、横たわったまま、動かない。

 胸だけが、ゆっくりと、上下していた。

 息はある。

 まだ、目は覚めていない。

 脇腹の鱗は、めくれたまま、まだ塞がっていなかった。

 その上に、アリアが、薬草を練り込んだ布を、丁寧に当てている。

 巻いた布が、幾重にも重なっているのが見えた。

 一晩かけて、何度も、巻き直したのだと分かる巻き方だった。

 誰も、この竜を、置いていかなかった。

 その優しさもまた、この谷に、確かに、あった。

 目を覚ましたら、伝えたいことが、また一つ増えた。

「……戻った」

 レオンが、腰の聖剣に手を添えたまま、呟つぶやいた。

「戻ってくるとはな」

 声が、掠れていた。

「正直、覚悟なんて、できてなかった」

 膝が笑っているのを、隠せていなかった。

 アリアが、感応針を握った手で、口元を覆っている。

「鑑定板が……名称が、戻っています」

 声が、震えていた。

 アリアが、震える手で、もう一度、鑑定板を掲げた。

 さっき見たばかりの、全欄が白いままだった、あの表示を、思い出す。

 名称:ひび割れ卵

 種別:不明

 危険度:なし

 食用:不可

 素材価値:低

 状態:良好

 備考:特になし

 空白だった欄が、全部、埋まっている。

 それだけで、アリアの目に、また涙が浮かんだ。

「あの時、座標が三つ、出ていました。《通路・北側――検出》《記録室・下層――検出》……それと」

 声が、一度、区切れる。

「《――――応答なし》。三つ目だけ、他より薄く、瞬いたまま、消えかけていて……あれ、ここだったんですね」

 角兎が、地面を、何度も蹴りながら、鼻先を殻へ寄せてくる。

 全部、無事だった。

 あの鼓動の底で、迷わずに済んだのは、この光景があったからだ。

 完全な形になれば、もう、何も失わずに済む、と、あの声は言った。

 それでも、完全になった先に、今、この場所は、なかった。

 揃った静けさよりも、揃わないまま届いたこの三つの音のほうが、俺には、ずっと、大事だった。

 生きたい、と思った。

 このまま、この、欠けたやつらと。

 ミミルが、涙を拭いながら、アリアの言葉を、引き取った。

「施設の消去は、通路と記録室、二つは見つけたのに、谷の入口までは、届かなかった。ここは、空白地帯の、外だから」

「それに」

 声が、少し、恥じるように、沈んだ。

「あなたの紋に、私の魔力まで、混ざっていました。同じ紋だと、向こうも、確かめきれなかったのかもしれません」

 届かなかった理由が、ようやく、繋がった。

 外にあったから。

 混ざっていたから。

 どちらも、ミミルが、そうしたことだった。

 助けようとして、勝手に殻へ触れて、勝手に紋を刻んで。

 それが、結果として、俺を、あの走査の目から、隠していたことになる。

 偶然のようで、偶然ではなかった。

 守りたい、という一点が、最初から、こうなることを、少しだけ、手繰り寄せていた気がした。

 俺は、右へ、小さく揺れた。

 感謝を、伝えたかった。

 それでも、揺れながら、確かめずにはいられないことが、まだ、あった。

 探ったのは、前世の、名前だった。

 いつか、名乗るべきか迷った、あの響き。

 文字にも、音にも、ならない。

 どこにも、なかった。

 次に、前世の、顔を探る。

 朝ごとに見ていたはずの、前世の自分の顔が、どんな形をしていたのか。

 思い出す手がかりが、どこにも残っていなかった。

 前世で寝ていた、安アパートの、薄い布団の感触。

 前世の職場にあった、あの重たいデスクの、木目の感触。

 あの部屋で、どんな一日を過ごしていたのか。

 あのデスクで、誰と、何を話していたのか。

 どちらも、探る指先の届く場所には、なかった。

 もう、確かめようが、なかった。

 赤黒い空も、巨大な罅も、白い仮面も、あの叫びも。

 二度と、像を結ばなかった。

 消えている、と、はっきり分かった。

 これまでのように、まだある、遠いだけ、とは、違った。

 完全に、なくなっていた。

 悲しくない、と言えば嘘になる。

 誰だったのか、もう、確かめる術がない。

 それでも、名前を失った寂しさより、今、この場所にいる温かさのほうが、ずっと鮮明だった。

 それでも。

 エッグという名前は、ちゃんと、戻ってきていた。

 ミミルの顔も、戻ってきていた。

 困った時に眉を寄せる癖も、笑うと目の端が下がることも、全部、目の前にある。

 前世の名前と顔は、消えた。

 今の名前と、今、目の前にある顔は、戻ってきた。

 全部は、戻らなかった。

 それでも、殻に刻まれた紋が、俺を組み直す足場になったのは、確かだった。

 欠けたまま、拾い直した。

 いつもと、同じだった。

「エッグ……? どうしました、急に、静かになって」

 ミミルが、覗のぞき込むように、殻へ顔を近づけてくる。

 言葉にできないことは、いつものように、揺れで伝えるしかない。

 俺は、左へ、小さく、揺れた。

 悪い知らせだと、伝わったはずだった。

「何か、失ったんですか」

 右へ。

「戻らないものが、あったんですね」

 もう一度、右へ。

 ミミルは、それ以上、何も聞かなかった。

 ただ、殻を包む手に、少し、力がこもった。

「……教えてくれなくても、いいです。それでも、あなたは、あなたです」

 その一言に、揺れる代わりに、殻の奥が、ふっと、緩んだ気がした。

「感情も一緒に流れ込んでいたなんて……ごめんなさい。相談もせずに」

 ミミルが、殻へ両手を添えたまま、うつむいた。

「重かった、ですよね」

「それに……正直、私にも、あの紋の中で、感情と魔力が、これから先、どうなっていくのか、全部は分かっていません。刻んだ時は、無我夢中で」

 声が、また、少し、不安げに、揺れた。

「もしかしたら、まだ、私の知らない何かが、あなたの中に、残っているかもしれません」

 重くは、なかった。

 むしろ、あの虚無の底で、揃えと迫る鼓動に抗えたのは、あの重さがあったからだ。

 俺は、左へ、揺れた。

 もう一度、強く、左へ。

 伝えたいことが、揺れだけでは、足りない気がした。

 殻の奥で、初めて、言葉のようなものが、形を持った。

 声にはならない。

 それでも、届けと、念じた。

『……ミミル』

 ミミルの肩が、跳ねた。

 目を、大きく見開いて、俺を見る。

「今……」

「聞こえました……!?」

 俺は、右へ、揺れた。

 もう一度、右へ。

 ミミルの目から、また、涙がこぼれた。

 今度は、さっきと違う色の涙だった。

 レオンが、息を呑む音がした。

 角兎が、耳を、ぴんと立てる。

 黒竜だけが、目を閉じたまま、動かなかった。

 その静けさが、少しだけ、寂しかった。

 この声で、みんなを守ってきた竜だった。

 目を覚ましたら、真っ先に、何と言うだろう。

 早く、あの声で、何か言ってほしい。

 そう思った、その時だった。

 夜営跡の空気が、ふいに、ざわついた。

 風もないのに、焚き火の残り火が、大きく揺れる。

 剣の柄に結ばれた布包みも、揺れないはずなのに、微かに震えた気がした。

 背中の側で、空気が、軋きしんだ。

 振り返る前に、分かった。

 あるはずのない場所に、何かが、開いている。

 ゆっくりと、視線を回す。

 地割れでも、光の渦でもない。

 四角く切り取られた、扉の形をした、闇だった。

 輪郭だけが、白く縁取られている。

 その向こう側に、見覚えのある記録室とは違う、もっと奥まった、白い空間が、覗いていた。

 白い仮面が、幾つも並んで見える。

 あの、平らな声の、いちばん中枢。

 この谷の入口は、施設のどこにも繋がっていないはずだった。

 それなのに。

 俺の後ろで、あるはずのない扉が、独りでに、開いていた。

記憶殻の話でした。全部は戻らなくても、足場にはなる。そういう再生の形を書きたかったです。

 次はいよいよ、この新しい扉の向こうへ進みます。