第95話 / 全149話
記憶殻
声は、止まらなかった。
「――エッグ」
何度も、何度も、同じ響きが、光の筋の向こうから、届く。
困った時に、眉を寄せる、あの誰かの声。
輪郭のない今の俺にも、それだけは、はっきりと、分かった。
声が、少し掠れた。
「聞こえてる……? お願い、もう一度だけ、応えて」
応えたい。
だが、応えるための口も、喉も、今の俺には、なかった。
それでも、声のほうは、待たずに、続けた。
途切れながら、拾い集めるように、これまでのことを、話し始める。
「地割れを出て……ここまで、丸一日近く、かかりました。レオンさんが黒竜を担いで、アリアさんが支えて……角兎が、ずっと、先導してくれて」
誰も、途中で、諦めなかった、と、声が、震えながら、伝えてくる。
辿り着いた谷の入口には、剣が、まだ、立っていたこと。
宝箱も、椅子も、扉も、誰一人、欠けていなかったこと。
声の向こうに、そういう景色が、確かに、あるらしい、と分かった。
光の筋が、少しずつ、幅を広げていく。
その隙間から、温かいものが、流れ込んできた。
魔力だ、と、直感的に分かった。
それも、覚えのある、あの魔力だった。
「あなたの殻片……ずっと、持ってました。谷底で、作り直した、あれ」
声が、震えながら、続く。
「剣に、預けていました。施設の、外に。だから……施設の消去は、届かなかった、はずです」
言葉の意味を、摑もうとする。
うまく、繋がらない。
それでも、届いた欠片だけを、拾い集めた。
殻片。
施設の、外。
届かなかった。
「……でも」
声が、一段、低くなった。
「これを使うのは、私のわがままかもしれません」
「紋に刻んだのは、合図だけじゃなくて……私の、感情も。魔力も。一緒に、流れ込んでいました。刻んでいる間に、気づいたんです。これを核にしたら、あなたは、私の想いごと、背負って戻ることになる」
「それは、縛ることと、同じかもしれない」
声が、迷いに、揺れた。
「それでも、渡します。戻るかどうかは……あなたが、選んで」
温かいものが、そっと、差し出される感触があった。
押しつけては、こない。
ただ、そこに、置かれただけだった。
選ぶための言葉を、まだ、持っていなかった。
それでも、迷いは、なかった。
罅は、繋がった跡だ。
欠けていたから、伸ばした手に、応えたい。
それだけで、十分だった。
完全な鼓動は、まだ、遠くで、揃えと呼び続けている。
だが、その声はもう、俺を溶かすほどの強さを、持っていなかった。
欠けたままでいい。
欠けたまま、あの三つの音の隣へ、戻りたい。
それが、今の俺の、全部だった。
俺は、差し出された温かさへ、残っていたすべてを、預けた。
――虚無因子の定着を確認。
――記憶殻の魔力紋、および外部因子(術者由来)の同期を確認。
――現在の意思による選択を、最優先の起動条件として採用。
――進化条件を満たしました。
――《殻継転生》を発動します。
どく、ん。
生命力:0/38
どく、ん。
生命力:15/38
どく、ん。
生命力:38/38
音が、戻った。
風の匂い。
焚き火の燃え残りの匂い。
誰かの、汗と、涙が混じった匂い。
どれも、施設の中では、感じたことのないものだった。
「エッグ……!?」
その声が、いちばん先に、耳へ届いた。
「起きた……! 起きました……!」
別の声が、重なる。
祈るような、低い調子だった声。
続けて、地面を蹴る、規則正しい足音。
こつん、と、殻へ何かが触れる、小さな衝撃。
俺の中に、また、あの文字が浮かんだ。
虚無卵。
竜の力は、いくつか、消えている感触があった。
焼けを弾く力も、竜の威圧も、鱗の硬さも、もう、殻の中にない。
灰から戻る、あの力も、今は、感じられなかった。
代わりに、知らない感触が二つ、殻の芯に、居座っていた。
神性への耐性と、空間への干渉。
使い方は、分からない。
それでも、確かに、そこにあった。
竜の力を、失ったことに、寂しさがなかったと言えば嘘になる。
あの炎を弾く感触も、威圧で敵を怯ませる重みも、確かに、俺の一部だった。
それでも、失うことには、もう、慣れていた。
慣れることが、良いことだとは、思わない。
それでも、失うたびに、何かを、新しく受け取ってきた。
今度は、耐性と、干渉。
まだ、何に使うのかも、分からない力だった。
視界が、開く。
重さが、戻っていた。
殻の底に、地面の冷たさが、じんわりと伝わってくる。
息を吸うたびに、夜気が、殻の隙間を通り抜けていく感覚があった。
久しぶりの、この体の重さが、なぜか、心地よかった。
最初に映ったのは、ミミルの顔だった。
涙で、輪郭が滲んでいる。
それでも、目の端が、少しだけ下がっていた。
困った時に眉を寄せて、無事な時には、そうやって笑う顔。
輪郭を失いかけていた、あの顔だった。
戻ってきた。
周りを見る。
焦げた地面ではなく、谷の入口の夜営跡だった。
傍らに、柄へ布包みを結んだままの、錆びた剣が立てかけてある。
少し離れた場所で、古びた宝箱と、脚が一本しか残っていない椅子と、地面を引きずって動く、重い扉が、こちらをじっと見ていた。
誰も、殻の欠片を持って、歩き出してはいなかった。
焚き火跡の向こうで、黒い竜が、横たわったまま、動かない。
胸だけが、ゆっくりと、上下していた。
息はある。
まだ、目は覚めていない。
脇腹の鱗は、めくれたまま、まだ塞がっていなかった。
その上に、アリアが、薬草を練り込んだ布を、丁寧に当てている。
巻いた布が、幾重にも重なっているのが見えた。
一晩かけて、何度も、巻き直したのだと分かる巻き方だった。
誰も、この竜を、置いていかなかった。
その優しさもまた、この谷に、確かに、あった。
目を覚ましたら、伝えたいことが、また一つ増えた。
「……戻った」
レオンが、腰の聖剣に手を添えたまま、呟いた。
「戻ってくるとはな」
声が、掠れていた。
「正直、覚悟なんて、できてなかった」
膝が笑っているのを、隠せていなかった。
アリアが、感応針を握った手で、口元を覆っている。
「鑑定板が……名称が、戻っています」
声が、震えていた。
アリアが、震える手で、もう一度、鑑定板を掲げた。
さっき見たばかりの、全欄が白いままだった、あの表示を、思い出す。
名称:ひび割れ卵
種別:不明
危険度:なし
食用:不可
素材価値:低
状態:良好
備考:特になし
空白だった欄が、全部、埋まっている。
それだけで、アリアの目に、また涙が浮かんだ。
「あの時、座標が三つ、出ていました。《通路・北側――検出》《記録室・下層――検出》……それと」
声が、一度、区切れる。
「《――――応答なし》。三つ目だけ、他より薄く、瞬いたまま、消えかけていて……あれ、ここだったんですね」
角兎が、地面を、何度も蹴りながら、鼻先を殻へ寄せてくる。
全部、無事だった。
あの鼓動の底で、迷わずに済んだのは、この光景があったからだ。
完全な形になれば、もう、何も失わずに済む、と、あの声は言った。
それでも、完全になった先に、今、この場所は、なかった。
揃った静けさよりも、揃わないまま届いたこの三つの音のほうが、俺には、ずっと、大事だった。
生きたい、と思った。
このまま、この、欠けたやつらと。
ミミルが、涙を拭いながら、アリアの言葉を、引き取った。
「施設の消去は、通路と記録室、二つは見つけたのに、谷の入口までは、届かなかった。ここは、空白地帯の、外だから」
「それに」
声が、少し、恥じるように、沈んだ。
「あなたの紋に、私の魔力まで、混ざっていました。同じ紋だと、向こうも、確かめきれなかったのかもしれません」
届かなかった理由が、ようやく、繋がった。
外にあったから。
混ざっていたから。
どちらも、ミミルが、そうしたことだった。
助けようとして、勝手に殻へ触れて、勝手に紋を刻んで。
それが、結果として、俺を、あの走査の目から、隠していたことになる。
偶然のようで、偶然ではなかった。
守りたい、という一点が、最初から、こうなることを、少しだけ、手繰り寄せていた気がした。
俺は、右へ、小さく揺れた。
感謝を、伝えたかった。
それでも、揺れながら、確かめずにはいられないことが、まだ、あった。
探ったのは、前世の、名前だった。
いつか、名乗るべきか迷った、あの響き。
文字にも、音にも、ならない。
どこにも、なかった。
次に、前世の、顔を探る。
朝ごとに見ていたはずの、前世の自分の顔が、どんな形をしていたのか。
思い出す手がかりが、どこにも残っていなかった。
前世で寝ていた、安アパートの、薄い布団の感触。
前世の職場にあった、あの重たいデスクの、木目の感触。
あの部屋で、どんな一日を過ごしていたのか。
あのデスクで、誰と、何を話していたのか。
どちらも、探る指先の届く場所には、なかった。
もう、確かめようが、なかった。
赤黒い空も、巨大な罅も、白い仮面も、あの叫びも。
二度と、像を結ばなかった。
消えている、と、はっきり分かった。
これまでのように、まだある、遠いだけ、とは、違った。
完全に、なくなっていた。
悲しくない、と言えば嘘になる。
誰だったのか、もう、確かめる術がない。
それでも、名前を失った寂しさより、今、この場所にいる温かさのほうが、ずっと鮮明だった。
それでも。
エッグという名前は、ちゃんと、戻ってきていた。
ミミルの顔も、戻ってきていた。
困った時に眉を寄せる癖も、笑うと目の端が下がることも、全部、目の前にある。
前世の名前と顔は、消えた。
今の名前と、今、目の前にある顔は、戻ってきた。
全部は、戻らなかった。
それでも、殻に刻まれた紋が、俺を組み直す足場になったのは、確かだった。
欠けたまま、拾い直した。
いつもと、同じだった。
「エッグ……? どうしました、急に、静かになって」
ミミルが、覗き込むように、殻へ顔を近づけてくる。
言葉にできないことは、いつものように、揺れで伝えるしかない。
俺は、左へ、小さく、揺れた。
悪い知らせだと、伝わったはずだった。
「何か、失ったんですか」
右へ。
「戻らないものが、あったんですね」
もう一度、右へ。
ミミルは、それ以上、何も聞かなかった。
ただ、殻を包む手に、少し、力がこもった。
「……教えてくれなくても、いいです。それでも、あなたは、あなたです」
その一言に、揺れる代わりに、殻の奥が、ふっと、緩んだ気がした。
「感情も一緒に流れ込んでいたなんて……ごめんなさい。相談もせずに」
ミミルが、殻へ両手を添えたまま、うつむいた。
「重かった、ですよね」
「それに……正直、私にも、あの紋の中で、感情と魔力が、これから先、どうなっていくのか、全部は分かっていません。刻んだ時は、無我夢中で」
声が、また、少し、不安げに、揺れた。
「もしかしたら、まだ、私の知らない何かが、あなたの中に、残っているかもしれません」
重くは、なかった。
むしろ、あの虚無の底で、揃えと迫る鼓動に抗えたのは、あの重さがあったからだ。
俺は、左へ、揺れた。
もう一度、強く、左へ。
伝えたいことが、揺れだけでは、足りない気がした。
殻の奥で、初めて、言葉のようなものが、形を持った。
声にはならない。
それでも、届けと、念じた。
『……ミミル』
ミミルの肩が、跳ねた。
目を、大きく見開いて、俺を見る。
「今……」
「聞こえました……!?」
俺は、右へ、揺れた。
もう一度、右へ。
ミミルの目から、また、涙がこぼれた。
今度は、さっきと違う色の涙だった。
レオンが、息を呑む音がした。
角兎が、耳を、ぴんと立てる。
黒竜だけが、目を閉じたまま、動かなかった。
その静けさが、少しだけ、寂しかった。
この声で、みんなを守ってきた竜だった。
目を覚ましたら、真っ先に、何と言うだろう。
早く、あの声で、何か言ってほしい。
そう思った、その時だった。
夜営跡の空気が、ふいに、ざわついた。
風もないのに、焚き火の残り火が、大きく揺れる。
剣の柄に結ばれた布包みも、揺れないはずなのに、微かに震えた気がした。
背中の側で、空気が、軋んだ。
振り返る前に、分かった。
あるはずのない場所に、何かが、開いている。
ゆっくりと、視線を回す。
地割れでも、光の渦でもない。
四角く切り取られた、扉の形をした、闇だった。
輪郭だけが、白く縁取られている。
その向こう側に、見覚えのある記録室とは違う、もっと奥まった、白い空間が、覗いていた。
白い仮面が、幾つも並んで見える。
あの、平らな声の、いちばん中枢。
この谷の入口は、施設のどこにも繋がっていないはずだった。
それなのに。
俺の後ろで、あるはずのない扉が、独りでに、開いていた。
記憶殻の話でした。全部は戻らなくても、足場にはなる。そういう再生の形を書きたかったです。
次はいよいよ、この新しい扉の向こうへ進みます。