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トップ / 目次 / 第五部 世界の傷編

第94話 / 全149話

名前のない虚無

約5,182字

どく、ん。

 どく、ん。

 規則正しい音が、遠くで、鳴り続けている。

 大きい。

 途方もなく、大きい。

 俺の殻とは、比べものにならないほど、大きい。

 ひとつも、罅ひびの入っていない、巨大な卵の、鼓動だった。

 聞こえている、ということは。

 まだ、聞く何かが、俺には、残っているということだ。

 それだけが、頼りだった。

 姿はない。

 重さもない。

 上も下も、遠いも近いも、区別がつかない。

 手を伸ばそうとしても、伸ばす手の場所すら、分からない。

 それでも、鼓動だけは、確かに、そこにあった。

 規則正しく。

 乱れることなく。

 まるで、最初から、揺らぐことなど知らないというふうに。

 その正しさに、耳を澄ませているだけで、何かが、少しずつ、緩んでいく気がした。

 さっきまでいた通路には、まだ、音の名残があった。

 仲間の足音。

 叫び声。

 壁を殴る拳の音。

 どれも、遠ざかりながらも、確かに、輪郭を持っていた。

 ここには、その名残さえ、ない。

 最初から、何もなかったかのように、静かだった。

 静かすぎる場所は、優しさに似た顔をして、こちらへ手招きをする。

 緩んでいくのは、悪いことじゃない、と思えた。

 温かい水に、体ごと沈んでいくような感覚だった。

 痛くない。

 重くない。

 沈めば沈むほど、力を抜くのが、楽になっていく。

 この鼓動に、合わせればいい。

 合わせれば、楽になれる。

 言葉は、どこにもなかった。

 誰かが喋しゃべったわけでも、文字が浮かんだわけでもない。

 ただ、意味だけが、鼓動の間隔に乗って、流れ込んでくる。

 ――欠けているものを、埋めてやる。

 ――痛むところを、なくしてやる。

 ――罅など、最初からなかったことにしてやる。

 声ではない。

 温度でもない。

 それでも、確かに、そう聞こえた。

 欠けがない。

 痛みがない。

 罅がない。

 完全な、形。

 それは、ひどく、心地よさそうに響いた。

 どこかで、似たものを、知っている気がした。

 いつ、どこで、なのかは、思い出せない。

 それでも、初めて聞く響きではない、という感覚だけが、胸の底に、引っかかっていた。

 もしかしたら。

 あの鼓動にも、かつて、罅があったのかもしれない。

 罅を、全部、埋めてしまった後に、あの規則正しさだけが、残ったのかもしれない。

 だとしたら。

 埋めた後に、何が残ったのだろう。

 名前は、まだ、そこにあるのだろうか。

 確かめる術は、なかった。

 俺は、ずっと、罅だらけだった。

 死んで、作り直されて。

 作り直されるたびに、何かを失って。

 それでも立ち上がる度に、失った分だけ、また新しく罅が増えていった。

 薬になって溶けた夜も、刃に砕かれた夜も、炎に焼かれた夜も、痛くないことなんて、一度もなかった。

 そのたびに、何かを、置いてきた。

 覚えていた技を、置いてきたこともある。

 誰かとの記憶を、丸ごと、置いてきたこともある。

 それでも、何度でも、拾い直した。

 拾い直せるだけの何かが、いつも、罅の奥に、残っていたからだ。

 もう、増やさなくていいと言われている気がした。

 もう、痛まなくていいと。

 そのまま、鼓動に合わせて、俺という形も、なくしてしまえば。

 ――名前は。

 浮かびかけて、止まった。

 自分の名前が、うまく、思い出せない。

 呼ばれたことは、覚えている、はずだった。

 誰かが、いつも、そう呼んでいた。

 短い、呼びやすい響きだったはずだ。

 二文字だったか、三文字だったか。

 輪郭だけが、頭の中でぼやけて、指の隙間から零れる砂みたいに、形を保てない。

 思い出そうとするたびに、逆に、輪郭が薄くなっていく気さえした。

 握ろうとする手のひらから、砂が、余計にこぼれていくようだった。

 握るのをやめれば、こぼれずに済むのかもしれない。

 それでも、握ることを、やめられなかった。

 やめてしまえば、二度と、拾い直せない気がした。

 ――まあ、いいか。

 そう思いかけて、いや、と、どこかで、抗う何かがあった。

 いいわけがない。

 なのに、どうして、いいわけがないのか、その理由まで、うまく言葉にできなかった。

 次に、崩れたのは、顔だった。

 誰かの顔を、思い出そうとした。

 いつも、すぐ近くにあった顔。

 困った時に眉を寄せる癖があって、笑うと目の端が少しだけ下がる、そういう顔。

 輪郭を辿ろうとすればするほど、輪郭のほうが逃げていく。

 目の位置も、鼻の高さも、覚えているつもりで、いざ像を結ぼうとすると、光が滲にじんだみたいに、白く飛んでしまう。

 顔がないなら、代わりに、温度だけでも。

 手のひらの、あの温かさだけでも。

 そう思って探ったが、温度の記憶さえ、遠い。

 まだ、ある。

 消えては、いない。

 ただ、遠い。

 遠すぎて、手を伸ばしても、届かない場所にある。

 声も、思い出せなかった。

 低かったのか、高かったのか。

 優しかったはずなのに、優しさの手触りだけが残って、声そのものは、輪郭を失っていた。

 もっと前は、どうだったろう。

 拾われた日の、匂いだけでも。

 薬草の匂いだったか、土の匂いだったか、それさえ、輪郭が滲んで、混ざり合っていく。

 次に来たのは、もっと根っこに近いところだった。

 自分が、何だったのか。

 卵だった。

 ひび割れた、卵だった。

 そこまでは、辛うじて、繋つながっている。

 だが、その前は。

 卵になる前は、何だったのか。

 問おうとした瞬間、赤黒い空と、巨大な罅と、その下で吠える何かの影が、一瞬だけ、脳裏を過ぎった。

 白い仮面をつけた者たちの影。

 さらに遠く、空に浮かぶ、巨大な、白い、卵。

 ――孵かえすな。

 誰かの叫びだった。

 誰の声だったのか、思い出す前に、光景ごと、掻き消えた。

 あれは、俺の記憶なのか。

 それとも、誰か別のものの記憶を、覚えていただけなのか。

 その境界すら、今の俺には、判別できなかった。

 誰の記憶だったにせよ、あの叫びだけは、覚えておくべき気がした。

 覚えておかなければ、いけない気もした。

 理由は、分からない。

 それでも、忘れたくない、という感覚だけが、頑固に、居座り続けていた。

 名前が。

 顔が。

 自分が何だったのかという、いちばん根に近いものまでが。

 順に、薄れていく。

 消えては、いない。

 まだ、ある。

 ある、はずなのに、摑む指がない。

 鼓動は、変わらず、規則正しく、響き続けていた。

 ――迷わなくていい。

 ――何も持たなくていい。

 ――ただ、揃えばいい。

 揃えば、楽になる。

 揃えば、もう、何も失わなくて済む。

 その通りだと、思った。

 失うことに、もう疲れていた。

 拾い直すたびに、何かが、少しずつ、軽くなっていく気がしていた。

 軽くなることが、良いことなのか、悪いことなのか、考える余力すら、もう、なかった。

 拾われて、失って、また拾われて、また失って。

 その繰り返しの果てに、今、ここにいる。

 だったら、いっそ。

 揃ってしまえば。

 罅のない、あの鼓動と、同じ形になってしまえば。

 もう、何も、失わなくて済む。

 意識のようなものが、鼓動の間隔へ、少しずつ、吸い寄せられていく。

 輪郭の縁から、溶けるように、均されていく感覚があった。

 抗う理由が、見つからなかった。

 抗いたい、という気持ちだけは、まだ、かろうじて残っていた。

 だが、なぜ抗うのか、その理由を、名前も、顔も、経緯も失った今の俺は、うまく言葉にできない。

 理由がないなら、抗う資格もない気がした。

 それでも。

 指のない手で、何かを、探り続けていた。

 摑めるものが、何もないと分かっていても。

 ――何を、そんなに、惜しんでいる。

 鼓動が、初めて、そう問いかけてきた気がした。

 問われて、初めて、気づいた。

 惜しんでいるのは、名前じゃない。

 顔でもない。

 思い出そうとしても摑めない、あの、具体的な何かじゃない。

 もっと、単純なものだった。

 罅。

 このひび。

 消えかけの意識の底に、まだ、感触として残っている、あの、欠けの手触り。

 痛かった。

 何度も、痛かった。

 死ぬたびに、罅が増えて、増えるたびに、怖かった。

 それでも、その痛みがあったから、自分が今、ここにいると、分かった。

 欠けているから、埋めようとした。

 埋めようとして、誰かに、手を伸ばした。

 伸ばした先に、誰かが、いてくれた。

 一人ではなかった。

 最初に、罅の隙間から、俺をすくい上げてくれた手があった。

 その後にも、罅を庇うように、隣を歩いてくれた者たちがいた。

 刃を、決して俺には向けなかった誰か。

 祈りの言葉を、静かに紡いでくれた誰か。

 言葉を持たないまま、ただ隣で鳴き続けてくれた誰か。

 唸うなるような声で、道を示してくれた誰か。

 顔も名前も、もう、はっきりとは思い出せない。

 それでも、何人だったか、何かが、覚えている気がした。

 完全だったら、伸ばさなかった。

 欠けていたから、伸ばした。

 罅があったから、繋がった。

 その順番を、今、初めて、はっきりと、理解した気がした。

 罅は、失敗の跡じゃない。

 繋がった、跡だ。

 消してしまえば、楽になるかもしれない。

 だが、繋がった跡ごと、消えることになる。

 誰と繋がったのかも、思い出せないまま。

 それだけは、駄目だ、と、名前のない何かが、震えるように、そう思った。

 理由は、まだ、言葉にならない。

 それでも、駄目だという感触だけは、消えなかった。

 駄目だという感触の奥に、もう一つ、小さな確信があった。

 罅は、消えても、繋がった記憶までは、簡単には消えない。

 消えたように見えても、どこかに、跡は残る。

 根拠は、なかった。

 それでも、そう信じたかった。

 鼓動が、わずかに、強さを増した気がした。

 逃がすまいとするように。

 揃えと、急かすように。

 輪郭が、また、緩んでいく。

 罅の感触も、痛みの記憶も、今度こそ、鼓動の波へ、吸い込まれかけた。

 もう少しで、境目が、なくなる。

 境目がなくなれば、迷うことも、なくなる。

 迷わなければ、楽になる。

 その通りだと、また、思いかけた。

 その時だった。

 遠く、途方もなく遠く、まったく別の場所から、何かが届いた。

 こつ、こつ、こつ。

 三回。

 規則正しく、だが鼓動とは違う、軽い響き。

 殻を、叩く感触。

 覚えている、リズムだった。

 誰の手だったかは、まだ、思い出せない。

 それでも、この叩き方には、いつも、優しさが混じっていた気がした。

 続いて。

 とん、とん、とん。

 小さな、規則正しい足踏み。

 地面を、蹴る音だった。

 近づけない誰かが、それでも、離れずにいる時の音だと、なぜか、分かった。

 さらに。

 かたん、と、何かが静かに置かれる、乾いた音。

 重みのあるものが、地面へ、丁寧に横たえられる、あの音。

 誰かが、刃を、地面へ置いた時の音だった。

 握るための道具ではない、と、誰かが、選び直した時の音。

 その少し後ろから、低く、揺るがない、祈るような声の調子が、ほんのわずかに、混じった気もした。

 言葉までは、聞き取れなかった。

 それでも、祈りだと、分かった。

 どれも、鼓動より、ずっと小さく、ずっと頼りない。

 だが、鼓動と違って、揃えと、求めてこない。

 ただ、ここにいる、と、伝えてくるだけだった。

 それは、この完全な卵が満ちているはずの場所には、存在しないはずの響きだった。

 施設のどこにも、繋がっていないはずの、どこか遠くから。

 応答のない座標の、さらにその先から。

 流れ込んでくる。

 どこなのかは、分からない。

 それでも、そこには、今も、誰かが、いる。

 いてくれる、と、疑わずに思えた。

 三つの音は、順番も強さも、ばらばらだった。

 揃おうとせず、それぞれの調子のまま、届いた。

 揃っていないのに。

 どうしてか、鼓動よりも、ずっと、確かだった。

 消えかけていた輪郭の隅で、何かが、僅わずかに、形を取り戻しかける。

 名前は、まだ、思い出せない。

 顔も、まだ、ぼやけたままだった。

 それでも、あの三つの音のどれか一つでも欠けたら、何かが決定的に違ってしまう、という感覚だけは、はっきりと分かった。

 欠けたら、困る。

 欠けてはいけない、音たちだった。

 鼓動が、束の間、乱れた。

 規則正しかったはずの拍が、初めて、揺れた。

 揺れは、すぐに収まり、また元の正しさへ戻っていく。

 それでも、揺れたという事実だけは、確かに、残った。

 完全は、揺れない、はずだった。

 揺れたということは。

 一度目の、揺れ。

 二度目の、揺れ。

 鼓動が乱れるたびに、消えかけていた輪郭が、わずかに、像を結び直していく。

 この静けさの外に、何かが、ある。

 暗闇の、ずっと奥。

 一本の、細い光の筋が、闇を裂くように、走った。

 罅のような、光だった。

 光は、細いまま、消えなかった。

 むしろ、少しずつ、幅を広げていく。

 広がるにつれて、こつ、こつ、こつという殻を叩く感触が、はっきりと、輪郭を持ち始めた。

 とん、とん、とんという足踏みも。

 かたん、という乾いた音も。

 どれも、もう、遠い残響じゃなかった。

 すぐ、そこにある。

 その向こうから。

 声が。

「――エッグ」

 名前を、呼ばれた。

 誰の声かは、まだ、分からない。

 それでも、その響きだけは、はっきりと、聞こえた。

 困った時に、眉を寄せる、あの誰かの声だと、なぜか、分かった。

 響きに、何かが、震えた気がした。

 輪郭を失っていたはずの、名前のようなものが、その響きに、応えようとしていた。

 思い出す前に。

 まだ、応えられる体すら、ないのに。