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トップ / 目次 / 第五部 世界の傷編

第93話 / 全149話

殻片さえ残さない

約5,425字

警告音が、止まらない。

 通路の奥から、幾つも重なって、規則正しく響き続けている。

 《矯正不能。不良品。》の文字だけが、壁に居座ったまま、消えなかった。

 視界は、もうほとんど閉じかけている。

 それでも、音だけは、まだ拾えた。

 通路の壁には、さっきの戦いで削られた跡が、幾筋も走っている。

 崩れた破片が、灰の粒と一緒に、まだ薄く舞っていた。

 削られ磨かれた床の、いつもは滑らかなはずの面にも、細かい罅ひびが入っていた。

「エッグ、離しません」

 ミミルの声。

 殻に添えられた両手が、震えながらも、俺の体を持ち上げる。

 軽いはずの体が、今は、鉛のように重く感じられているのが分かった。

「戻りましょう。外まで、私が運びます」

 声は、迷いなく、けれど、震えていた。

「大丈夫。絶対に、助けます」

 誰に向けた言葉なのか、俺にも、ミミル自身にも、はっきりとは分からなかった。

 それでも、その声だけは、信じたかった。

「おい、起きろ!」

 レオンが、壁際に崩れた黒竜の肩を、揺さぶる。

 答えは、なかった。

 上下する胸だけが、辛うじての返事だった。

 叩きつけられた脇腹の鱗が、めくれて血が滲にじんでいる。

 殻の内側から見えた、あの重い一撃の痕だった。

「くそ……お前を、こんな目に遭わせたのは、俺じゃない」

 声が、誰へともなく、こぼれた。

 誰に言い訳しているのか、レオン自身も、分かっていないようだった。

 片膝をついたまま、黒竜の首元へ腕を回し、持ち上げようとして、顔が歪む。

 自分の体も、万全ではなかった。

 壁に叩きつけられた背中が、まだ、悲鳴を上げているはずだった。

「私が支えます」

 アリアが、レオンの逆側から、黒竜の体へ肩を差し入れる。

 二人がかりでも、巨体はびくともしない。

 それでも、じりじりと、爪先だけが床から浮いていく。

 灰竜卵になってから、幾度となく技を仕込んでくれた、あの重さだった。

 二人がかりで、ようやく、巨体が浮いた。

 角兎つのうさぎが、先に立って、来た道を戻ろうとする。

 鼻先を、何度も、地割れの方角へ向けていた。

「念のため、確認します」

 アリアが、駆けながら、鑑定板をこちらへ向けた。

 いつもの、見慣れた文字が並ぶ。

 名称:ひび割れ卵

 種別:不明

 危険度:なし

 食用:不可

 素材価値:低

 状態:機能停止中。生存反応、微弱。

 備考:経過観察を要す。

 変わらない。

 いつもと同じ、俺を示す言葉だった。

 それだけで、少しだけ、安心できた気がした。

 ミミルが、俺を胸に抱えたまま、駆け出した。

 行こう。

 外まで、あと少しだ。

 通路の先に、地割れから差し込む光が、確かに見えた気がした。

 ミミルの腕の中で、揺れが伝わってくる。

 息の乱れも、心臓の音も、殻越しにはっきり届いた。

 こんなに近くで、こんなにはっきり、この音を聞いたことは、なかった気がする。

 もっと聞いていたい、と思った。

 だが。

 足音が、途中で、止まった。

 行く手を、灰色の光が、塞いでいた。

 濁った膜のような壁が、床から天井まで、音もなく迫り上がっている。

 振り返っても、同じ色が、もう追いついていた。

 囲まれている。

 角兎が、低く鳴いて、後ずさった。

 逃げ場は、どこにもなかった。

 これは、障壁だ。

 灰の色をした、逃げ場のない壁。

「退け……!」

 レオンが、黒竜を背負ったまま、床に置いたままだった聖剣を拾い上げ、抜こうとして、止めた。

 剣は、戦う相手を選んでいない。

 斬りつけたところで、これが崩れるとは、レオン自身も思っていないようだった。

 代わりに、拳を、壁へ叩きつける。

 鈍い音がして、跳ね返された。

 傷ついた手を庇いながらも、もう一度、握り直す。

 アリアが、両手を胸の前で組み、短く祈りの言葉を紡いだ。

 いつもの、あの型どおりの言葉。

 膜は、揺らぎもしなかった。

「祈りでは、開かない、みたいです」

 声が、悔しさに掠かすれていた。

 通路の奥、罅割れた壁の中から、また、声がした。

「――退避、検知」

 平らな声だった。

「通常回収、不成立」

 言葉が、区切られるたびに、壁の光が強くなっていく。

「殻の欠片から、個体が戻ってきた事例を、複数、確認」

「これが、お前たちのやり方か」

 レオンが、絞り出すように言った。

「判断ではありません。基準に従っているだけです」

 声は、揺らがなかった。

 揺らがないことが、何よりも恐ろしかった。

「その基準とやらを、決めたのは誰だ!」

 答えは、返らなかった。

 レオンが、拳を、床へ叩きつけた。

「俺は、もう、誰かを命令のために失うのは、ごめんだ」

 勇者と呼ばれていた頃の自分に、今、言い聞かせているようだった。

 俺のことだ、と分かった。

 護送の馬車で麻痺と魔力吸収液に呑まれて死んで、仲間を救うため自分を薬に変えて死んで、聖剣に砕かれて死んで、竜炎に焼かれて死んで。

 そのたびに、残った殻の欠片を核にして、戻ってきた。

 護送の馬車の中、麻痺と魔力吸収液に体を灼かれながら、殻が灰のように崩れて死んだ、初めての夜のこと。

 あの時は、自分が何になるのかさえ、分からないまま、意識が閉じた。

 目が覚めたら、纏まとう姿も、纏う力も、前とは違っていた。

 それでも、隣にミミルがいてくれたから、怖くはなかった。

 腐毒ふどくに沈みかけた仲間たちを救うため、自分を薬に変えて死んだ、あの夜のこと。

 殻が内側から溶けていく感覚だけは、今でも、はっきり覚えている。

 聖剣の光を浴びて、視界が眩しさに染まった夜のこと。

 あの時は、恨む前に、ミミルの顔が見えなくなることの方が、怖かった。

 自分から刃を導いたことは、誰にも話していない。

 話さなくても、良かったのだと、今なら思える。

 竜炎に、自分から飛び込んだ夜のこと。

 あの時は、焼かれることより、誰かを縛らずに済むことの方を、選んだ。

 灰しか残らなかった体を、芽の根が、代わりに繋つなぎ止めてくれた。

 あの根は、もう一度は使えない。

 分かっていたはずのことを、改めて、突きつけられている気分だった。

 今度もまた、同じことが起きると、この声は、知っている。

「返してください……! この子は、もう、自分から動くことさえ、やめたんです」

 ミミルが、殻を強く抱き寄せながら、叫んだ。

「その判断は、対象の意思とは、無関係です」

「なら、私たちの意思は、関係あるんですか」

 アリアが、震える声で、食い下がった。

「関係ありません」

 声は、平らなまま、揺れる余地を残さなかった。

「以後、完全廃棄へ、移行します」

「対象、意識体・経験記録・因子紋、および再構成核となる殻の欠片」

「同時消去を、実行」

 言葉の意味を摑むより先に、体の奥が、冷たくなった。

 壁に、細い光の文字が、縦に流れ始めた。

 座標を示す印が、いくつも並ぶ。

 《通路・北側――検出》

 《記録室・下層――検出》

 《――――応答なし》

 三つ目の印だけが、他より薄く、瞬いては、消えかけていた。

 アリアが、一瞬だけ、その並びへ目を細めた。

 だが、それどころではない、というふうに、すぐに視線を戻す。

 それが何を示しているのか、考える力は、もう、俺には残っていなかった。

 殻の欠片が、一つでも残れば。

 俺は、また、戻ってくる。

 死因と、そこにあった因子を核にして、殻ごと、作り直される。

 それを知っているのは、俺だけのはずだった。

 なのに、この声は、同じことを、知っていた。

 だから、全部を、同時に消すつもりだ。

 魂も、覚えていることも、纏った力も、そして、殻の欠片そのものも。

 どれか一つでも残れば、また、始まってしまうから。

 あの日のことを、思い出した。

 殻すら残らず、灰だけになった夜。

 焼けた根が、灰の奥へ潜り、俺の経験を留める紋へ絡みついた、あの感触。

 ――代替核を確認。

 ――以後、代替核として分離することはできません。

 一度きり、だと、あの時、はっきり告げられた。

 あの根は、もう、俺の中にはない。

 骨組みとして、とっくに定着し、二度と分離できない場所に、なっている。

 同じ奇跡は、もう起きない。

 今度こそ、終わる。

「開けてください! この子は、まだ……!」

 ミミルが、俺を抱えたまま、灰色の壁へ向かって、叫んだ。

 壁は、応えなかった。

 膜は、ゆっくりと、けれど確実に、狭まってくる。

 狭まるたびに、仲間たちとの距離が、否応なく縮んでいく。

 灰の匂いが、濃くなっていく。

 レオンが、ミミルとアリアを、自分の背に庇うように立ち位置を変えた。

 角兎も、殻へ寄り添うようにして、輪の内側へ入ってくる。

 誰も、俺から離れようとしなかった。

 膜に呑まれるなら、一緒に呑まれるつもりでいる。

 その覚悟が、痛いほど伝わってきた。

 殻の奥に、まだ、残っていたものがあった。

 攻撃のための流れは、もう、自分で断った。

 握り潰すための力は、もう、俺の中にはない。

 それでも、腕を大きく振るえば、この膜くらいは、砕けるかもしれない、とも思った。

 だが、この腕は、もう、狙いを外せる腕じゃなかった。

 爆ぜた力の余波は、すぐそばにいる仲間たちを、そのまま巻き込む。

 それだけは、できない。

 それでも。

 ほんの僅わずかに、灯りのようなものが、まだ、残っていた。

 握るための腕じゃない。

 守るための腕だったはずだ。

 最後に、もう一度だけ。

 それを、証明したかった。

 このまま、みんなが膜に呑まれれば、俺が消えるのと、同じことになる。

 それだけは、駄目だ。

 消えるのが、この手で誰かを傷つけた結果じゃなくて、良かった。

 最後にそう思えるなら、悪くない終わり方だ。

 殻の内側で、その灯りが、弾けた。

 光でも、風でもない、名前のつけようのない力が、仲間たちの体を、まとめて外側へ押し出す。

 ミミルの腕から、俺の体が、離れる。

「エッグ……!」

 叫ぶ声が、遠ざかっていく。

 角兎が転がるように弾かれ、宙で一回転して、爪を立てて着地した。

 アリアが、黒竜を支えたまま、レオンごと後ろへ滑る。

 支えを失った黒竜の巨体までもが、押し出された膜の外へ、そのまま滑り出ていくのが見えた。

「エッグ、待て……!」

 レオンの声が、崩れかけていた。

「約束、してません……! まだ、何も、伝えてない……!」

 アリアの声も、続いた。

 角兎だけが、言葉を持たない分、ただ長く、鳴き続けていた。

 最後に、殻に触れたままだった、ミミルの指先。

 そこへ、力を込めて、一度だけ、震わせた。

 合図とは、違う揺れ方だった。

 右でも、左でもない。

 ただ、強く、一度だけ。

 逃げろ。

 それだけを、込めた。

 届いたのかは、分からない。

 それでも、ミミルの指が、殻から離れる瞬間、確かに、目が合った気がした。

 灰色の膜が、俺だけを囲んで、閉じていく。

 外側で、ミミルが、何かを叫んでいる。

 レオンが、閉じていく膜へ、拳を何度も叩きつけているのが見えた。

 角兎が、膜の縁で、体当たりを繰り返している。

 誰も、諦めていなかった。

 それでも、声は、届かなかった。

 この膜は、音まで、吸ってしまうらしい。

 静けさの中に、一人だけ取り残された。

 これほどの静けさは、この通路に入ってから、初めてだった。

 不思議と、怖くはなかった。

 殻に、ひびが、広がっていく。

 いつもの、死ぬ時のひびとは、違った。

 痛みは、なかった。

 ただ、光へ、変わっていくだけだった。

 光の粒が、殻の表面から、ひとつ、またひとつと、浮き上がっていく。

 粒のひとつひとつに、何かが灯っているような気がした。

 工房の薬草の匂い。

 森を転がっていた時の土の感触。

 谷底で交わした、三度の合図。

 鞘さやごと剣が置かれる、あの乾いた音。

 鼻先が殻に触れる、あの温かさ。

 言葉にする前に、光は、もう空気へ溶けて、消えていく。

 殻が。

 灰が。

 全部、光の粒になって、解けていく。

 消えていく意識の隅、ほんの一瞬だけ、光の向こうが、見えた気がした。

 膝をついたミミルの前で、アリアが、震える手で、鑑定板を掲げている。

 いつもの手順のように。

 まだ、そこに何か映るはずだと、信じているみたいに。

 その傍らで、レオンが、膜のあった場所へ、拳を握ったまま立ち尽くしていた。

 角兎は、低く、途切れることなく鳴き続けている。

 黒竜が、薄く目を開けかけて、また閉じるのが、視界の端に映った。

 板の表面に、見慣れた文字の並びが、浮かんでは。

 消えていく。

 名称:

 種別:

 危険度:

 食用:

 素材価値:

 状態:

 備考:

 どの欄も、白いまま、何も埋まらなかった。

 さっき見たばかりの、あの並びとは、まるで違う。

 名称も、種別も、危険度も、素材価値も。

 全部、同じだった。

 俺を示す言葉が、この世界のどこにも、残っていなかった。

 それきり。

 何もなかった。

 音も。

 光も。

 痛みも。

 殻の感触さえも。

 自分の輪郭さえ、どこにあるのか分からない。

 名前を呼ばれても、答えられる体がない。

 俺は、まだ、俺なのか。

 それすら、確かめる手立てがなかった。

 名前も、殻も、抱えてきた記憶さえも、どこにも見当たらない。

 右に揺れる、という当たり前のことすら、今の俺には、できない。

 それでも、何かが、まだ在るような気がした。

 言葉にできない、輪郭より前の、何か。

 探そうとしても、手も、指も、殻さえもない。

 それでも、探すことをやめなかった。

 何もない場所に、俺は、いた……はずだった。

 どれくらいの間、そうしていたのかも、分からない。

 一瞬だったのか、途方もなく長い時間だったのか、測る術さえ、なかった。

 なのに。

 どこか、遠くで。

 どく、ん。

 どく、ん。

 規則正しい音が、響いていた。

 何も残らなかったはずの場所で、それだけが、確かに、鳴っていた。

 大きい。

 途方もなく、大きい。

 俺の殻とは、比べものにならないほど、大きい。

 ひとつも、罅の入っていない、巨大な卵の、鼓動だった。

ここが、彼の選んだ止まり方でした。