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トップ / 目次 / 第五部 世界の傷編

第92話 / 全149話

仲間を敵にする命令

約5,148字

布が裂ける音が、まだ耳の奥に残っていた。

 骨組みごと真っ二つになったゆりかごが、宙で弾ける。

 工房を出た頃から、ずっと荷の底に仕舞われていた籠だった。

 支えを失った俺の体は、そのまま外へ放り出された。

 床に、殻が跳ねる。

 一度。

 二度。

 三度目で、通路の壁際に転がって止まった。

 通路の奥では、規則正しい警告音が、まだ幾つも重なり続けている。

 記録室を出る前から、施設全体が、俺に気づいていた。

 その音の中で、視界だけが、やけにはっきりしていた。

 視界の端に、ミミルの顔が見えた。

 両手を、こちらへ伸ばしたまま、動けずにいる。

 声も、出ていなかった。

 殻に、痛みはなかった。

 ただ、頭の奥で、何かが軋きしむ音だけが、絶え間なく響いていた。

 《敵性対象、全破壊》

 《干渉強度》

 数字は、もう、上限のすぐ手前まで埋まっている。

 足音がくぐもるこの通路では、遠くの音も、近くの音も、布越しのように鈍い。

 念話も、魔力の揺らぎも、ここでは届かない。

 記録室を出てからずっと、そうだった。

 それでも、声だけは、届く。

 誰かが教えてくれたわけじゃない。

 この通路に入ってから、何度も確かめてきたことだ。

 それでも、ミミルの声だけは、はっきり届いた。

「無事……」

 震える声で、駆け寄ってくる。

 自分の身より先に、俺の殻へ手を伸ばした。

 傷は、なかった。

 破れた籠の残骸が、身代わりになっただけだ。

 それでも、ミミルの指先は、確かめるように、何度も殻の表面を撫なでた。

 冷たいはずの指が、今は、殻よりも熱いくらいだった。

 その手が、いつもの合図を刻む。

 とん、とん、とん。

 角兎つのうさぎも、駆け寄って、鼻先を寄せてこようとした。

 いつもなら、それで済んだ。

 三度叩く合図と、鼻先の合図。

 二つ重なれば、竜威圧りゅういあつも灰再生はいさいせいも、波が引くように鎮まったはずだった。

 だが、今度は、違った。

 殻の奥で、腕が鎮まらない。

 むしろ、二つの合図を弾き返すように、四本の魔力腕まりょくわんが、震えながら持ち上がっていく。

 届け。

 届いてくれ。

 願うほどに、殻の内側は、逆に軋んだ。

 届かない。

 いつもの合図が、届いていない。

「効かない……」

 ミミルの声が、掠かすれた。

 初めて聞く響きだった。

 黒竜が、低く牙を鳴らして、身を低くする。

 念話は、届かない。

 それでも、瞳だけで、何かを伝えようとしていた。

 あの時と、同じ構えだった。

 尾で、力ずくで押さえ込む構え。

 だが、前に押さえ込んだ時は、それ自体が引き金になって、竜威圧と灰再生が暴走した。

 今度も、同じ道を選ぼうとしている。

 止めろ、と思う間もなかった。

 だが、今度は、遅かった。

 いや――力が、足りなかった。

 干渉強度が振り切れた今の腕は、前よりも重く、速い。

 黒竜の尾が、俺の腕へ巻きつくより先に、振り向きざまの一撃が、その胴を、真横から打った。

 鱗の鈍い音。

 巨体が、通路の壁へ叩きつけられ、そのまま崩れ落ちる。

 あれほど大きかった体が、今は、ただの塊のように、動かない。

 振り抜いた腕の先で、爪が、まだ震えている。

 自分の力の重さに、腕そのものが、戸惑っているみたいだった。

 動かない。

 殺した、とは、思いたくなかった。

 目を凝らせば、胸のあたりが、わずかに上下している。

 息は、ある。

 ただ、意識だけが、刈り取られたように途切れていた。

 これが、俺の力なのか。

 誇らしいはずのものが、今は、ただ恐ろしかった。

 灰竜卵になってから、ずっと隣で技を仕込んでくれた、あの牙が、今は動かない。

 師と呼んだことは、一度もなかった。

 それでも、確かに、そうだった気がした。

 考える間も、与えられなかった。

 レオンが、崩れた黒竜と俺の間へ、体ごと割り込んでくる。

「よせ!」

 声と同時に、四本目の腕が、無造作にレオンを薙ないだ。

 薙ぐつもりなんて、なかった。

 なのに、体が、勝手に動いた。

 レオンの体が宙を舞い、通路の壁に背から叩きつけられる。

 鈍い音と、短い呻うめき。

「レオンさん!」

 アリアの声が、くぐもった空気の中でも、はっきりと届いた。

 鑑定板を放り出し、真っ先に、レオンの傍へ駆け寄る。

 肩に手を当て、傷の深さを確かめる仕草。

「立てますか」

「……立てる」

 声は、掠れていたが、強がりではなかった。

 レオンが、壁に手をついて、体を起こす。

 レオンを支えるアリアと、崩れたままの黒竜と、体を起こしたレオン。

 三方向に、視界の赤い枠が、まだ張り付いたままだった。

 止まれ。

 叫べない声で、また叫んだ。

 届かない。

 それでも、抗う手がかりを探して、殻の奥へ潜った。

 初めて拾われた日の記憶。

 籠の中の俺を見て、目を輝かせたミミル。

 大事そうに抱え直してくれた、あの腕。

 誰にも見向きもされない廃棄物のはずだった俺に、真っ先に手を伸ばしてくれた、あの手。

 ――回収完了。対象、確保。

 平らな声が、記憶の縁を、なぞるように上書きする。

 違う。

 あれは、拾われたんだ。捨てられかけていた俺を、ミミルが拾ってくれたんだ。

 なのに、頭の奥では、違う言葉が鳴り続ける。

 従魔として登録された日の記憶も。

 右に揺れて、自分の意思で頷うなずいた、あの日。

 誰かの持ち物にされることを拒んで、それでも、ミミルの隣にいるためだけに選んだ、あの答え。

 ――対象を拘束。逃走防止のため、登録実施。

 絆じゃない。

 鎖だと、囁ささやかれる。

 谷底で、ミミルが作り直してくれた記憶殻のことも。

 焼け落ちた記憶を、また消えないようにと、筆先に魔力を灯して紋を描いてくれた、あの夜。

 ――監視媒体、設置完了。逃亡経路、把握済み。

 守りたいという想いが、監視するための道具に、すり替えられていく。

 筆先の魔力が、紋を描く時のあの静けさは、監視のためのものなんかじゃなかった。

 消えないでほしい、と願う手つきに、どうして、そんな名前がつけられるのか。

 違う。

 全部、違う。

 分かっているのに、平らな声のほうが、少しずつ、正しく聞こえてくる。

 自分の記憶なのに、どちらが本当か、自信が持てなくなっていく。

 これが、狙いなのか。

 思い出すこと自体が、罠になっている。

 名前すら、疑わしくなってきた。

 誰が、いつ、なぜ呼んでくれたのか。

 思い返そうとするたび、輪郭が、じわりと滲にじむ。

 自分が自分でなくなっていく感覚は、殻が砕けて死ぬ時よりも、ずっと静かで、ずっと怖かった。

 それでも、もう一度だけ、と思った。

 ミミルの指先の温もり。

 三度叩く時の、少しだけ震える力加減。

 あれは、言葉で書き換えられるようなものじゃない。

 肌で覚えている感触には、平らな声も、届いていなかった。

 かろうじて、そこだけは、まだ自分のものだった。

 視界の中心に、赤い枠が浮かぶ。

 ミミルの、背中に。

 四本の腕が、また、持ち上がっていく。

 止めてくれ。

 誰でもいい。

 止めてくれ。

 壁際で、レオンが体を起こす気配がした。

 腰から、聖剣を外す、金属の音。

 包帯の巻かれた左手が、震えながらも、鞘さやごと剣を支えている。

 静かに、床へ置かれた。

 ……乾いた音。

 谷底で聞いた、あの音と、同じだった。

 守る時に、武器を捨てる音。

「振るわない。今は、お前と戦う剣じゃない」

 声は掠れていたが、確かに、そう言った。

 俺は、お前の武器じゃない。

 記録室で、剣に向かって放ったあの言葉を、レオンは、鞘を置くたびに、確かめ直しているようだった。

 今日も、同じだった。

 角兎が、駆け寄ろうとして、足を止める。

 鼻先を寄せられる距離じゃない。

 今の俺に近づけば、あの爪が届く。

 迷いは、一瞬だった。

 代わりに、角兎は、その場で、前足を地面へ強く打ち付けた。

 一度。

 また、一度。

 規則正しい音が、床を伝って響く。

 いつもの、鼻先の合図じゃなかった。

 近づけないから選んだ、新しい合図だった。

 アリアが、感応針を握った手を、胸の前で組む。

 あの通路に入る前、合図の確認で見せた、同じ仕草だった。

 目を閉じ、短く、声にならない言葉を紡いだ。

 やがて、それは、声になった。

「……道を外れた枝にも、還る場所を。迷った羊にも、灯りを」

「壊れた器にも、まだ、還る心があると信じます」

 この場に似つかわしくないほど、静かで、揺るがない声だった。

 祈りだった。

 教会で習った、型どおりの言葉だったのかもしれない。

 それでも、その声には、迷いがなかった。

 ミミルは、逃げなかった。

 持ち上がった爪の真下に、まっすぐ進み出る。

「ミミル、下がれ!」

 レオンの声が飛ぶ。

 ミミルは、止まらなかった。

 殻に、両手を当てる。

 とん、とん、とん。

 三度、叩く。

「戻ってきてなんて、言いません」

 声が、揺れていた。

「止まるかどうかも――あなたが、選んで」

 壁際のレオンと、少し離れた場所で足踏みを続ける角兎と、その隣で祈るアリアと、真下で殻に手を当てるミミル。

 四方向から、ばらばらのやり方で、同じことを伝えようとしていた。

 誰も、逃げていない。

 誰も、俺を、素材にも、道具にも、敵にもしていない。

 乾いた音。

 規則正しい足踏み。

 祈りの言葉。

 三度の、指の感触。

 四つが、同時に、ばらばらの方向から、殻へ届く。

 頭の奥の平らな声は、まだ、記憶を書き換え続けていた。

 拾われた日を、回収と呼び。

 登録を、拘束と呼び。

 記憶殻を、監視の器と呼び続けていた。

 だが。

 今、この瞬間に届く音や声は、書き換えようがなかった。

 記憶じゃない。

 今、ここで、鳴っている音だ。

 過去がどれだけ歪められても、今このとき四人が選んで差し出したものだけは、誰にも奪えなかった。

 爪の動きが、鈍った。

 止まれ、と願った時よりも、確かな重みだった。

 命令は、消えなかった。

 《敵性対象、全破壊》の赤い文字も、《干渉強度》の数字も、消えないまま、そこにあり続けている。

 握れ、壊せという声も、まだ腹の底で唸うなっている。

 それでも。

 爪の先を止める力だけは、まだ俺の中に残っていた。

 このまま動けば、いつかまた、同じ手で、誰かを傷つける。

 次は、止まらないかもしれない。

 合図は、腕を止めてくれた。

 だが、命令そのものは、消せなかった。

 誰かが根元を断ってくれない限り、この声は、また鳴る。

 次に合図が間に合わなかったら。

 次に、誰かが近くにいなかったら。

 考えたくなかった光景が、いくつも浮かんでは消えた。

 止められる保証は、どこにもない。

 なら、動かなければいい。

 単純な答えだった。

 だが、それを選ぶことは、この先ずっと、自分の意思で自分を縛ることでもある。

 もう、右にも左にも揺れられなくなるかもしれない。

 それでも。

 誰かを傷つけ続けるよりは、ましだった。

 俺は、殻の奥で、魔力を巡らせる流れを、自分で断った。

 灰を呼び戻す力も、一緒に。

 衝動を、消せたわけじゃない。

 衝動を抱えたまま、動くことをやめただけだ。

 四本の腕から、力が抜けていく。

 持ち上がっていた爪が、力なく下がる。

 殻の内側で、何かが静かに止まる感触があった。

 視界が、少しずつ、暗くなっていく。

 最後まで、《敵性対象、全破壊》の文字だけは、消えなかった。

「エッグ?」

 ミミルの声が、遠くから聞こえる。

 殻に触れる手の感触も、うまく感じ取れなくなっていく。

 動けと、頭のどこかで、誰かが言っている気がした。

 だが、動かないと決めたのは、俺自身だった。

 視界の隅で、黒竜の胸が、まだ上下しているのが見えた。

 息はある。

 それだけが、せめてもの救いだった。

「エッグ、聞こえていますか」

 ミミルの声が、震えながらも、必死に呼びかけてくる。

 答えたかった。

 右に、揺れたかった。

 だが、殻を揺らす力さえ、もう、うまく集まらない。

「返事を、してください」

 声が、遠のいていく。

 揺れる力さえ、もう、殻のどこにも残っていなかった。

 角兎が、足踏みをやめて、殻へ体を寄せてきた。

 温かさだけは、まだ、かろうじて分かった。

 アリアが、レオンに肩を貸しながら、こちらへ近づいてくる気配がした。

 誰も、逃げようとはしなかった。

 止まったはずの俺を、まだ、囲むように残っていた。

 警告音だけが、通路の奥で、鳴り続けている。

 通路の奥、罅ひび割れた壁の端末が、ぼんやりと光を灯す。

 声は、渦の奥からでも、記録室の円盤からでもなかった。

 すぐそこの、壁の中から、聞こえた。

「――動作停止を、確認」

 平らな声だった。

 いつもの、あの声。

「矯正、不能」

 文字が、壁に、そのまま浮かび上がる。

 《矯正不能。不良品。》

「そんな……」

 ミミルの声が、悲鳴に近い形に崩れた。

「待ってください、この子は――」

 アリアが、感応針を握り直し、壁の端末へ駆け寄ろうとする。

 届かなかった。

 これまでは、一致を確かめるだけの声だった。

 鐘楼でも、工房でも、廃村でも、ずっとそうだった。

 今度は、違った。

 判定そのものが、書き換えられていた。

 誰かが、初めて、俺についての答えを、変えた。

 その意味を考える力は、もう、ほとんど残っていなかった。

 視界が、閉じていく。

 最後に見えたのは、ミミルが、こちらへ手を伸ばしてくる姿だった。

 届くのかは、分からなかった。

 それでも、伸ばされた手の先を、確かに見た気がした。

 暗くなっていく視界の中で、警告音だけが、いつまでも遠く響いていた。