第91話 / 全149話
これは俺の殺意か
谷へ戻る。
それだけを合図に、皆が動き出した。
ミミルが、荷物の底から、丸めた布ごと何かを引き出す。
骨組みに布を張った、小さな籠だった。
工房を出てからずっと、荷の奥に仕舞われたままだった携帯用のゆりかごだ。
両腕で抱いて走るより、これに入れたほうが、振り落とされずに済む。
久しぶりに広げられた布は、少し皺になっていたが、破れてはいなかった。
こんな物まで、ずっと持ち歩いていたのか。
工房を出た頃の、まだ自分の足で立つことすら覚束なかった時期を、ふと思い出す。
あの頃と比べれば、腕も、できることも、ずっと増えた。
それでも、走る時にはこれが一番安全だと、ミミルは判断したらしい。
ミミルが、俺をそっと持ち上げ、籠の中へ収める。
紐が、胸の前でたすき掛けに結ばれた。
「揺れたら、教えてください」
俺は、右に揺れて応えた。
分かった。
レオンが、聖剣を腰の位置へ戻し直す。
左手の包帯は、まだ痛々しく残ったままだった。
アリアが、感応針を握った手を、胸元へ当てる。
角兎が、先に鼻先を俺の殻へ寄せた。
合図の確認だった。
黒竜が、低く牙を鳴らす。
答えるように、皆が頷いた。
「本当に、戻るのか」
レオンが、低い声で確かめる。
「あの子たちは、番人の役目を引き受けてくれました。見捨てるわけにはいきません」
アリアが、即座に返した。
迷いのない声だった。
黒竜が、それに応えるように、もう一度、牙を鳴らす。
その瞳には、迷いも、怯えもなかった。
ただ、確かめるように、こちらを一度だけ見た。
誰も、言葉にはしなかった。
あの箱と、椅子と、扉と、記憶殻を託した剣が、谷の入口で待っている。
急がなければならない。
円盤の脈動が、背後で静かに続いていた。
白い面が沈んでいった渦も、まだ閉じないままだ。
俺たちは、来た道を、引き返し始めた。
籠の中から見上げる天井は、来た時よりも低く感じた。
急いでいるせいか、それとも、別の何かのせいか。
自分でも、よく分からなかった。
記録室を出て、細い通路へ入った瞬間。
空気が、また変わった。
足音が、布越しのように遠くなる。
ミミルの手が、籠の縁越しに、俺の殻へ触れていた。
あの、いつも感じ取ってくれる魔力の揺らぎ――その繋がりが、ふっと途切れる。
「……また」
ミミルの声が、小さく漏れた。
黒竜が、一度だけ振り返った。
瞳が、こちらを見て、それきり前を向く。
念話は、届かない。
分かっているはずだった。
それでも、確かめずにはいられなかったのだろう。
俺だけが、道を知っていた。
殻のひびが、来た時と逆向きに疼く。
左が強く疼けば左。
右が強く疼けば右。
同じ地図を、逆から辿るだけのはずだった。
壁の奥から伝わる低い振動も、来た時のままだった。
足の裏から、腹の底まで届く、あの重たい鼓動。
この施設そのものが、生きているみたいに、脈打ち続けている。
通路の合間から、あの太い管の一部が覗いていた。
中を流れる淡い光の粒――魂の欠片が、規則正しく、どこかへ運ばれていく。
誰のものかも分からない光が、今もどこかの器へ押し込まれ続けている。
目を逸らしたくなる光景だった。
それでも、足は止めなかった。
通路の壁に、光る亀裂が見えた瞬間。
視界の隅に、何かが浮かんだ。
文字でも、灯りでもない。
薄い、赤い線だった。
四角い枠のようなものが、アリアの背中に、ぴたりと重なっている。
初めて見る表示だった。
いつも見ているステータスとは、違う。
問いかける間もなく、枠の中に、文字が滲んだ。
《敵性、判定中》
嫌な感覚が、殻の奥を這い上がる。
これは、俺の目に映るものじゃない。
俺に、映されているものだ。
誰かが、俺の視界を、勝手に書き換えている。
瞬きをしても、消えなかった。
目を逸らしても、視界の端に、貼り付いたまま追ってくる。
四本の腕の先が、意識より先に、強張った。
枠は、消えなかった。
むしろ、輪郭が、濃くなっていく。
レオンの背にも、同じ枠が重なった。
《敵性、判定中》
握れ。
壊せ。
声が、腹の底から突き上げる。
角兎が、走りながらも、鼻先を伸ばして俺の殻へ触れた。
一度。
震えかけた腕が、かろうじて止まる。
だが、完全にはおさまらない。
枠は、二つとも、まだそこにあった。
角兎の背にも、同じ枠が浮かんだのは、その直後だった。
最後まで、俺の一番近くにいた奴にまで。
冗談じゃない。
こいつは、いつも真っ先に俺の傍へ来る奴だ。
敵なわけがあるか。
分かっているのに、視界の枠は、譲らなかった。
こいつが、俺の傍を離れないから、狙われるんだとしたら。
いっそ、離れてくれと、思いかけた自分に、吐き気がした。
アリアの手の中で、感応針が跳ねた。
枠が浮かんだ、その瞬間と、ぴたりと重なっていた。
「エッグ、今――」
ミミルの声が、走りながら鋭くなる。
「針が動いたのと、あなたの気配が強くなったの、同時でした」
同時。
その一言に、記憶の断片が繋がっていく。
根守り村へ続く道で、獣を見た時。
感応針が、北西へ引かれた。
あの施設の方角へ。
北西へ引かれていた、あの針の揺れも――衝動が強まるたび、同じ場所からの信号に、引かれていただけだった。
通路の壁の亀裂に、腕が伸びかけた時も。
記録室で、あの映像を見た時も。
赤い命令が灯った、その時も。
全部、同じ場所から。
同じ信号に、引かれていた。
「私、確信しました」
ミミルの声が、走りながらも、はっきりと届く。
「エッグの中にある衝動は、竜の本能なんかじゃありません。全部、あの神官とやらの信号に、繋がれているんです」
「回路を、断てるということか」
レオンが、走りながら聞き返す。
「分かりません。でも、原因が分かれば、断つ方法だって、きっとあります」
アリアが、感応針を握り直しながら、頷いた。
「私も、同意します。この針の反応は、嘘をつきません」
「信号の源さえ絶てれば、命令そのものが、届かなくなるはずです」
ミミルの声に、確信が滲んでいた。
「谷を出るまでに、方法を見つけます。一人で抱え込まないでください」
黒竜は、何も言わなかった。
ただ、隊列の一番後ろから、こちらの背中を見据え続けている。
いつでも動けるように。
あの、探知刻印の脈動に合わせて響いた声も。
――敵性対象を、破壊せよ。
竜の血の疼きでも、俺自身の声でもなかった。
あの、平らな声と、同じ場所から来ていた。
殻の奥で、赤い文字が、じわりと熱を持つ。
《敵性対象、全破壊》
あの赤い命令こそが、今、俺の腕を動かそうとしている、大本だった。
分かった瞬間、腕の強張りが、ほんの少しだけ緩んだ。
俺じゃない。
これは、俺の殺意じゃない。
そう思えたのは、束の間だった。
崩れかけた自分を繋ぎ止めようと、殻の奥で、ある光景を探した。
初めて名を貰った日の記憶。
ミミルが、俺を覗き込んで、そう呼んでくれた、あの瞬間。
思い出そうとした、その一瞬。
声の温度が、ほんの少しだけ、違って聞こえた気がした。
柔らかいはずの声が、一瞬だけ、平らに歪んだ。
まただ。
寒気が、走る。
だが、瞬きの後には、いつもの記憶に戻っていた。
気のせいだと、思いたかった。
念のため、もう一つ。
谷底の夜営で、ミミルが殻片へ合図を刻んでくれた、あの光景を探る。
こちらも、同じだった。
一瞬だけ、指先の温もりが、消える。
すぐに、元へ戻る。
二度あることは、偶然じゃない。
誰かが、記憶にまで、手を伸ばそうとしている。
そんな気がしてならなかった。
その時。
視界の隅、一番近い場所に、赤い枠が浮かんだ。
ミミルの背中に。
違う。
止まれ。
叫べない声で、叫んだ。
届かない。
四本の腕が、独りでに持ち上がる。
爪の先が、開いていく。
黒竜が、跳んだ。
牙も、爪も使わず、ただ太い尾を、俺の腕へ叩きつけるように巻きつける。
力ずくで、押さえ込む。
鱗の重みが、腕の骨まで軋ませた。
抗おうとした。
だが、抗おうとしたその意志さえ、赤い命令に塗り潰されていく。
自分の中に、自分じゃない誰かが、もう一人いるみたいだった。
その瞬間。
殻の奥で、何かが弾けた。
灰が、渦を巻いて舞い上がる。
殻のひびという、ひびから、灰色の粒子が噴き出し、そばから塞がっていく。
止められない《灰再生》だった。
同時に、肌を圧す重さが、通路いっぱいに膨らんだ。
竜血因子が疼くたび纏う、あの《竜威圧》。
制御を外れて、暴走している。
壁の亀裂が、震えて、細かい破片を散らした。
天井から、砂のような欠片が、ぱらぱらと降ってくる。
施設そのものが、悲鳴を上げているみたいだった。
レオンが、膝をつく。
アリアが、壁に手をついて堪えた。
レオンが、膝をつきながらも、アリアの肩を支える。
角兎の毛が、逆立ったまま震えている。
黒竜の尾だけが、それでも、俺を離さない。
「エッグ……!」
レオンの声が、灰の向こうから届く。
届いているのに、遠かった。
視界のノイズが、レオンの声さえ歪めていく。
息が、詰まった。
押さえ込まれた腕の中で、視界のノイズが、なお膨らんでいく。
ミミルが、圧に逆らって、籠へ顔を寄せた。
「エッグ、聞いて」
声が、震えていた。
それでも、止まらなかった。
「さっきの声は、あなたの本心じゃない。ずっと、施設の信号に引きずられていただけです」
三度、殻を叩く指が、震えながらも、正確に届いた。
一度。
二度。
三度。
角兎の鼻先も、同時に殻へ触れる。
二つの合図が、重なった。
竜威圧が、波のように引いていく。
灰の粒子が、ゆっくりと収まっていく。
開きかけていた爪が、閉じていく。
視界の赤い枠が――消えた。
全部、消えた。
息が、ようやく、俺のものに戻る。
握るための腕じゃない。
守るための腕だったはずだ。
黒竜が、尾を、そっと緩めた。
瞳が、細くなる。
それだけで、伝わった。
戻ったか。
誰も、すぐには動けなかった。
レオンが、荒い息のまま体を起こす。
「……大丈夫か」
誰へともなく、そう聞いた。
アリアが、壁から手を離し、頷いた。
「怪我は、ありません」
声が、掠れていた。
鑑定板を握る手だけが、まだ小刻みに震えている。
ミミルの手が、俺の殻に、まだ触れたままだった。
冷たい指先が、微かに震えている。
「もう少しです。もう少しで、外に出ます」
自分に言い聞かせるような声だった。
誰も、それを否定しなかった。
「白い面の言葉を、思い出してください」
アリアが、鑑定板を胸に抱いたまま、静かに言う。
「さっきから、干渉そのものが、強くなっている気がします」
「変わった、というと」
レオンが、聞き返す。
「猶予を拒まれてから、確信に変わりました。まるで、抑えていた手を、放したみたいに」
誰も、それを否定できなかった。
ミミルが、籠の縁を、そっと撫でる。
「もう少しだけ、頑張ってください。今度は、私が絶対に離しませんから」
俺は、右に揺れて応えた。
信じたい、と思った。
角兎が、俺の殻に、体を寄せてくる。
その温かさだけが、今の俺に分かる確かなものだった。
立ち上がりかけた、その時。
殻の奥に、また、あの疼きが戻った。
さっきより、強い。
赤い文字の輪郭が、震えながら、濃さを増していく。
《敵性対象、全破壊》
文字の隅に、見たことのない表示が浮かんだ。
《干渉強度》
数字が、目に見えて、上がっていく。
ゆっくりとではない。
一気に、跳ね上がった。
ひび割れ率の数字も、それに引きずられるように、また上がっていく。
通路の奥で、規則正しい警告音が、幾つも重なり始めた。
施設全体が、俺に気づいたみたいだった。
レオンの腰で、聖剣が、かすかに震えていた。
鞘の中から伝わる、低い唸り。
剣も、同じ何かを感じ取っているのかもしれなかった。
視界の赤い枠が、今度は、四つ同時に浮かんだ。
レオン。
アリア。
角兎。
そして。
ミミル。
全部、同時だった。
もう、誰か一人を止める合図じゃ、足りない。
考えるより先に、腕が動いた。
止める間も、なかった。
視界の赤が、四つの枠を吸い込むように、一つに溶け合っていく。
誰が、一番近いか。
答えを出したのは、俺じゃない。
もう、止める側にすら、回っていなかった。
籠の紐越しに、ミミルの鼓動が、すぐそこで伝わってくる。
こんなに近くに、これほど恐ろしいものを抱えて。
それでも、ミミルは、俺を離さなかった。
やめろ。
叫べない声が、また、虚しく殻の中で潰れる。
爪の先が、風を切る。
ミミルが、短く、息を呑んだ。
次の瞬間。
俺の爪が、ミミルの携帯ゆりかごを、紙のように切り裂いた。
これは俺の殺意なのか、それとも誰かに握らされた殺意なのか。エッグ視点で、その境界がどんどん曖昧になっていく回でした。