第90話 / 全149話
白面の神官
渦が、軋んだ。
さっきよりも、深く。
輪の縁が、内側から押し広げられていく。
誰も、それを止められない。
黒竜が、低く牙を鳴らした。
『退くな。だが、前にも出るな』
誰も、動かなかった。
角兎が、レオンの足元で耳を伏せたまま、震えを堪えている。
輪の中心が、白く染まっていく。
光が、まるで呼吸するように、膨らんでは縮んだ。
円盤の脈動も、それに合わせて速くなっていく。
床の細い溝を伝って、光がこちらへ近づいてくるのが分かった。
その光の中から、白い仮面が、今度は沈まずに歩み出てきた。
足音がしない。
床を踏んでいるのに、重さが伝わってこない。
装束の裾が、風もないのに揺れている。
髪も、肌の色も見えない。
ただ、白い面と、白い布だけが、そこにある。
輪郭は人の形をしているのに、人らしさが、どこにもなかった。
円盤の光が、白い面の輪郭を下から照らす。
影さえ、揺れない。
まるで、初めからそこにいたかのように、静かに立っていた。
仮面の下から、平らな声が響いた。
「接続の露出を確認し、上位より、直接対応の許可を得ました」
誰へ向けた言葉でもなかった。
報告のように、ただそこへ置かれた声だった。
感情の温度が、どこにもない。
「私は、神々が定めた運用規格に基づいて機能する、世界管理端末です。人ではありません」
ミミルの手が、俺の殻の上で強張った。
「端末……?」
「観測、捕獲、回収。各地で個別に動いていた末端は、すべて私の権限下にあります」
白い面が、わずかに、こちらへ傾いた。
「鐘楼で記録を刻む者も、街道で追跡する者も、集落で回収を担う者も。同じ印を持つ末端です」
「監査官も、斥候も、端末も」
平らな声が、続けた。
「区分は違っても、系統は一つです」
アリアの鑑定板が、また共鳴するように震えた。
「その印……」
「あなたが見た帳簿の印は、私の管理権限を示す認証です。末端の全てに、同じものを与えています」
声に、迷いはなかった。
まるで、当然の事実を読み上げているだけのように。
「では、あなたが、あの帳簿の印の主だと」
アリアの声が、掠れる。
「その通りです」
アリアの膝が、かすかに崩れかけた。
教会に仕えてきた歳月の分だけ、その一言が重かったのだろう。
彼女がずっと探し続けてきた答えが、ようやく目の前に立った。
それなのに、喜びも、安堵も、その顔には浮かばなかった。
あったのは、ただ、静かな絶望だけだった。
言葉の少なさが、かえって重かった。
この施設を追いかけて、あちこちで見てきた白い面。
工房を狙った監査官。
集落まで迫った斥候。
教会地下で砕けた端末。
鐘楼から遠望していた、名もない観測者。
廃村で見たと、レオンが告げたあの姿も。
全部、目の前のこの一つに、繋がっていた。
バラバラだと思っていた敵の輪郭が、今、一つの線に収束していく。
思えば、いつもそうだった。
工房を襲われた時も。
沢で追われた時も。
根守り村の退避路で、追跡個体に狙われた時も。
顔のない誰かが、遠くから見ていた。
その全部が、たった一つの意志の、指先でしかなかった。
寒気にも似た感覚が、殻の奥を這い上がる。
これまで戦ってきた相手は、いつも末端だった。
本体は、ずっと、こちら側の誰にも見えないところにいた。
今、ようやく、その本体が目の前にいる。
「広域転生炉網は、世界の傷から発生する魂と器を回収し、再配置する自動運用です」
白い面が、淡々と続ける。
「世界の傷が召喚数を上回って以降、処理目標を引き上げ、適合確認工程を簡略化しました」
「簡略化……それが、失敗作を生んだということですか」
アリアの声が、震えを抑えながら鋭くなる。
「効率を優先した結果です。不具合率の上昇は、許容範囲内でした」
許容範囲。
谷底で会った、宝箱や椅子や扉の声が、頭の奥で蘇る。
喋る剣が、鞘の中でくぐもった声を上げていたことも。
誰かが、確かにそこにいた。
迷いながら、それでも仲間を助けようとした誰かが。
その誰かを、許容範囲という言葉が、まとめて消していく。
白い面が、俺へ向いた。
「規格外個体、不良品指定との一致を確認」
乾いた声が、断定した。
「不良品は、世界運営に不要です」
場の空気が、変わった。
「谷の入口に残された処理対象、及び規格外個体を含め、一括廃棄を実行します」
谷の入口。
宝箱も。
椅子も。
扉も。
剣も。
記憶殻を託して、番人として残してきた、あの場所。
ミミルの顔が、青ざめた。
「待ってください、あの子たちは……!」
「言葉を使う個体も、感情を模倣する個体も、処理対象の分類には影響しません」
「せめて、時間をください。あの子たちを、迎えに行く時間を」
ミミルが、震える声を絞り出す。
「猶予の付与は、処理効率を低下させます。認められません」
「一晩だけでも……!」
「基準は、個体の事情によって変動しません」
取り付く島もなかった。
交渉という概念そのものが、この白い面には存在しないのだと、いやでも分かった。
感情の、模倣。
あの夜、殻へ紋を刻んだ手の温もりまで、模倣と呼ばれた。
右に揺れる合図も。
三度叩く合図も。
守りたいという気持ちも。
全部、模倣という一語で片付けられていく。
俺には、それが、噓だと分かる。
噓だと分かるのに、言葉で言い返せない。
声を出せない自分が、これほど歯痒いと思ったことはなかった。
俺の中で、何かが跳ねかけた。
四本の腕の先が、震える。
握れ。
壊せ。
先に、壊せ。
声にならない衝動が、殻の奥で膨らみかけた。
角兎が、素早く鼻先を俺の殻へ寄せた。
一度。
それだけで、跳ねかけた震えが、少しだけ収まる。
まだ、堪えられる。
まだ。
アリアが、一歩前へ出た。
「神意とは、そういうものなのですか。傷ついた世界を、切り捨てることが」
「神意という概念は、本件に該当しません」
白い面が、即答する。
「傷を負った世界を維持する行為には、修復費用が発生します。費用対効果が基準を割れば、維持する理由は消えます」
「命の価値を、費用で測るのですか」
「価値という語は、運用規格に存在しません」
アリアの手から、力が抜けかけた。
鑑定板を握る指が、白くなる。
それでも、彼女は崩れなかった。
「教会は、傷を癒す者を彼方より招く、と教えてきました。私は、その言葉を信じて、聖女になりました」
「その言葉は、初期規格の理念です。現行の運用とは、一致しません」
あっさりと、切り捨てられた。
「理念は、規格の変更に伴って更新されます。あなたが信じてきたものは、旧版です」
旧版。
アリアが、口元を固く結んだ。
言葉が、それ以上出てこないようだった。
レオンが、代わりに前へ出た。
「俺は、勇者として選ばれたと聞かされてきた。それも、お前たちの運用の一部か」
「勇者個体は、討伐命令を実行するための、優先接続端末です」
迷いのない答えが、また落ちる。
「選ばれた、という表現は正確ではありません。適性が高かっただけです」
レオンの左手が、血の滲む包帯の上で、強く握られた。
「俺の意志は、どこにもなかったということか」
「意志の有無は、命令の実行効率に影響しません」
「答えろ。俺は、誰かを守るために剣を握ってきたつもりだった」
「その認識は、末端の動作結果として観測されています。運用の目的とは、独立した事象です」
「昔、廃村を見た。魔力嵐じゃない、教会の術式で記録ごと消された集落だ。あれも、お前の運用の一部か」
レオンの声が、低く沈んだ。
「該当します。当時の末端が、規定に従って処理しました」
感情のない肯定だった。
あの村にいた者たちの顔を、レオンは今も覚えているのだろう。
拳が、震えていた。
「規定、という言葉だけで、村一つを消していいのか」
「基準に従った結果です。個別の是非は、評価対象外です」
答えにならない答えだった。
それでも、白い面は答えたつもりでいる。
ミミルが、俺の殻を抱いたまま、声を絞り出した。
「あの箱にも、椅子にも、扉にも、確かに誰かがいました。話して、迷って、それでも仲間を助けようとした誰かが」
「器の反応は、記録上、誤作動として分類されています」
「誤作動じゃない……!」
ミミルの声が、初めて跳ねた。
「あなたが誤作動と呼ぶものの中に、確かに、誰かの意思がありました」
「意思の有無を判定する権限は、私にはありません。判定は、処理数の基準に従うのみです」
「あなたに権限がないなら、誰にあるのですか」
「上位管理者です。私は、規格に従って実行するのみです」
誰も、それ以上は言葉を継げなかった。
黒竜の気配が、部屋の奥で膨らんだ。
『模倣、と我は呼んだ』
念話が、静かに、しかし重く響く。
『貴様の運用網は、何かの真似だ。本物を知る我には分かる。貴様は、その本物とやらの、何を継いでいる』
「照会の対象が、権限区分外です」
白い面は、崩れなかった。
「起源に関する照会には、応答できません」
『答えられぬのか。答えぬことにしているのか』
「同義です」
黒竜が、それ以上、問わなかった。
答えないことそのものが、答えだと、分かっているようだった。
施設を「不出来な模倣」と呼んだ日の、黒竜の低い声を思い出す。
あの時も、この白い面と同じ何かに、黒竜は確かに触れていたのだ。
その正体を、黒竜自身、まだ語らない。
語れないのか、語らないと決めているのか、俺には分からなかった。
その時、俺の殻の奥で、疼きが、また強くなった。
繋がったままの光の筋を通じて、何かが、こちらから流れ出ていく感覚があった。
止めようとしても、止まらない。
考えるより先に、それは向こうへ届いてしまっていた。
白い面が、俺へ視線を戻す。
「規格外個体より、照会を受信」
平らな声が、そのまま続けた。
「――世界の傷を増やした責任は、誰にあるのか」
それは、俺の中でくすぶっていた問いだった。
言葉にできないまま、ずっと抱えていたものだった。
谷を歩くたび、殻の奥が疼くたびに、形にならないまま溜まっていったものだった。
白い面が、間を置かずに答える。
「修復費用が基準値を超えた世界は、更新対象です」
更新対象。
その一語だけが、やけに軽く、部屋の中に落ちた。
「傷を負わせた責任の所在は、運用上、意味を持ちません。基準を超えた時点で、世界そのものが処理対象へ移行するだけです」
この世界ごと。
谷底の失敗作たちごと。
根守り村ごと。
これまで通り過ぎてきた、名も知らない誰かの暮らしごと。
俺たちごと。
全部、更新される。
その言葉の重さに、誰も、すぐには反応できなかった。
世界を更新する、という言葉の意味を、頭が理解するより先に、体が拒んでいた。
ミミルの腕が、俺を抱く力を、さらに強めた。
もう一度、四本の腕が、震えかけた。
だが今度は、ミミルの手が先に、俺の殻を三度叩いた。
一度。
二度。
三度。
角兎の鼻先も、同時に殻へ触れる。
二つの合図が、重なって届いた。
腕の先が、開きかけた爪の形から、ゆっくりと戻っていく。
白い面の手元に、光の板が浮かんだ。
文字が、次々と並んでいく。
《更新申請》
《世界リセット承認申請》
《送信先:上位管理者》
文字の下に、一本の細い線が伸び、渦の奥へと吸い込まれていった。
「申請を送信しました。承認には、時間を要します」
板の隅で、小さな表示が点滅を始めた。
《承認待機中》
誰も、その文字から目を離せなかった。
時間を要する、という一言だけが、わずかな猶予として残された。
それがどれほどの猶予なのか、誰にも分からない。
ミミルが、俺の殻を強く抱いた。
「待ってください。まだ、何も終わっていません」
「発言は記録します。ただし、判定には反映されません」
白い面が、静かに告げる。
「不良品は、世界運営に不要です。この判定は、揺るぎません」
その時だった。
板のさらに隅、小さな枠に、新しい表示が灯った。
赤い光だった。
白い面は、それに気づいているのか、いないのか、こちらへは何も告げなかった。
誰も、その赤さに、まだ気づいていない。
俺の殻の奥だけが、真っ先に、その光を捉えていた。
《敵性対象、全破壊》
規格外個体、専用。
その文字だけが、ほかのどれよりも強く、赤く、灯っていた。
白い面が、ゆっくりと、渦の縁へ足を戻す。
「判定は、承認待機のまま、保持されます。以降の動向は、随時観測します」
それだけを告げると、白い仮面は、来た時と同じように、静かに輪の奥へ沈んでいった。
渦は、今度も、閉じなかった。
部屋に、荒い息の音だけが残る。
ミミルが、俺の殻を、両腕で抱きしめた。
「大丈夫。まだ、何も決まっていません」
声が、震えていた。
自分に言い聞かせるような響きだった。
角兎が、俺の殻に、体を寄せる。
黒竜が、低く唸った。
『承認とやらが下りるまでは、まだ時間がある。だが、油断はするな』
「谷へ、戻りましょう」
アリアが、感応針を握り直しながら言った。
「あの子たちを、置いてはいけません」
誰も、異論を挟まなかった。
俺は、もう一度、自分の殻を見下ろした。
赤い文字は、まだそこにある。
消えていない。
むしろ、殻の奥へ、じわりと沈み込んでいくようだった。
誰かに命じられて動く自分を、俺は知っている。
あの探知刻印の脈動の時と、同じ感覚だった。
それでも、今は、まだ堪えられている。
三度叩く合図と、鼻先の合図さえあれば。
そう信じたかった。
だが、この赤い光が、次はどんな形で牙を剥くのか。
誰にも、まだ分からなかった。