第89話 / 全149話
聖剣とひび割れ卵
警告音が、重なっていく。
一つ、二つ。
やがて、数えられなくなった。
等間隔だったはずの音が、少しずつ間隔を狭めていく。
急かされているような響きだった。
ミミルが、腰の小瓶に手を伸ばしかけて、止めた。
何に備えればいいのか、分からない顔をしていた。
レオンの目が、一瞬だけ俺を見た。
まだ、疑ってはいない。
それでも、警戒だけは、隠しきれていなかった。
『来るぞ』
黒竜の念話が、低く響く。
何が、とは言わなかった。
言わなくても、分かった。
名称も経緯も消された、あの記録を見てから、まだ時間が経っていない。
俺と同じ紋を持つ誰かが、この施設のどこかで、確かに扱われていた。
その事実が、まだ胸の奥に重く残っていた。
考える余裕を、この場所は与えてくれない。
円盤の中央が、まだらに明滅する。
《受入》《選別》《定着》の文字が消え、代わりに違う並びが浮かんだ。
《座標、確認》
《規格外個体、特定》
文字が、一つずつ点灯していく。
円盤の光が、部屋の隅々まで届くほど強くなった。
アリアの感応針が、細かく震え出す。
「これは……」
アリアが、鑑定板を構える。
「術式の反応は、見えます。でも、中身までは分かりません。この施設の道具は、いつもそうです」
言い終える前に、次の文字が浮かんだ。
《勇者個体、接続確立》
勇者。
その一語が、レオンを指していると分かるまで、時間はかからなかった。
レオンの腰で、剣が鳴った。
これまでのどの音とも違う。
高く、短く、急かすような音だった。
「……なんだ」
レオンが鞘の柄へ手をかける。
確かめるための、慎重な仕草だった。
だが、柄はその手ごと動いた。
自分で抜いたのではない。
引きずられた。
白銀の刃が、鞘から滑り出る。
光が、部屋の壁を一瞬だけ白く染めた。
風もないのに、空気が押された。
角兎が、耳を伏せて後ずさる。
黒竜の低い唸りが、頭の中に直接響いた。
刃の腹に、文字が走る。
《討伐命令、発令》
《対象:規格外個体》
《勇者は、遂行せよ》
「待て」
レオンが刃を押し戻そうとする。
腕に力を込めているのが、離れていても分かった。
筋が浮く。
足が、床を噛むように踏ん張る。
だが、剣の切っ先は止まらない。
俺の方を、正確に捉えたまま。
ゆっくりと、持ち上がっていく。
「これは、俺の意志じゃない……!」
レオンの声が、初めて焦りを帯びた。
その白銀の光が、視界の端で揺れた、瞬間。
俺の殻の奥が、跳ねた。
同じ光。
同じ、ひびの形。
覚えている。
忘れていない。
刃が入る感覚。
魔力が焼ける音。
生命が、削れていく重さ。
視界が眩しくて、ミミルの顔が見えなくなったこと。
殻が砕けた、あの乾いた音。
あの時、刃を振るったのは、レオンの意志だけではなかった。
俺が、あの刃を自分の殻へ引き寄せたことも。
あの時、選んだことも。
全部、覚えている。
恨んではいない。
あの日、自分でそう決めたのだから。
なのに。
今、目の前で光る刃を見ていると。
選んだ記憶より先に、殺されるという恐怖だけが立ち上がってくる。
頭の中で、何かが弾けた。
――また、殺される。
いや。
――先に。
殺す。
腹の底から、命令に似た衝動が突き上げた。
《敵性対象を、破壊せよ》
声にならない声が、殻の奥で響く。
前にも聞いた。
探知刻印の脈動に合わせて、殻の奥に浮かんだ、あの命令。
だが、今回は違う。
あの刃が近い分だけ、強い。
死んだ記憶と、殺せという命令が、同じ場所から重なって押し寄せてくる。
どちらが自分の本心なのか、もう分からなかった。
四本の腕が、勝手に持ち上がる。
腕の先が、爪のように開いた。
掴め。
潰せ。
先に、壊せ。
殺されるくらいなら。
殺してやる。
「エッグ、駄目!」
ミミルの声が、遠くに聞こえた。
腕が、レオンへ伸びる。
速い。
自分でも止められないくらい。
同じ瞬間。
レオンの剣も、俺へ向かって振り下ろされた。
二つの意志が、二つとも、誰のものでもないまま。
ぶつかろうとしていた。
角兎が、レオンの足へ体当たりする。
小さすぎて、剣筋は逸れない。
その刹那。
レオンの左手が、白銀の刃を、素手で掴んだ。
柄ではない。
刃そのものを。
「――ぐっ」
指の間から、赤い筋が伝う。
血が、刃を伝って落ちた。
滴が、床の光る溝に触れて、はじけた。
それでも、レオンは手を離さなかった。
「二度と……お前の刃で、誰も殺させない」
歯を食いしばりながら、絞り出す声。
剣が、震える。
まるで、握られた手ごと押し切ろうとするように。
レオンの右手が、柄を強く握り直した。
両手で、一本の意志に逆らう。
足が、じりじりと後ろへ滑る。
それでも、踏みとどまった。
「俺は、お前の武器じゃない」
誰へ向けた言葉か、分からなかった。
剣へか。
施設へか。
あるいは、かつての自分自身へか。
それでも、刃はそれ以上、進まなかった。
同じ瞬間。
ミミルの手が、俺の殻を叩いていた。
一度。
二度。
三度。
いつもより強く。
いつもより、必死な力で。
角兎が、震えながらも、俺の殻へ鼻先を寄せる。
二つの合図。
いつもの合図。
腕が、レオンの喉元の、指一本手前で止まった。
止まったのは、合図のせいだけじゃない。
守りたい。
あの時、選んだ言葉が、殻の底から浮かび上がってきた。
殺すんじゃない。
守る。
腕の先の爪が、ゆっくりと開き直る。
握るためではなく、離すための形に。
俺の爪と、レオンの刃は。
互いの持ち主を止めたまま。
空中で、動きを止めていた。
誰も、しばらく口を利けなかった。
部屋に、荒い息の音だけが響いていた。
その時だった。
レオンの刃に走る細い光と、俺の殻のひびから漏れる光が、同時に強くなった。
二つの光が、伸びて。
繋がった。
繋がった線は、そこで止まらなかった。
剣から、円盤の中心へ。
俺の殻から、床の細い溝へ。
二本の光が、同じ場所へ向かって流れていく。
流れた跡に、細い筋が残った。
まるで、血管のような模様が、床いっぱいに広がっていく。
近くの水晶板が、次々と明滅した。
壁一面の板に、古い映像が一瞬だけ蘇る。
剣の柄に、光の粒が押し込まれる映像。
椅子の脚に。
扉の蝶番に。
同じ処理を受けた、無数の失敗作たちの記録が、まるで応えるように瞬いた。
この部屋にある全部が、同じ根から伸びていたのだと、今さらのように実感する。
俺の殻も。
あの剣も。
谷底で出会った、あの宝箱や椅子や扉も。
全部、同じ場所から命令を受け取れる形で、作られていた。
「……見えます」
アリアが、感応針を構えたまま、息を呑んだ。
「経路が、可視化されています。剣からも、エッグさんの殻からも……同じ場所へ」
感応針の先を、床の光に沿わせる。
針が、迷わず一方向を指し続けた。
『同一の系だな』
黒竜の念話が、低く響いた。
『あの剣は、勇者を選ぶためだけの道具ではない。この管理階層の、末端の一つだ』
『思い出したか。お前があの剣で砕けた日、剣と卵が呼応したことを』
黒竜の声に、珍しく、確かめるような響きがあった。
『あの日の光は、偶然ではなかった。今、目の前で光っている、この線と同じものだ。ずっと、繋がったままだったのだろう』
思い出す。
あの日も、こんな光だった。
俺の殻のひびが震え、あの刃に、殻と同じひびの形の光が走った日。
偶然だと思っていた。
思い込もうとしていた。
違ったのだ。
あの時から、ずっと。
ミミルが、光の線を目で追いながら、掠れた声で言う。
「聖剣は、勇者を選ぶ剣であると同時に……この施設の、命令を実行する端末でもあった。エッグの殻のひびと、同じところから、命令を受け取っている」
円盤の縁に、新しい表示が浮かんだ。
《末端照合中》
《系統番号、照会》
アリアの持つ鑑定板の端が、共鳴するように震え出す。
板の表面に、見覚えのある印が滲んだ。
白く塗られた、丸い面のかたち。
探知具の帳簿で見た、あの印。
「……この印」
アリアの声が、掠れる。
「経路の末端に、刻まれています。探知具の納入先に書かれていた、あの印と……同じです」
誰の印かまでは、まだ読み取れない。
ただ、繋がっている、という事実だけが、そこにあった。
俺の殻の奥の疼きが、まだ収まらない。
殺せという命令と、殺されるという記憶。
その両方が、同じ一本の線の先から来ていたのだと分かった今も、震えは止まらなかった。
「探知具を売っていた者も、これを知っていたんでしょうか」
ミミルが、問う。
「分かりません」
アリアが、首を振る。
「帳簿に印だけが残されていたのは、名前を書けなかったからかもしれません。それとも、名前を出す必要が、なかったからか……どちらにせよ、この印の主までは、まだ辿り着けていません」
核心は、まだ奥にある。
それだけは、はっきりと分かった。
アリアが、板を握る手を強くする。
「系統番号……これは……」
言葉が、途中で止まった。
指先が、白くなるほど強張っている。
「私は、これを知りません。でも、見覚えがあります。内陣より奥、正式な聖職者にも公開されない区画の、番号の並び方です」
声が、震えていた。
「教会の中に、私さえ知らされていない系統がある……その系統が、この管理階層と繋がって、命令を、回収網へ中継していた」
誰も、すぐには言葉を継げなかった。
「聖女、あなたにも、隠されていたということか」
レオンが、血の滲む左手を握ったまま、低く問う。
ミミルが、慌てて薬包を取り出し、レオンの手へ押し当てた。
「動かさないでください。傷が、浅くありません」
レオンは、頷いただけで、手を引かなかった。
「はい」
アリアが、頷く。
「知らなかった、では済まないと分かっています。それでも、これは……教会そのものの中に、私の目の届かない場所がある、という証拠です」
「聖女の座にいても、見えない場所があるということか」
レオンが、低く呟く。
「あるいは、聖女だからこそ、見せてもらえなかったのかもしれません」
アリアが、静かに、自分自身を切り捨てるように言った。
「知れば、止めようとする。だから、知らせなかった……そう考えた方が、筋が通ります」
ミミルが、静かに続ける。
「白面の人たちが、独自に動いていたわけじゃない。誰かが、教会の内側から、線を引いていた」
円盤の光が、なおも二本の線を映し続けている。
剣から。
俺の殻から。
同じ方向へ。
その先で、光が渦を巻き始めた。
小さな穴のように、空間が歪む。
誰も、それに触れていない。
誰も、それを望んでいない。
それでも、渦は広がっていく。
人一人が通れるほどの、輪になって。
空気が、冷たくなった。
角兎が、レオンの足元にすり寄る。
黒竜の気配が、部屋の隅で低くなった。
ミミルが、無意識に俺の殻を抱き寄せた。
レオンが、血の滲む左手のまま、右手だけで剣を構え直す。
アリアが、感応針を両手で握り、輪の中心から目を離さない。
誰も、口を開かなかった。
開けば、何かを呼び込んでしまう気がした。
俺の殻の奥で、疼きが、これまでで一番深いところから響いた。
初めて見る、はずなのに。
どこかで、知っている気がした。
輪の縁が、じわりと軋む。
空間そのものが、こちら側へめくれ返るような感覚があった。
輪の向こうに、影が立っていた。
白い仮面。
これまで見てきた、どの白い面よりも、静かな佇まいだった。
装束は、教会の聖職者のものに近い。
だが、纏う気配は、人のものとは思えないほど整っていた。
誰も、動けなかった。
レオンの手が、血に濡れたまま、剣の柄へ戻る。
アリアの感応針が、渦の中心を指したまま、微動だにしない。
ミミルの手が、俺の殻の上で、止まっていた。
白い仮面が、渦の縁に立ったまま、こちらを見た。
顔は見えない。
それでも、視線だけは、はっきりと感じた。
長い、沈黙だった。
「――接続の露出を、確認しました」
声は低く、平らだった。
それだけを告げると、仮面は再び、渦の奥へと、静かに沈んでいった。
渦は、閉じなかった。
むしろ、少しずつ、大きくなっている。
誰も、剣を収めなかった。
誰も、構えを解かなかった。
レオンが、血の滲む左手を、そっと握り直す。
「……聖剣は、俺を選んだ剣だと思っていた」
声に、疲れが滲んでいた。
「だが、あれは端末でもあった、ということか。俺自身も、気づかないうちに、何かの一部として使われていたのかもしれない」
誰も、それを否定できなかった。
俺は、自分の殻を見下ろした。
このひびも、同じだ。
俺だけのものだと思っていたひびが、俺の知らないところで、誰かの手に握られていた。
それでも。
さっき、レオンの喉元の手前で、腕は止まった。
握られたひびでも、止める意志だけは、渡さなかった。
渦の奥から、まだ、低い唸りのような音が漏れている。
ミミルが、俺の殻をもう一度、そっと撫でた。
「大丈夫です。今度は、二人とも、ちゃんと戻ってきました」
その一言に、詰めていた息が、少しだけ緩んだ。
角兎が、俺の殻に体を寄せる。
黒竜が、渦へ向けて、低く牙を鳴らした。
『向こうの出方を、待つしかあるまい』
誰も、動こうとはしなかった。
だが、誰も、退こうともしなかった。
終わっていない。
むしろ、これからだ。
聖剣とひび割れ卵、二つの「道具」が、同じ場所から命令を受けていたと分かる回でした。
抵抗した二人の先に、ようやく姿を見せた者がいます。