目次

トップ / 目次 / 第五部 世界の傷編

第88話 / 全149話

魂を一秒で詰める方法

約5,276字

足音は、三つ。

 等間隔に刻まれる歩調が、少しずつ輪郭を持ち始める。

 なのに、殻の奥の疼うずきは、逆に静まっていった。

 敵意の色が、ない。

 右へ、小さく揺れる。

 まだ動くな、という合図のつもりだった。

 ミミルの手が、俺の背から離れずに止まる。

 レオンは鞘さやの柄に指をかけたまま、動かない。

 黒竜が、闇の中へ低く目を凝らした。

 角兎つのうさぎの耳だけが、小刻みに震えている。

 現れたのは、白くくすんだ人型だった。

 三体。

 背に、欠けた甲冑かっちゅうや、壊れた器を幾つも括りつけている。

 どれも、原形を保っていない。

 剣も、盾も持たない。

 歩調だけが、恐ろしく正確だった。

 迷いも、寄り道もない。

 積み荷の重さに応じて、歩幅までもが均等に調整されている気配があった。

 先頭の一体が、俺たちのすぐ手前で、わずかに首を巡らせる。

 息を止めた。

 だが、それだけだった。

 視線らしきものは、俺たちの上を素通りしていく。

 先頭の一体の胸元が、鈍く光った。

 文字が、浮かんだ。

《搬送対象、確認完了》

《生体反応、搬送対象外》

 それだけだった。

 三体は、俺たちへ視線一つ向けず、通路の奥へと歩き去っていく。

 荷を運ぶためだけに動く個体。

 狩る側の目を、持っていない。

「……見られていた、と思ったんですが」

 ミミルが、囁ささやくほどの声で言う。

「積み荷以外は、映らない造りみたいです」

 俺の殻のひびは、その三体が去っていった方角を、ずっと指していた。

 迷う理由は、なかった。

 三体が来る前から、ひびは同じ方角を疼かせ続けていたのだ。

 偶然、同じ道を選んだわけではない。

 この施設のどこか、奥の奥に、道の答えがある。

 それだけは、確かだった。

 距離を保ったまま、後を追う。

 通路はやがて、大きな扉ほどの開口部に行き当たった。

 三体は、その奥へ吸い込まれるように消えていった。

 俺たちは、少し間を置いてから続く。

 抜けた瞬間、空気の質が変わった。

 足音が、はっきりと響いた。

 自分の呼吸の音まで、鮮明に戻ってくる。

「エッグ、聞こえる?」

 ミミルの声に、いつもの繋つながりが戻っていた。

 殻の内側で灯る魔力の揺らぎを、また感じ取れる範囲に、戻ったということだ。

 右へ、大きく揺れて答える。

 聞こえている。

『我の探知も、戻ったようだ』

 黒竜の念話が、頭の中に直接響く。

 久しく感じていなかった重みのある声に、少しだけ息が緩んだ。

 外の通路は、まだ音も魔力も吸い込んだままだった。

 だが、この一室だけは違う。

「……ここだけ、様子が違いますね」

 アリアが、感応針を握り直しながら周囲を見回す。

 壁一面に、光る板が並んでいた。

 人の背丈ほどの水晶板が、幾十枚も列を成し、それぞれに違う光景を映し出している。

 止まらない、繰り返しの映像だった。

 天井は高く、床には規則正しく敷き詰められた線が、板の一枚一枚へと繋がっている。

 冷たい空気が、足元から這い上がってくる。

 誰かが管理するために作った部屋だ。

 それだけは、はっきり分かった。

 板の数を数えようとして、やめた。

 視界に入るだけで、百は超えている。

 その一枚一枚が、別々の光景を映し続けているということだ。

 どれだけの数の傷が、この一室に集約されているのか、見当もつかなかった。

 最初の板には、古い記録が流れていた。

 傷口のような裂け目に、光の粒が一つ、丁寧に導かれていく。

 急がない、慎重な動きだった。

 粒はゆっくりと形を変え、裂け目の縁に馴染むように、溶け込んでいった。

 裂け目が、少しずつ塞がっていく。

 板の端に、小さな文字が浮かんでいた。

《世界傷修復要員、召喚実績》

《適合完了。傷、鎮静》

 ――俺たちは、これのために、呼ばれていたのか。

「……これは」

 アリアが、掠かすれた声で言う。

「教会に伝わる、一番古い言い伝えと、同じです。『傷を癒す者を、彼方より招く』」

 アリアの声が、続きを探すように途切れた。

「子どもの頃、寝物語に聞かされました。世界に傷が開くたび、彼方から選ばれた者が来て、そっと塞いでいく、と」

「今の映像、そのままですね」

 ミミルが、静かに応じる。

 アリアは、答えなかった。

 板の中では、選ぶ側の姿も映っていた。

 顔は判別できない、ただの光の輪郭。

 それでも、一粒ずつ確かめるように手を止め、傷の形に合わせて向きを変え、時間をかけて馴染ませていく仕草には、迷いのなさとは違う、慎重さがあった。

 急いでいない。

 今の施設からは、想像もつかない、ゆっくりとした手つきだった。

 この姿が、今もどこかに残っているのか。

 それとも、とうの昔に置き換えられたのか。

 板は、それを教えてくれなかった。

 隣の板には、日付だけが並ぶ記録が流れていた。

 召喚数の推移を示す、右肩上がりの折れ線。

 同じ速さで下降していく、もう一本の線があった。

「適合、成功率……」

 ミミルが、それを読み上げる。

 線の途中に、小さな注記が挟まっていた。

《処理目標、引き上げ》

《適合確認工程、審査中》

 審査、というだけで、結論は書かれていなかった。

 その手前に、もう一つ、短い記録があった。

《世界傷発生数、召喚数を上回る》

《未処理滞留、増加》

 傷が増える速さに、召喚が追いつかなくなっていた。

 追いつかせるために、何かを削るしかなかった。

 削られたのが、確認の工程だった。

 だが、その直後から、下降する線の傾きが急になっていく。

 二本の線が交わる箇所に、一つの見出しが浮かんでいた。

《魂を一秒で詰める方法》

 その下に、手順書のような箇条書きが続いている。

 一行目に、こうあった。

《魂と器の適合確認を、省略します》

 剣が聞いたという、あの声と同じ文言だった。

 椅子も、同じ言葉を聞いたと言っていた。

 声ではなく、これは、最初から決められていた手順だったのだ。

 誰かが判断を誤ったのではなく、誰かが、決めた通りに動いただけだった。

 その方が、ずっと恐ろしかった。

 さらに奥の板には、映像が流れ続けていた。

 光の粒が、選ばれることなく、手当たり次第に押し込まれていく。

 剣の柄に。

 椅子の脚に。

 扉の蝶番に。

 宝箱の鍵穴に。

 構造も、性質も確かめられないまま、次々と。

 同じ光景が、何度も、何度も繰り返される。

 数えることを、途中でやめた。

 映像の端には、日付の代わりに、通し番号だけが刻まれていた。

 千の位が、四つ並んでいる。

 その数字だけが、淡々と増え続けていた。

 ――あの剣も。

 あの椅子も。

 あの扉も。

 あの宝箱も。

 全部、ここで生まれていた。

 谷底で聞いた声が、また耳の奥に蘇る。

 谷底の火のそばで、身を寄せ合っていた宝箱たち。

 あれは、この量産の中から辛うじて逃げ延びた、ほんの数体だったのだ。

「アリア」

 ミミルが、名を呼ぶ。

 アリアは、答えなかった。

 鑑定板を握る手が、白くなるほど強張っている。

 その時、奥の板の一つに、見覚えのある文字の並びが浮かんだ。

 赤い文字。

 欠けた縁。

 焼け跡のような滲にじみが、板の隅に残っている。

《転送元教会地下端末(損壊)》
《形態変化》
《自律行動》
《追跡経路への干渉》

 あの時、教会の地下で砕けた端末。

 最後まで焼き切ったはずの記録が、ここに、残っていた。

 ――繋がっていたのか。

 届いていたのは、追跡の失敗を伝える連絡だけではなかった。

 俺についての記録そのものが、ここまで運ばれていた。

「……教会の端末が、ここに」

 アリアの声が、震えていた。

「知らなかったなんて、言えません。届いていたなら、教会のどこかが、受け取っていたということです」

「アリア」

 ミミルが、そっと呼びかける。

「あなたが、やったことじゃありません」

「でも」

 アリアは、板から目を離さなかった。

「私は、この仕組みの上に立っている側です。知らなかったことは、免罪符にはなりません」

 声に、それ以上の反論を許さない硬さがあった。

 誰も、次の言葉を継げなかった。

 俺は、右へ小さく揺れることしかできなかった。

 それが、慰めになるとは思えなかった。

 それでも、揺れずにはいられなかった。

「アリア」

 レオンが、静かに口を開いた。

「知って、これからどうするかだ。知らなかったことより、知ってから目を逸らすことの方が、よほど重い」

 アリアは、レオンを見た。

 何かを言い返そうとして、結局、小さく頷うなずくだけに終わった。

「……はい」

 それだけの返事に、それまでよりわずかに力が戻っていた。

 俺は、自分の殻を見下ろした。

 欠けた殻。

 ひび割れた殻。

 廃棄推奨と判定された、この身体。

 もし、この施設で言う「適合」とやらを一度でも受けていたら、俺は今と同じ形をしていただろうか。

 考えても、答えは出なかった。

 出なくていいのだと、今は思う。

 その時、レオンの腰で、微かな音がした。

 鞘の中の刃が、震えている。

「……なんだ」

 レオンが、鞘の柄を握り直す。

 震えは止まらず、代わりに、重みが増していった。

 抜こうとした手が、途中で止まる。

 剣が、鞘の中から押し返すように、重くなっていた。

 まるで、これ以上は見るな、と言っているようだった。

 刃の腹に、一瞬だけ、文字が浮かぶ。

《閲覧、停止》

 それだけで、消えた。

 レオンは、何も言わずに、鞘へ手を戻した。

「……まだ、抜くな、ということらしい」

 声に、いつもの落ち着きがなかった。

「この剣が、何に従っているのか、俺は知らない。だが、今は逆らわない方がいいと、腕が言っている」

 誰も、それに答えなかった。

 角兎が、レオンの足元に寄り添い、震える鞘へそっと鼻先を触れさせた。

 剣の重みが、ほんの少しだけ、和らいだように見えた。

 部屋の中央、床に埋め込まれた大きな円盤状の板が、ひときわ強く光っていた。

 三つの見出しが、順番に点灯していく。

《受入》
《選別》
《定着》

 ミミルが、その光の流れを目で追いながら、小さく息を呑んだ。

「受け入れて、選んで、当てはめる……名前を消された、あの施設と、同じ働きです」

 円盤の縁に、細かい注記が刻まれていた。

《世界傷由来個体、回収優先》

《理由:傷の起源に近い個体ほど、再処理効率が高い》

 俺と同じ、傷から生まれた存在ほど、都合よく作り替えられる。

 そういう意味だった。

 規格外だ何だと呼ばれてきた理由が、ようやく形になった気がした。

 都合が悪いから狙われたのではない。

 都合が良すぎたから、狙われたのだ。

 ミミルが、幾つもの板を見比べながら、声を絞り出す。

「分かりました……この仕組みの、根っこが」

「省略された適合確認のぶん、魂は、器に馴染まないまま押し込まれています。欠けたまま押し込まれた魂は、器を保ちきれない」

「保てなくなった器は、暴走する。さっきの映像の、宝箱や椅子や、扉のように」

「暴走した器が壊れる時、そこにまた、新しい世界の傷ができる」

「増えた傷から、また魂を集める。集めれば集めるほど、適合確認を省く理由が増えていく。この施設は、傷を塞いでいるんじゃありません……傷を作りながら、塞いだふりを、しているだけです」

「……堂々巡り、というわけか」

 レオンが、低く呟つぶやく。

「塞ぐほど、増える。増えるほど、急かされる。急かされるほど、また省く」

「はい」

 ミミルが、頷く。

「谷底の宝箱も、椅子も、扉も。私たちが出会った失敗作の全部が、この循環の途中で振り落とされた、欠片なんです」

『処分すれば、済む話ではない、ということだな』

 黒竜の念話が、低く響いた。

『処分する側は、それで一つ片付いたつもりでいる。だが実際には、片付けた分だけ、次の傷を育てているに過ぎぬ』

 ミミルは、すぐには答えなかった。

 言葉を選ぶように、一度目を伏せてから続ける。

「壊すことしか、この施設は知らないんだと思います。壊れた先に何が残るか、確かめる仕組みが、最初から組み込まれていません」

 誰も、しばらく口を開けなかった。

 俺の殻の奥で、疼きが跳ねる。

 ここにある光は、全部、誰かだった。

 それを量産の材料として扱う仕組みに、四本の腕が勝手に動きかけた。

 右へ、揺れる。

 ミミルの手が、また三度、殻を叩いた。

 角兎が、殻に鼻先を寄せる。

 二つの合図で、辛うじて堪えた。

 円盤の縁、一番下の列に、まだ光っていない行が一つだけあった。

 他の行と同じ、魔力紋の走査結果。

 その紋は――俺の殻に刻まれたものと、寸分違わず重なっていた。

 だが、名称の欄と、経緯の欄だけが、白く塗り潰されている。

 照合番号の位置には、こう記されていた。

《規格外個体。照合番号、欠番》

 誰の記録かも、いつのものかも、分からない。

 それでも、紋だけは、俺と同じだった。

 同じ紋を持つ何かが、俺より先に、ここを通っていた。

 名前も、経緯も、誰かの手で消された状態で。

 消したのが誰なのか、なぜ消したのか、この場では分からない。

 それでも、消された、という事実だけは、動かなかった。

 ミミルが、俺の殻へそっと手を添える。

「……大丈夫。今は、それだけ覚えておきましょう」

 声は、震えていなかった。

 もう一度確かめようとした時、円盤の奥で、低い音が鳴った。

 これまで聞いたどの警告とも違う、規則正しい単調な音だった。

 遠くの通路から、応じるように、別の音が幾つも重なっていく。

 レオンが、腰の剣へ手をやった。

 柄は、震えていなかった。

 ただ、重さだけが、先ほどよりわずかに増している気がした。

 アリアが、感応針を強く握り直す。

 針の先端が、円盤の中心を指したまま、動かなくなった。

 施設のどこかで、何かが動き出していた。