第87話 / 全149話
傷を結ぶ地下の網
地図の線は、まだ途中までしか読み取れない。
それでも、宝箱は蓋を閉じなかった。
火影に照らされたまま、線の一本一本を、俺たちに見せ続けていた。
「今夜のうちには、辿り着けません」
ミミルが、地図と星の位置を見比べて言った。
「夜の地下は、足元さえ見えません。休んでから、明るくなって動きましょう」
異論は出なかった。
扉が重い体を軋ませて座り直し、椅子が脚を折って火のそばに落ち着く。
宝箱は、蓋を半分だけ開けたまま、地図を見せる姿勢を保っていた。
誰も、進んで眠ろうとはしなかった。
それぞれが、見えない何かに耳を澄ませている夜だった。
剣は、俺の背から降り、地面に突き立った。
「見張りは、俺がやる」
「……剣が、見張りなんてできるのか」
椅子が、軋む声で言う。
「動くものが来れば、柄が鳴る。それくらいは分かる」
「頼りにしてる、とでも言えばいいのか」
「言わなくていい。ただ、寝てろ」
剣の答えに、椅子はそれ以上何も言わなかった。
俺は、右へ小さく揺れた。
任せる、という合図だった。
夜が明けると、アリアは感応針を地図の上へ静かに置いた。
針は迷わず、宝箱に描かれた輪の一点を指す。
地図の縮尺と、昨日までの針の反応を重ねると、方角は南。
この谷をさらに下った先、大地の傷が牙のように狭まって口を開けている場所だった。
「ここから、半刻ほどです」
アリアが、地図に指を這わせながら言う。
「昨日、追跡個体が足を止めた場所より、まだ奥になります。針の反応も、そこで一番強くなっています」
半刻。
遠くはない。
だからこそ、連れていけない者がいた。
「私たちは、ここに残る」
ミミルが、宝箱たちへ向き直って言った。
「これ以上、あなたたちを危険な場所へ連れていくわけにはいきません」
「……置いていくのか」
扉が、低く呟く。
疑いではなく、確かめるような響きだった。
「守るために、離れてもらいます」
ミミルは、胸元の布包みを取り出した。
昨夜、紋を刻んだばかりの殻の欠片。
右へ揺れる合図と、鼻先の合図と、三度叩く合図と、守りたいという感情が、まだ静かに光を吸い込んでいる。
「この子の記憶が、また消える時が来るかもしれません。その時のために、これを――」
「俺が、持つ」
剣が、遮るように言った。
「宝箱たちを守りながらでいい。動けない連中の番人くらい、俺にも務まる」
ミミルは、少し迷ってから、布包みを剣の柄に結び付けた。
紐を結び終えた手が、一瞬だけ、剣の柄に触れたまま止まる。
「もし施設の追手が来たら、逃げてください。守るより、逃げるほうが先です」
「言われなくても分かってる」
剣が、短く答える。
「一緒にいた時間から書き足す、と言ったのはお前らのほうだ。忘れたとは、言わせない」
宝箱が、蓋をわずかに持ち上げた。
「……行け。ここは、俺たちが見ておく」
「戻ってこなかったら」
椅子が、軋む声で割り込む。
「戻ってこなかったら、その殻の欠片は、俺たちが持って歩く。誰かに見つかるまで、ずっとだ」
誰も、それに答えなかった。
答えないことが、答えだった。
角兎が、宝箱と椅子と扉の間を、鼻先で順に触れて回った。
いつもの合図に近い仕草だった。
その様子を確かめてから、角兎は俺の横へ戻ってきた。
向かうのは六人――いや、六つの命だった。
歩き出す前に、ミミルが一度だけ振り返った。
剣は何も言わず、柄に結ばれた布包みへ、そっと刃を寄せていた。
見張る、というより、抱え込むような姿勢だった。
それを見て、ミミルはようやく前へ向き直った。
谷を下る途中、黒竜が翼を畳み、地面に降りた。
人の姿を取るでもなく、それでも歩幅を合わせて、俺の隣に並ぶ。
『あの場所を、我は模倣と呼んだ』
誰に問われたわけでもないのに、そう切り出した。
『本物を、我は知っている。何であるかは、まだ言わぬ。だが、あれは違う。本物を真似て、効率だけを追った出来損ないだ』
低く、重い声だった。
「本物、というのは」
ミミルが、恐る恐る訊く。
『それも、まだ言わぬ。今のお前たちに聞かせるには、早すぎる』
それ以上は、踏み込ませない声だった。
ミミルは、それ以上は訊かなかった。
『お前が見た、竜の記憶らしき光景』
俺の殻の奥が、微かに疼いた。
黒竜の血を浴びた、あの時。
脳裏に流れ込んできた、あの光景。
赤黒い空、そこに走る巨大なひび。
その下で吠える、黒い竜。
竜の前に立つ、白い仮面をつけた人影たち。
さらに遠く、空に浮かぶ、巨大な白い卵。
意味だけが頭に響いた、あの言葉。
――孵すな。
『あれは、我自身の過去だ。血を通して、お前の中へ流れ込んだ』
『割れた空の下、白い仮面の者たちと相対した時のものだ』
『空に浮かんでいた、あの白い卵のことは、まだ言わぬ』
『――孵すな。あれは、我自身が叫んだ言葉だ』
『完全に孵るということが、何を意味するか。我はかつて、それを選びかけたことがある。だからこそ、お前には同じ轍を踏ませはしない』
右へ、小さく揺れる。
続きが聞きたい、という合図だった。
黒竜は、しばらく黙ってから続けた。
『焼いた記憶は、戻らぬ。我の竜炎で焼いたものは、どれだけ書き足しても、元には戻らぬ。それだけは、はっきりさせておく』
昨夜のミミルの言葉と、同じ結論だった。
戻らない。
それでも消えてほしくない。
その二つは、矛盾しないのだと、今なら分かる気がした。
「北西を見て、黙っていたことがあった」
俺の後ろで、アリアが静かに言う。
感応針が施設の方角を指し、衝動が同じ方角へ引かれた、あの時のことだ。
『黙ったのは、確かめずに言えなかったからだ』
黒竜が、前を見たまま答えた。
『あの衝動が、この網のどこかと繋がっているかもしれぬと、我も疑っていた。だが疑いだけで断じれば、お前たちを余計に怯えさせる。確かめるには、ああいう場所の中へ入るしかなかった』
それが、答えだった。
沈黙にも、理由があった。
レオンが、腰に佩いた鞘の重さを確かめるように、握り直す。
「入るしかない、か」
誰へともなく、そう呟いた。
「黒竜さんでも、知らないことがあるんですね」
ミミルが、ぽつりと言う。
責めるでも、驚くでもない、ただの確認だった。
『我は、全知ではない』
黒竜が、短く答えた。
『知っていることを、知っているだけ話す。それ以上は、憶測でしかない。憶測を、お前たちに背負わせたくはない』
それきり、黒竜は前を向いて歩みを速めた。
背中の鱗が、朝の薄い光を鈍く弾いていた。
地割れは、地図の通りの場所にあった。
牙のように狭まった岩の裂け目、その奥に、人一人がようやく通れる幅の闇が続いている。
アリアが感応針を差し入れると、先端が一際強く震え、それきり動かなくなった。
「……ここで、間違いありません」
誰も、すぐには足を踏み出さなかった。
この裂け目一つの先に、これまで見てきた全部の答えがある。
そう思うと、半刻の距離が、急に長く感じられた。
黒竜が身を低くし、鱗を鳴らしながら、無理やり体をねじ込ませた。
窮屈そうに、それでも、進んだ。
中へ入った瞬間、空気が変わった。
足音が、布越しのようにくぐもった。
消えはしない、ただ、近くにあるはずの音が、やけに遠く感じる。
レオンが鞘を握り直す音さえ、そうだった。
殻の内側で灯っていた、微かな魔力の気配――ミミルが、いつも遠くからでも感じ取ってくれる、あの揺らぎが、ふっと途切れた。
「……エッグ?」
ミミルの声は、届く。
でも、その奥にあったはずの繋がりが、ない。
言葉だけが、糸の切れた凧のように、ふわりと届いて終わる。
振り向くと、ミミルの表情が強張っていた。
同じことに、気づいたのだろう。
『我の探知も、利かぬ』
黒竜の念話が、途中で切れた。
最後の一言だけが、辛うじて届いた。
これ以降、その声は聞こえなかった。
誰も、何も言わなかった。
言葉より先に、目を合わせることで、進むしかないと決めた。
俺だけが、道を知っていた。
殻のひびが、奥へ進むほど、かすかに疼く。
右のひびが強く疼けば右、左が疼けば左。
言葉のいらない、地図だった。
角兎が、俺の動きだけを見て、迷わずついてくる。
通路は、掘られたものではなかった。
削られ、磨かれ、まるで最初からそこにあったかのように、滑らかに続いている。
壁の奥から、低い振動が伝わってくる。
足の裏から、腹の底まで届く、重たい鼓動のような振動だった。
進むほど、殻の奥で何かが疼いた。
砕け。
壊せ。
その声が、以前より近い。
通路の壁に、うっすらと光る亀裂が走るたび、握り潰したい衝動が、腕の先まで這い上がってくる。
誰かがいるかもしれない壁を、素材の塊のように見てしまう自分に、気づく。
一度、魔力腕が、勝手に伸びかけた。
狙う先は、壁の亀裂。
止めたのは、自分の意思ではなく、レオンが黙って肩を掴んだことだった。
振り返ると、レオンは何も言わず、首を横に振っただけだった。
それで、十分だった。
右に、小さく揺れる。
誰にも見えないと分かっていても、揺れた。
その直後、背中に軽い衝撃が三つ。
とん、とん、とん。
ミミルが、後ろから俺の殻を叩いていた。
声は届かなくても、この合図なら届く。
衝動が、少しだけ、遠ざかった。
角兎が、鼻先で俺の殻にそっと触れる。
もう一つの合図。
二つ重なると、少しだけ、殻が軽くなる気がした。
通路が開けたのは、それからしばらく後だった。
目の前に広がっていたのは、太い管が幾筋も交差する、巨大な空間だった。
管の中を、淡く光る球体が幾つも流れていく。
人の形にも、獣の形にも見える、光の粒だった。
その傍らを、壊れた甲冑や、砕けた石像や、欠けた器が、同じ流れに乗って運ばれていく。
魂と、器。
バラバラに、しかし同じ方向へ。
「……これが」
アリアが、声を震わせた。
震える手で、鑑定板を管の一つへかざす。
「……板は、これしか教えてくれません」
アリアが、板を下ろしながら呟く。
「中を流れているものが何か、名前も、正体も、外からは分からない」
俺には、分かる。
いや、分かるというより、感じる。
光の粒の一つ一つが、殻のひびに触れるたび、遠い痛みのようなものを伝えてくる。
言葉にはならない、けれど確かに、誰かだったという感覚。
管の一つは、頭上を横切り、闇の奥へと伸びていた。
もう一つは、床の下へ潜っていく。
三つ目は、左右に枝分かれし、それぞれが違う方角へ消えていた。
分岐の先に、この一つの施設だけでは終わっていない広がりがあることを、誰の目にも分かる形で示していた。
「一つの施設じゃ、ない」
レオンが、低く呟く。
「別の場所にも、繋がってる」
天井は見えない。
壁も、どこまで続いているのか分からない。
まるで、この空間そのものが、幾つもの傷を縫い合わせるために掘られたかのようだった。
人の手で造られたにしては、大きすぎる。
それでも、管の継ぎ目や、柱の並びには、迷いのない規則性があった。
効率だけを、追った跡だった。
枝分かれの根元、壁に埋め込まれた黒い針が、鈍く光っていた。
世界樹の根元で見たものと、同じ形。
同じ、焼けたような白い印。
針の先端から、濁った魔力の糸が伸び、管の中へ静かに注ぎ込まれていた。
「世界の傷から、集めた魔力……」
ミミルが、囁くように言う。
「あの針が、各地の傷から吸い上げた淀んだ魔力を、ここへ送っていたんですね」
根守り村の井戸の傷にも、古戦場にも、あの谷底にも、同じ針が刺さっていたはずだ。
偶然ではない。
村人が逃げ出す前から、退避路に幾つも埋められていた探知刻印も、この網の一部だったのだと、今なら分かる。
誰かがエッグを狙って仕掛けたものではなく、傷という傷に等しく張り巡らされた、日常の監視網。
だからこそ、村人が逃げる前から、既に見張られていた。
「……最初から、狙われていたわけじゃ、なかったんですね」
アリアが、感応針を握る手を緩めた。
「見張っていたのは、村じゃなくて、傷そのもの。私たちが通りかかったのは、ただの、後からです」
安堵とも、違う。
それでも、狙われる理由が一つ減った気がした。
管の合流点、太い柱に、金属の板が埋め込まれていた。
文字が、鈍く光っている。
《広域転生炉網・第七処理節》
誰も、しばらく声を出せなかった。
「……七番目」
アリアが、掠れた声で言う。
「ここだけじゃ、ない。少なくとも、七つ以上」
俺の殻の奥で、疼きがまた強くなった。
砕け、壊せ、その声に混じって、初めて別の何かが響いた気がした。
ここにある光は、全部、誰かだった。
誰かの、記憶と、名前と、感情が詰まっていたはずのものだった。
それを、右へ揺れて、押し戻した。
まだ、堪えられる。
堪えなければならない。
管の奥、闇の中から、足音が近づいてきた。
くぐもった中でも分かるほど、重い。
一つではない。
二つ、三つ。
等間隔に、機械のように刻まれる歩調が、闇の奥から近づいてくる。
この静寂の中で、初めて捉えた、外からの音だった。
レオンが、無言で鞘の柄に手をかける。
ミミルが、俺の背へ手を伸ばし、いつでも触れられる位置で止めた。
足音は、まだ姿を見せない。
それでも、確実に、近づいていた。