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トップ / 目次 / 第五部 世界の傷編

第86話 / 全149話

不良品たちの夜営

約5,428字

裂け目の縁は、思っていたより緩やかだった。

 崖というより、大地に走った、一本の古い傷。

 その底へ、パテで膝を止められた白い個体が、迷いのない足取りで下りていく。

 壊してはいない。

 声も、意思も、まだ中にある。

 ただ、自壊するための痙攣けいれんだけを、ミミルの手が止めていた。

 俺たちは、その背中から一定の距離を保ったまま、後を追った。

 背に乗った錆さびた剣が、下る振動に合わせて、小さく軋きしむ。

「……随分、深い傷だな。地面の、な」

 誰へともなく、剣が呟つぶやいた。

 答えは、誰からも返らなかった。

 底に着く頃には、日はほとんど落ちていた。

 風のない、冷えた空気が、谷底に沈んでいる。

 白い個体は、谷の中ほどまで進むと、不意に足を止めた。

 役目を終えたとでもいうように、それ以上は一歩も動かない。

 円の目だけが、静かにこちらを見ている。

「……着いた、ということでしょうか」

 アリアが、感応針を握り直しながら言った。

「針の反応は、消えていません。ここが、終点ではなさそうです」

 感応針の先が、また震える。

 一度や二度ではない。

 左に、右に、後ろに。

 地面の下に、幾つも眠っているような揺れ方だった。

 焦げた古戦場から続いていた、あの気配の正体が、ようやくこの谷底にある。

「この下、でしょうか」

 ミミルが、足元の土を軽く踏んだ。

「音が、違います。空洞があるかもしれません」

 アリアが、針の先を土へ近づける。

 針は、一点で止まったまま動かない。

 だが、掘り返しても、すぐには何も出てこなかった。

 ミミルが膝をつき、慎重に土を払っていく。

 十度、二十度と、同じ動作を繰り返す。

 指先が、泥で黒くなっていった。

「……ここ、何かに触れました」

 ミミルの声に、全員が動きを止める。

 土の下から現れたのは、木でできた、古びた蓋ふたの縁だった。

 指先が触れた瞬間、蓋の下から、低い唸うなり声が返ってきた。

「……触るな」

 声は、木がきしむ音に混じって聞こえた。

 ミミルが、はっと手を引く。

 蓋が、内側から押し上げられるように、少しだけ持ち上がった。

「また、連れ戻しに来たのか」

 残りの土を丁寧にどけると、古びた宝箱の全体が姿を見せた。

 鍵穴の周りに、細かいひびが放射状に走っている。

 角兎つのうさぎが、低く唸って半歩下がった。

 レオンが、反射的に剣の柄へ手をかける。

 その動きに、宝箱の蓋が、びくりと跳ねた。

「触るな。近づくな」

「違う。俺たちは……」

「聖剣を提げた男が、違うわけがあるか」

 声が尖った。

「話だけでも、聞いてもらえませんか」

 ミミルが、宝箱から少し離れた位置に膝をつく。

 近づきすぎない、それでいて逃げない距離だった。

「私たちも、追われる側だったことがあります。この子は、廃棄推奨と判定されて捨てられかけました。私は、その時それを庇った見習いでした」

「……見習いが、なんでこんな場所にいる」

「あなたたちと同じです。探知から逃げて、逃げた先で、また探知に見つかって」

 宝箱は、しばらく黙っていた。

 蓋の隙間から漏れる息のような音だけが、続いていた。

「……信じたわけじゃない」

「はい。それでいいです」

 ミミルは、それ以上踏み込まなかった。

 感応針の震えは、まだ止まっていない。

 アリアが、少し離れた瓦礫がれきの隙間を指した。

「あちらにも、反応があります」

 角兎が先に走り、鼻先で瓦礫をこじ開ける。

 脚が一本しか残っていない椅子が、ひび割れた背もたれを軋ませながら、自力で這い出してきた。

 さらに奥、崩れた石組みの陰から、重い扉が一枚、地面を引きずるようにして体を起こす。

 一つではなかった。

 三つ、四つ。

 感応針が拾っていた気配の分だけ、暗がりの中で何かが息を潜めていた。

 眠っている、と俺は思っていた。

 違った。

 息を潜めていただけだ。

 見つかれば、また連れ戻される。

 それだけを恐れて、土の下でじっと動かずにいた。

 俺が転がることしかできなかった、あの廃棄棟の隅と、そう遠くない場所に思えた。

「――お前らも、施設の犬か」

 椅子が、軋む声で言う。

 背もたれが、威嚇いかくするように傾いだ。

「その紋章、見覚えがある」

 扉が、低く重い声で続けた。

 視線が、レオンの腰の剣に集まっている。

 柄の近くに彫られた紋様と、追跡個体の胸に浮かぶ印。

 この場にいる誰もが、その一致を知っていた。

「俺は、蝶番から先が動かなかった。何年、こうしてたのか分からない」

 扉の声には、疲れが滲にじんでいた。

「椅子は、脚が一本しかない。四本あったはずの、残りは知らないそうだ」

「余計なことを言うな」

 椅子が、軋む声で遮る。

 それでも、否定はしなかった。

 アリアが、震える手で鑑定板をかざした。

名称古びた宝箱
種別魔道具(推定)
危険度中
食用不可
素材価値中
状態意思疎通様の反応あり
備考内部構造不明、鍵穴に異常な魔力集中

「これも、あの剣と同じです……」

 アリアが、掠かすれた声で言う。

「板は、中に誰がいるかまでは、教えてくれません」

「回収役なら、とっくに殺してる」

 ミミルが、静かに、しかしはっきりと言った。

「私たちが連れているこの子も、追跡の一体です」

 ミミルが、谷の中ほどで止まったままの白い個体を指した。

 円の目が、じっとこちらを見ている。

 それ以上、動く気配はない。

「壊さず、動けなくしただけです。話を、聞かせてください」

 宝箱の蓋の隙間から、覗のぞくような沈黙が返ってくる。

 信じたわけではない。

 ただ、疑いの角度が、わずかに変わった気配だった。

「……剣が、口をきくのか」

 椅子が、俺の背の錆びた剣へ目を向けた。

 目などないはずなのに、そう感じさせる気配だった。

「訊きたいことは、山ほどあるだろう。だが、今は俺の話じゃない」

 剣が、掠れた声で答える。

「俺も、同じ場所から来た口だ。連れ戻される側の気持ちくらい、分かる」

 その一言に、椅子の背もたれが、少しだけ傾きを緩めた。

「単発の話じゃない、ってことか」

 扉が、低く呟いた。

「俺たちは、それぞれ別の場所から来た。同じ場所じゃない。なのに、同じ声を聞いて、同じように捨てられた」

「俺の時は、白い声が『適合確認を省略します』と言った。それだけだ。理由なんてなかった」

 椅子が、掠れた声で付け加える。

「聞いたことがある声です」

 アリアが、目を伏せた。

「錆びた剣も、同じことを言っていました。省略した、と」

 省略。

 その言葉が、幾つも重なっていく。

 誰かが、確かめる手間を惜しんだ数だけ、こうして声を持つ誰かが生まれていた。

 単発の事故ではない。

 最初から、そう疑っていたことが、今ここで裏付けられようとしていた。

 その時。

 地面の奥から、幾つもの足音が近づいてきた。

 規則正しい、機械のような歩調。

 闇の中に、円い一つ目が、いくつも浮かび上がる。

 一体、二体では済まない数。

『来たか』

 黒竜が、低く唸った。

『数だけは、揃えてきたらしい』

 白い個体たちが、輪のように取り囲む。

 逃げ場を潰すように、宝箱と椅子と扉を囲い込んでいく。

 先頭の一体が、平らな声で告げた。

「器は再利用。残留人格は、廃棄」

 その一言に、宝箱も、椅子も、扉も、凍りついたように動きを止めた。

 廃棄。

 その響きが、俺の殻の奥にまで冷たく落ちてきた。

 残留人格。

 中にいる誰かを、そう呼ぶのか。

 名前も、感情も、ただの残りかすだと。

「――やらせるか」

 レオンが、剣を抜いた。

 だが、抜いたその手を、自分で止める。

 しばらく刃を見つめたあと、刃を鞘さやへ戻し、鞘ごと剣を、静かに地面へ置いた。

 乾いた音が、谷底に短く響く。

「これを見て怯えるなら、要らない」

 素手のまま、宝箱と椅子と扉の前に立ちはだかる。

「回収するなら、まず俺を通れ」

 白い個体の一体が、無機質な首をわずかに傾ける。

 人間の意思など計算に入れていない、そんな動きだった。

 構わず、腕を伸ばしてくる。

 その手が、扉の縁へあと少しで届く。

 扉には、逃げる脚がない。

 その場に固まったまま、白い手を睨にらむことしかできずにいた。

 俺は、迷わなかった。

 四本の魔力腕まりょくわんを広げる。

 狙うのは、個体そのものではない。

 胸の紋様――信号を放つ、その一点だけだ。

 一体の胸へ、赤黒い腕を叩き込む。

 あと、指一本分遅れていたら、扉の縁に届いていた。

 間に合った、というだけの差だった。

 壊すつもりはない。

 紋様の奥にある発信源だけを、握りつぶすように押さえ込む。

 個体の動きが、糸が切れたように止まった。

 殻の奥で、砕け、と急かす声が跳ねる。

 このまま握り潰してしまえば、もっと早く終わる。

 その誘惑が、腕の先まで這い上がってくる。

 握る力を、あと少し強めるだけでいい。

 でも。

 中に、まだ誰かがいるかもしれない。

 右に揺れる、それだけの単純な動きで、押し戻した。

「私も」

 ミミルが、レオンの隣をすり抜けて駆ける。

 手早くパテを塗るのは、関節ではなく、喉元に浮かぶ小さな刻印の上。

 アリアが感応針を逆さに打ち込み、電流のような反発を送り込む。

 角兎が、低く跳んで一体の足を払う。

 黒竜が、翼の一振りで隊列を崩す。

 三体、四体と、次々に沈黙していく。

 壊れてはいない。

 ただ、声を失っただけの人形のように、地面に膝をついていく。

 残った一体が、俺へ真っ直ぐ手を伸ばした。

 狙いは、俺自身のようだった。

「規格外個体、回収――」

 言い切る前に、俺の魔力腕がその手首を掴む。

 握った先の紋様が、細く震え、やがて光を失った。

 最後の一体が崩れ落ちたとき、谷底は急に静かになった。

「……本当に、壊さなかった」

 宝箱の声が、震えていた。

 疑いではなく、驚きの震えだった。

「壊す理由が、ありません」

 ミミルが答える。

「あなたたちの中にも、まだ誰かがいます。それを、壊すわけにはいきません」

 長い沈黙のあと、扉が、重い声で口を開いた。

「……なら、教えてやる。空白地帯の施設は、ここだけじゃない」

「あちこちの、世界の傷とやらに繋つながってる。俺たちは、その一つから逃げてきただけだ」

「傷の場所も、逃げた経路も、ばらばらだ。それでも、行き着く先は同じだった」

 世界のあちこちで、同じ失敗が、同時に起きている。

 その事実が、静かに胸へ落ちてきた。

「……教会の記録には、載っていない話です」

 アリアが、感応針を握ったまま、地面を見つめていた。

「載せられなかったのか、載せなかったのか。今は、判断がつきません」

「どちらでも、同じだ」

 レオンが、拾い上げた鞘ごと剣を膝に乗せて言う。

「知らなかった、では済まされない数だ」

 その声には、さっきまでの迷いとは違う、静かな重さがあった。

 夜営の火を囲んだのは、それからだった。

 宝箱も椅子も扉も、離れた場所で身を寄せ合ったまま動かない。

 完全に警戒を解いたわけではない。

 それでも、逃げなかった。

 火の暖かさに惹かれるように、少しずつにじり寄ってくる者もいた。

 ミミルは、火のそばで、胸元の袋から小さな布包みを取り出した。

 布を開くと、薄い殻の欠片が現れる。

 灰竜卵になった日、自然に剥はがれ落ちていたのを、ミミルが拾って包んでおいたものだった。

「……この子の記憶殻は、前に、竜の炎で焼け落ちてしまいました。それまでの記憶も、忘れた技能の名残も、一緒に」

 誰にともなく、そう呟く。

「戻ってくるかは、分かりません。それでも、また作れるなら、作っておきたいんです」

「古い殻には、その時の経験に対応した紋が、残ったまま消えないんです。前に、確かめたことがあります」

「なら、これにも書き足せる。まだ、消えていないうちに」

 筆先に魔力を灯し、欠片の表面へ、ゆっくりと紋を描いていく。

 一つ目は、右に揺れる、あの合図。

 二つ目は、角兎が鼻先で殻にそっと触れる合図。

 三つ目は、ミミルが俺の殻を、とん、とん、とんと三度叩く合図。

 言葉にしなくても分かる、あの感情。

 守りたい、という一点だけが、線になって刻まれていく。

「戻ってこなくてもいい。ただ、消えてほしくないだけです」

 欠片が、淡く光った。

 消えることなく、ただ静かに、光を吸い込んでいく。

 しばらく待っても、光は弱まらなかった。

「……消えません。定着した、ということです」

 ミミルの声に、初めて安堵あんどが滲んだ。

「……お前らも、似たようなことをするんだな」

 剣が、ぽつりと言った。

「俺には、そんな殻はない。刻まれたところで、映すものもない」

「今日からは、あります」

 ミミルが、剣の刃へ視線を向けて答える。

「一緒にいた時間から、書き足せばいいだけです」

 剣は、それ以上何も言わなかった。

 ただ、震えを止めていた。

 俺は、その光を見ながら、右へ小さく揺れた。

 さっき谷底に響いた、剣を置く乾いた音が、まだ耳の奥に残っている。

 右へ揺れる合図と、鼻先の合図と、三度叩く合図と。

 それとは別の、もう一つの音。

 どれも、誰かを守ろうとした時の音だった。

 宝箱が、こちらをじっと見ていた。

 やがて、諦めたように蓋を持ち上げる。

「……見せてやる。俺の中に、まだ残ってるものを」

 蓋の内側。

 板張りの裏に、無数の細い線で地図が彫り込まれていた。

 国境も、地名もない、ただ「傷」とだけ記された点が、あちこちに散っている。

 その全てから伸びる線が、一つの場所――地下の、巨大な輪へと収束していた。

「誰が彫った」

 レオンが、掠れた声で訊く。

「知らない。目が覚めた時には、もう刻まれてた。……たぶん、俺じゃない誰かの、最後の仕事だ」

 誰も、それ以上は何も言えなかった。

 焦げた古戦場も、この谷も、宝箱が彫られた場所も、全部が同じ輪に繋がっている。

 その事実だけが、静かな夜営の火に照らされていた。

 地図の線は、まだ途中までしか読み取れない。

 この輪の中心に何があるのか、誰も口にしなかった。