第85話 / 全149話
錆びた剣も転生者でした
欠番。
あの声は、まだ耳の奥にこびりついていた。
番号すら振られていない。
最初から、記録に残す気もなかったということか。
それとも、記録に残すことすら許されない何かだったのか。
考えても、答えは出ない。
白い個体は、そんなことなど気にも留めず、谷の方角へ歩き続けている。
パテで固めた膝を軋ませながら、迷いのない足取りで。
俺たちは、その背中から一定の距離を保って追った。
太陽が、少しずつ傾いていく。
歩き続けているのに、白い個体の歩調は変わらない。
疲れも、焦りも見せない、機械のような一定さだった。
地面が、少しずつ荒れてくる。
草の丈が低くなり、代わりに黒く焦げた岩が目立ち始めた。
昔、ここで何かがあったのだと分かる焦げ方だった。
「古戦場の跡、でしょうか」
アリアが、感応針を握ったまま呟く。
「地図にはない場所です。でも、この焼け方は……武器同士が、ぶつかり合った痕に見えます」
レオンが、無言で剣の柄に手をかけた。
剣先の、あの細いひびは、まだうっすら光っている。
誰かの合図に呼応するみたいに。
「この辺りだけ、木すら生えていません」
ミミルが、足元の土を軽く踏んで言った。
「魔力を、根こそぎ吸い上げられたような土です」
俺の殻の奥も、さっきから妙な熱を持っていた。
破壊衝動とは、少し違う。
もっと引っ張られるような、疼くような感触。
この場所自体が、何かの魔力を溜め込んでいるのかもしれなかった。
角兎が、不意に足を止めた。
鼻先を、瓦礫の隙間へ向けている。
低く、唸る声。
「何かいますか」
ミミルが、警戒しながら近づいた。
瓦礫の下から突き出ていたのは――錆びついた、一本の剣だった。
刃こぼれだらけの白銀。
柄はとうに朽ちて、鍔だけが辛うじて形を保っている。
誰が、いつ、ここへ置いていったのかも分からない。
アリアが、腰の鑑定板をかざした。
「反応あり、ですって?」
アリアが、板を二度見した。
ただの武器なら、こんな備考はつかない。
「呪具、でしょうか」
「呪いなら呪いで、名前くらい出ます。これは……分類できない何かです」
ミミルが、慎重に刃へ手を伸ばしかけて、止めた。
「触る前に、少し離れてください。念のため」
しゃがみ込んだミミルが、刃の表面を覗き込む。
目を細めて、細かいひびの走り方を追っている。
いつも俺の殻を診る時と、同じ目つきだった。
「このひびの入り方……一点から割れたんじゃなくて、内側から外へ、何度も押し広げられた痕に見えます」
「押し広げられた?」
「エッグの殻とも、少し似ています。中の何かが、外へ出ようとして、出られずに、何度も跳ね返った痕です」
アリアが、感応針の先を軽く刃に触れさせる。
鑑定板には出なかった何かを、確かめるように。
「鑑定に出るのは、外から見える傷だけです。中で何が起きたかまでは、板は教えてくれません」
誰にも、その先までは分からなかった。
俺は、その刃に近づいた。
近づくほど、殻の奥の疼きが強くなる。
吸えば力になる、という感触に似ていた。
鹿の血を吸った時とも、聖剣の因子を取り込んだ時とも、少し違う。
もっと純粋な、剥き出しの魔力の塊が、そこにある気がした。
あの時も、こうだった。
レオンの剣から流れ込んだ神性の因子を、殻が勝手に取り込んで、聖痕卵になった。
力が要るなら、また同じことをすればいい。
誰かが、頭の奥でそう囁いた。
砕いて、吸い込め。
そうすれば、もっと強くなれる。
俺の中の、誰かの声が言った。
あの追跡個体を前にした時と、似たような疼き。
でも今度は、破壊しろではなく――取り込め、だった。
右手を、伸ばしかけた。
その時。
地面の下から、細い白い糸が這い出してきた。
感応針とよく似た、それでいて色の違う糸。
糸は、迷いなく錆びた剣へ向かって伸び、刃に絡みつこうとする。
「離れてください、エッグ!」
ミミルの声に、俺は手を止めた。
糸が、剣の刃をゆっくりと締め上げていく。
まるで、回収すべき荷物に、荷札を巻きつけるように。
「これは……」
「回収の網、でしょうか。此処にも、届いているとは」
アリアが、感応針を糸に近づけた。
針が、微かに震える。
あの追跡個体を動かしていたのと、同じ根から来ている反応だった。
『放っておけ』
黒竜が、低く言った。
『埋もれていたものを掘り起こすのは、我らの仕事ではない』
「でも、意思がある反応です。物じゃありません」
ミミルが、珍しく黒竜に食い下がった。
「レオン、切れますか」
ミミルが叫ぶ。
レオンが、鞘ごと剣を抜いて振りかぶった。
その動きに、しかし、掠れた声が割り込んだ。
「……よせ」
声は、剣そのものから聞こえた。
刃の表面に、細かいひびが幾筋も走り、震えるたびに音になっている。
金属が鳴っているのではない。
言葉に、なっていた。
「その剣で、俺を叩き斬るつもりか」
レオンの動きが、止まった。
「お前……喋って、」
「驚くようなことか。喋る剣くらい、いくらでもいる」
乾いた、投げやりな声だった。
「その糸は、俺を回収しに来た。連れ戻されて、また誰かの得物として使われる。それだけの話だ」
「助けようとしただけだ」
「助ける?」
剣が、笑うような音を立てた。
ひびの震え方が、そう聞こえた。
「剣に転生させられた俺を、また剣として使うのか。人間のお前が」
レオンの手が、止まったまま動かない。
自分の剣が施設と同じ紋章を持つと知ったばかりの手が、また別の「剣」から拒まれている。
二重の重さが、その顔に乗っているのが分かった。
「悪気は、なかった」
「悪気の有無なんて、握られる方には関係ない」
剣の声が、少し尖った。
「柄を取られて、振り回されて、また誰かの都合で使い潰される。それの何処に、俺の意思が入る」
誰も、言葉を返せなかった。
「……その言い分、教会にも聞かせてやりたいな」
レオンが、剣を鞘へ戻しながら、自嘲するように言った。
「俺も、ずっと同じだった。聖剣を持つ勇者として振り回されて、それが誇りだと思い込まされていた。誰の意思かなんて、考えたこともなかった」
「なら、分かるだろう」
剣の声が、少しだけ和らいだ。
「分かる、とまでは言えない。でも、分かろうとすることはできる」
アリアが、感応針を握り直して、糸の消えた地面を見つめていた。
「教会の記録にも、失われた聖遺物の欄が幾つもあります。回収し損ねた、とだけ書かれて、行方は追われていない品が」
「それが、これだったかもしれない、ということですか」
「断定はできません。でも、無関係だとも思えません」
教会の記録の欄外に、名前も残らず消えていった品々。
その一つ一つに、こうして喋る誰かが押し込まれていたのだとしたら。
これまで数えてきた「失われた聖遺物」の数だけ、まだ知らない誰かがいることになる。
背筋に、冷たいものが走った。
顔も、名前も知らない誰かたちが、今もどこかで、合わない器のまま息をひそめている。
俺の中の疼きは、まだ消えていない。
吸い込め。
糸ごと、剣ごと、取り込んでしまえば、あの疼きは静かになるはずだった。
力になる。
もっと強くなれる。
誰かに命じられたわけではない、俺自身の欲だった。
でも。
目の前で、剣は、剣として使われることを拒んでいる。
道具として扱われることに、怯えている。
それを俺が、今度は素材として吸い込むというのか。
殻を削っていいと言われた時、俺自身が感じた怒りと、同じ形をしていた。
あの時、俺は好きに削っていいなんて絶対に言わない、と決めた。
なら、今度は俺が、それを他人にやる番なのか。
俺は、伸ばしかけていた腕の向きを変えた。
糸へ。
剣本体には触れず、細い糸だけを掴んで引き干切る。
感触は、あの追跡個体の胴を支えた時に似ていた。
冷たくない、生き物でもない、名前のつかない温度。
糸が、ぷつりと切れて地面へ沈んでいった。
剣が、震えを止めた。
「……なぜ、俺を取らなかった」
「取る、とは」
ミミルが、静かに問い返す。
「吸い込む気配が、あった。今の卵から」
ミミルの目が、一瞬こちらへ向いた。
見抜かれていた。
俺は、ただ右に小さく揺れた。
やらない、というつもりで。
「取り込めば強くなれるかもしれません。でも、この子はやりません」
ミミルが、剣の前にしゃがみ込んだ。
「あなたは、道具になりたくて剣になったわけじゃない。そうですよね」
剣は、しばらく黙っていた。
やがて、ひび割れた声が、ぽつりとこぼれた。
「……目が覚める前に、声を聞いた」
「声?」
「白い、平らな声だった。『魂と器の適合確認を、省略します』と、それだけ言った」
誰も、何も言えなかった。
「気づいたら、剣になっていた。使いこなせない重さも、握られる痛みも、確認済みで用意されたわけじゃない。ただ、合わなかった」
合わなかった。
その一言が、俺の殻の奥にまで刺さった。
卵として生まれ、モンスターの器にすら数えられなかった俺と、同じ形をした痛みだった。
適合の確認を、誰にもされなかった。
選んだわけでも、選ばれたわけでもなく、ただ放り込まれた。
そのあとどう生きるかだけを、自分でどうにかしてきた。
この剣も、きっと同じだ。
ただ、違うところもある。
俺はまだ、卵のままだ。
孵化していないから、何にでもなれる可能性だけは残っている。
でも、この剣はもう、剣という形に固まってしまった。
二度と、他の何かへは戻れない。
その差が、急に重たく感じられた。
可能性を残されたまま生まれた俺と、一つの形に押し込まれたまま目覚めたこの剣と。
どちらが幸運なのか、俺には決められなかった。
俺は、剣の隣に体を寄せた。
背中の殻を、少しだけ傾ける。
「……乗れ、ということか」
剣が、疑うような震え方をした。
「握られるのとは、違う。運ばれるだけだ、これは」
ミミルが、そっと補足する。
「この子の背に乗るだけです。誰の得物にもなりません。行くか行かないか、決めるのはあなたです」
「拒めば、置いていくのか」
「はい。無理には運びません。それだけは、約束します」
剣は、しばらくの沈黙のあと。
ゆっくりと錆びた身を起こし――自分から、俺の背の上に横たわった。
重さはほとんどない。
握られるための柄も、もう朽ちている。
それでも、確かにそこにある重みだった。
「……借りるだけだぞ」
剣が、掠れた声でそう言った。
礼を言うでもなく、拒むでもない、不器用な言い方だった。
俺は、右へ小さく揺れて答えた。
角兎が、鼻先を剣に近づけて、一度だけくんと鳴いた。
敵意はない。
どちらかというと、新入りを確かめるような仕草だった。
『拾い物が増えたな』
黒竜が、呆れたような、それでいてどこか面白がるような声で言った。
『貴様の背は、いつからそんなに広くなった』
答えようがなかった。
右にも左にも、揺れられない問いだった。
遠くで、白い個体が、まだ谷の方角へ歩みを止めていない。
立ち止まっていた時間は、思ったより短かったらしい。
俺たちは、剣を背に乗せたまま、再び後を追い始めた。
焦げた地面の下には、まだ幾つも、似たような気配が眠っている。
感応針の先が、通り過ぎるたびに、微かに震えることに、俺は途中で気づいた。
一度や二度ではない。
立ち止まって掘り返している時間は、今はない。
ミミルも、それに気づいたのか、帳面に何かを走り書きしながら、視線だけを地面へ落としていた。
日が、完全に傾いた頃。
行く手に、黒々とした裂け目が見え始めた。
地図にない谷の、入り口だった。
風もないのに、裂け目の奥から冷たい空気だけが、絶え間なく流れ出している。
白い個体は、その裂け目へ迷いなく吸い込まれていく。
この剣だけが、たまたま目を覚ましただけなのかもしれない。
そう思うと、この古戦場そのものが、まだ何かを埋めたまま黙っているように見えてきた。