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トップ / 目次 / 第五部 世界の傷編

第84話 / 全149話

追う者を追え

約4,681字

誰の耳にも届いた声が、まだ空気の中に残っていた。

 回収優先。

 その四文字が、ひびの奥まで染みてくる。

 殻の熱が、また上がる。

 昨日、鹿を見ただけで暴れた腕が、もう疼うずいている。

 砕け、と誰かが言っている気がした。

 でも今度は、あの命令の残り火じゃない。

 俺自身が、そう思いかけていた。

 境目まで来たのに。

 探知が届かないはずの場所まで来たのに。

 あいつは、迷わずここへ来た。

 北西の引きでも、村人の匂いでもなく。

 最初から、俺だけを目当てにしていたみたいに。

 だとしたら。

 この境目に、意味なんてあったのか。

「動かないでください」

 ミミルの声が、低く鋭い。

 殻に触れる指に、力がこもる。

「今、暴れたら、向こうの思う壺です」

 思う壺。

 たしかに。

 俺が暴れて派手に光れば、境目の向こうにも筒抜けになる。

 村人たちが、また見つかる。

 右へ、小さく揺れた。

 我慢する、というつもりで。

 白い個体は、動かなかった。

 距離を詰めるでもなく、そこに立ったまま。

 円の目だけが、瞬きもせず俺を映している。

「あの目の紋様……前に、探知具の帳簿で見た印にも似ています」

 アリアが、感応針を握りしめたまま言った。

「白い仮面の印。あれも、こんな風に、名前の代わりだったんでしょうか」

「教会の黒針とは、違う筋の道具、だったな」

 レオンが、剣を構え直しながら応じる。

「攻撃してこない……?」

 レオンが、剣を構えたまま呟つぶやいた。

 抜き身の刃が、いつもと違う音を立てている。

 ちり、ちり、と細く鳴る音。

 俺は、その刃を見た。

 白銀の地に、髪の毛ほどのひびが走って、そこだけ淡く光っていた。

 鹿を見て暴れた時とは、違う光り方。

 あの声に、呼応している。

 白い個体の胸のあたり。

 滑らかな輪郭に、一筋の縦線が浮かび上がった。

 線は、ゆっくりと横へ広がって、円になる。

 円の中に、また小さな円。

 その内側に、四方へ伸びる短い枝。

 見たことのある形だった。

 レオンの剣の、鍔のすぐ下。

 柄に近い場所に、同じ紋様が彫られている。

 いつも鞘さやに収めているせいで、忘れていた場所。

「……それは」

 レオンの声が、掠かすれた。

「俺の剣と、同じ……」

 偶然ではない。

 剣が鳴っているのも。

 紋章が浮かんだのも。

 同じ根から出た合図だとしたら。

「レオン、剣を近づけないでください」

 ミミルが、鋭く言った。

「今、共鳴させたら、向こうに何を伝えるか分かりません」

 レオンの手が、止まった。

 剣先が、震えている。

 自分の剣が、神の加護の証ではなく、あの施設の紋章を刻んでいるかもしれない。

 その事実を、まだ飲み込めずにいる。

「認めたくない、って顔ですね」

 ミミルが、それでも静かに続けた。

「レオン。あなたの剣は、聖女様から受け継いだものだと聞いています。でも、聖女様がどこからそれを受け取ったかまでは、誰も知りません」

 アリアが、目を伏せた。

「……教会の宝物庫の記録にも、剣の出所は書かれていません。ただ、代々の勇者に渡す、とだけ」

「出所を隠すのは。名前を隠したがる相手の、やり方と同じですね」

 ミミルの言葉に、レオンは答えなかった。

 答える代わりに、剣を握る手に力を込めた。

「でも、今はそれを確かめる時間より、あれをどうするかです」

『問答している暇はないぞ』

 黒竜の声が、頭上から落ちてきた。

『あの目の奥、脈が乱れている。長くは保たん』

「脈?」

「自壊、ということですか」

 アリアの声に、緊張が滲にじむ。

『器を残したまま消える気だ。何度か見てきた』

『壊れる前に押さえねば、あとを追う糸まで消える』

 俺のひびの奥で、また熱が跳ねた。

 砕け、砕け、と急かす声。

 消えるくらいなら、先にこっちで壊してしまえと。

 その方が早いと。

 それは、正しいのかもしれない。

 でも。

「壊さないでください、エッグ」

 ミミルの目が、まっすぐ俺を見た。

「壊せば、終わりです。あれの帰る先まで、辿れなくなる」

 右手が、俺の殻を軽く撫なでる。

 いつもの、熱を吸う仕草。

「捕まえます。壊さずに」

 右へ、揺れた。

 衝動は、消えていない。

 ただ、今は。

 ミミルの言葉の方が、少しだけ強かった。

「角兎つのうさぎ、右腕を」

 角兎が、地を蹴った。

 白い個体の右腕に、牙を立てて体重をかける。

 軽々と持ち上がるかと思ったが、意外にも、腕は止まった。

『左は、我が押さえる』

 黒竜が急降下し、太い爪で左腕を掴んだ。

 白い個体の輪郭が、初めてわずかに軋きしんだ。

 悲鳴ではない。

 金属と金属が擦れるような、乾いた音。

 両腕を封じられても、白い個体は暴れなかった。

 ただ、円の目が、細かく明滅を始めた。

 まるで、内側で何かを急いで書き換えているように。

「早く……!」

 アリアの声が、初めて上ずった。

「レオン、脚を」

「分かった」

 レオンが、鞘のまま剣を叩き込んだ。

 刃を使わない。

 同じ紋章を持つものを、この剣で斬りたくない。

 その迷いが、鞘に頼らせたのだと分かった。

 白い個体の膝が、崩れた。

 その一瞬。

 封じられていたはずの右腕が、角兎の牙を振り払うように跳ねた。

 角兎が、宙で一回転して着地する。

 鳴き声一つ、上げなかった。

「怯むな、押さえ直せ」

 レオンの声に、角兎がすぐさま牙を立て直す。

 黒竜の爪も、逃がすまいと締め直された。

「今です、エッグ」

 俺は、殻の奥から赤黒い腕を伸ばした。

 握り潰す形じゃない。

 押さえつける形に。

 うまくできるか、分からなかった。

 勝手に力が入って、砕いてしまうかもしれない。

 それでも。

 伸ばした腕で、白い個体の胴を抱え込むように支えた。

 触れた感触は、冷たくなかった。

 むしろ、微かに温かい。

 生き物の体温とも違う、機械油とも違う、どちらにも似ていない温度。

 これは、何でできているんだろう。

 考えても、答えは出なかった。

 砕け、砕け、と喚く声を。

 殻の奥に押し戻す。

 右に揺れる、ただそれだけの単純な動きが。

 今は、一番難しかった。

 ミミルが駆け寄り、袋から灰色の練り物を取り出す。

 殻修復パテ。

 いつもは俺の欠けを塞ぐための道具。

「関節だけ、止めます」

 パテが、白い個体の肘と膝に押し当てられ、みるみる形を変えて食い込んでいく。

 腐毒ふどくを吸って散らす、あの粘り気が。

 今度は、脈打つ何かを、静かに包み込んでいった。

 乱れていた脈の音が、少しずつ緩やかになる。

「……止まった、と思います」

 ミミルが、額の汗を拭った。

 白い個体は、もう動かない。

 円の目だけが、変わらずこちらを見ている。

 でも、そこにあった焦りのようなものは、消えていた。

 レオンが、恐る恐る鞘から剣を半分だけ抜いて、胸の紋章に近づけた。

 柄の紋様と、胸の紋章。

 線の太さも、枝分かれの角度も、寸分違わない。

 白い地に浮かんだ紋章は、よく見ると、わずかに青みがかった銀色をしていた。

 剣の柄の紋様と、まったく同じ色。

「同じだ」

 声が、震えていた。

「俺の剣は……教会が、聖女様の代から受け継いだと聞いていた。まさか、これと同じ場所から来た道具だなんて」

「まだ、分かりません」

 ミミルが、努めて平らな声で言う。

「同じ紋章を使っているだけかもしれない。でも、確かめる価値はあります」

 アリアが、感応針を取り出して白い個体に近づけた。

 針は、迷わず胸の紋章を指した。

 さっきまで北西を指していたのと、同じ強さで。

「反応が、途切れません。まだ、どこかと繋つながっています」

 繋がっている先。

 あの、地図にない施設。

 村人を追い、獣を囮おとりに使い、こうして俺だけを名指しで狙ってくる相手が、まだ向こうで指示を出し続けている。

 その事実が、思っていたよりずっと重かった。

「なら、待ちましょう」

 ミミルが、そう言った。

「向こうから、何か合図が来るはずです。今、無理に動かして壊すより」

 待つ。

 その間、じっと座って、暴れたい衝動に耐え続ける。

 簡単なようで、一番きつい仕事だった。

 時間が、のろのろと過ぎた。

 角兎が、俺の隣に丸まって、時々鼻先で殻をつついてくる。

 気を紛らわせようとしているのか、単に暇なのか。

 どちらでもよかった。

 黒竜は、少し離れた岩の上で、目を閉じたまま動かない。

 でも、耳だけは、ずっとこちらへ向いていた。

「レオン」

 ミミルが、焚き付けもしない焚き火の跡に座って、静かに言った。

「あれが本当に施設まで案内してくれたとして。着いた先で、何を見ても。今日みたいに、確かめる前に決めつけないでください」

「……分かってる」

 レオンが、剣を膝の上に置いたまま俯いた。

「この剣が、あいつと同じ場所から来たとしても。俺が、この剣で人を守ってきたことは変わらない。そう思わないと、今は立っていられない」

 誰も、それを否定しなかった。

 否定できるほど、確かなことなど誰も持っていなかった。

『迷うのは、人の特権だ』

 黒竜が、目を閉じたまま呟いた。

『我らは、選んだ道を疑わぬ。だが、迷いながらでも進めるなら、それも一つの強さだろう』

 珍しく、優しい響きだった。

 レオンは、何も言わずに頷うなずいただけだった。

 俺は、支えたままの白い個体の重みを、腕の中で感じ続けていた。

 軽い。

 中身が、詰まっていないみたいに軽い。

 それでも、腕を放す気にはなれなかった。

 どれくらい経った頃か。

 感応針の先が、ふるりと震えた。

「来ました」

 ミミルの声が、緊張を帯びる。

 針の震え方に、見覚えがあった。

 規則正しい、二回、間を置いて一回。

 それから、また二回。

 この波形。

 沢に流した、あの捕獲具の欠片。

 壊れても反応をやめない、あの厄介な欠片を、これ以上追われないようにと沈めた日のことを、俺は覚えている。

 水面に落ちる直前、欠片が一度だけ、痛いくらい強く光った。

 あの光の、震え方。

 抑え込んで、二度と光らないようにと願いながら流した、あの欠片が、一度だけ強く光った時と。

 同じ震え方だった。

「これ……」

 ミミルも、帳面をめくって、指で押さえた。

「以前、沢で見た反応と、一致します」

 偶然のはずがない。

 あの欠片も、これも。

 同じところから、同じ声で呼ばれている。

 沈めた欠片は、まだ沢の底にあるはずだ。

 流れる水の中で、今もこの信号を聞き続けているのかもしれない。

 そう思うと、あの沢そのものが、まだ施設と繋がっているように思えてきた。

 白い個体の体が、かすかに震えた。

 関節を止めていたパテは、そのまま。

 でも、脚だけが、ゆっくりと持ち上がる。

「動きます」

 パテは、関節を固めても、歩くための動きまでは殺していなかった。

 止めていたのは、あくまで、自壊のための痙攣けいれんだけ。

 器用な道具だと思う。

 欠けを塞ぐためだけに配合されたものが、こんな風に別の目的で役に立つとは、ミミルも思っていなかったはずだ。

「無理に押さえますか」

 レオンが訊く。

『いや』

 黒竜が、目を開けた。

『歩かせろ。糸は、辿るためにある』

 白い個体は、囚われたことにも気づいていないかのように、ゆっくりと体の向きを変えた。

 北西でも、村への道でもない。

 もっと奥。

 地図に描かれたことのない、谷の方角。

 一歩、また一歩。

 パテで固めた膝を軋ませながら、それでも迷いなく進んでいく。

「追いましょう」

 ミミルが、帳面を閉じた。

「壊さずに、ここまで来られたんです。あとは、案内してもらうだけです」

 右へ、揺れた。

 今度は、迷いなく。

 角兎が先に立ち、レオンが鞘の剣を提げ直し、黒竜が低く空へ上がる。

 俺は、自分の腕でまだ支えたままの白い個体から、そっと力を抜いた。

 砕け、と急かす声は、まだ殻の奥にいる。

 でも、今日一日で、少しだけ扱い方が分かった気がした。

 消す必要はない。

 黙らせておければ、それでいい。

 そのとき。

 白い個体の背中で、小さな蓋ふたのようなものが開いた。

 カチリ、と軽い音。

 中から、平らな声が漏れる。

 誰かに向けてというより、記録を読み上げるような口調。

 全員が、動きを止めた。

 その背から流れた機械音声は、エッグをこう呼んだ――「規格外個体、再捕捉。照合番号、欠番」。