第83話 / 全149話
根守り村の消えた足跡
声は、それきり止んだ。
刻印の脈を待った。
来ない。
白い円は、さっきと同じ深さで、土の中に沈んだままだった。
「エッグ」
ミミルの手が、まだ殻に触れている。
右へ揺れた。
大丈夫だ、と伝えたつもりだった。
伝わったかは分からない。
殻の奥に。
あの命令の残り火みたいなものが、まだ燻っている。
破壊せよ、と言われて。
誰を、とは言われなかった。
それが、一番怖かった。
昨日は。
鹿を見ただけで、勝手に腕が伸びた。
今日は。
命令だけが、先に届く。
次に何かを見た時、俺はまだ、自分の意思で右に揺れられるのか。
その自信が、少しずつ削れていく。
アリアが、刻印の縁にしゃがみ込んだ。
「円の内側の目。……これ、教会の探知具にも似た紋様があります」
「教会のではない、と?」
レオンが訊く。
「教会のものは黒い針を使います。これは白い線だけ。彫り方も違います」
アリアが、帳簿という言葉を思い出したように顔を上げた。
「以前、探知具の帳簿で見た印を覚えていますか。納入先の欄に、名前の代わりに描かれていた」
「白い仮面の印か」
レオンの声が低くなる。
「これは、その仮面の目だけを、大きくしたもののように見えます」
「教会の外の、別の誰かが作った道具、ということか」
レオンが、剣の柄に手をかけたまま言った。
「教会の名でも、貴族の名でもない。名前を隠したがる者が、一番厄介です」
ミミルの声に、苦いものが混じった。
名乗らない相手は。
交渉もできなければ、脅す相手も分からない。
ただ、目だけが、静かに見ている。
こちらの都合など、はなから聞く気もなさそうに。
ミミルが、感応針をもう一度近づけた。
針は、円から動かない。
ぴたりと向いたまま。
「反応は一つじゃありません」
ミミルが言った。
「この先にも、同じ強さの反応があります。複数」
地図を持たない道の先に。
同じ目が、いくつも埋まっている。
根守り村の退避路そのものが。
最初から、見張られていた。
村人たちが逃げ出す前から。
誰かが、先回りして道へ目を埋めていたことになる。
「……逃げる前に、もう見られていた、ということですか」
アリアの声が、かすれた。
答える者はいなかった。
黒竜が、頭上で旋回をやめた。
音もなく降りてくる。
『この先、道は割れている』
重い声。
『三つ結びの道の他に、獣道に似せた分かれが、五つ』
「エルフの偽装ですか」
アリアが訊く。
『それもある。だが、二つは違う』
黒竜の瞳が、北西へ向く。
『あちらの気配が、すでに歩いている』
俺の殻の奥が、また熱くなりかけた。
すぐに、ミミルの指が縁をなぞる。
熱は、大きくならずに済んだ。
「気配って、獣ですか。それとも」
レオンが訊く。
『獣ではない。足音のない何かだ』
足音のない何か。
その言葉だけで。
嫌な予感が、ひびの奥まで届いた。
ゴブリンたちが、担いでいた荷を、道端へ下ろした。
一番小柄な一匹が、棍棒で、退避路の先を指す。
それから、自分の胸を、二度叩いた。
「……先に逃げた村の人たちの、後ろを守る、と?」
ミミルが訊く。
ゴブリンたちは、そろってうなずいた。
刻印が探しているのが、俺の気配なら。
俺から離れた方が、あいつらは見つかりにくい。
「……分かりました。無理は、しないでください」
下ろされた荷の半分を、レオンが担ぎ直した。
ゴブリンたちは、獣道へ、音もなく消えていった。
道の途中に。
小さな荷車が、片輪だけ外れて転がっていた。
積まれていたはずの荷は、もうない。
誰かが、途中で置いていったか。
あるいは、担ぎ直して先を急いだか。
「これも、村の方たちのものですね」
ミミルが、車輪の跡を指でなぞる。
「新しい跡です。今朝……いえ、もっと最近」
まだ、追いつける距離にいる。
まだ、間に合うかもしれない距離に。
同時に。
あの白い目にも、まだ間に合う距離ということだ。
しばらく進むと。
道が五つに割れる場所へ出た。
三つ結びの目印は、右から二番目の道にだけあった。
他の四つには、何もない。
あるいは、それらしく見せかけた枝結びが。
角兎が、右から四番目の道の前で止まった。
鼻を、土に押しつける。
それから、こちらを振り返って耳を伏せた。
「何か、いる?」
ミミルが屈む。
その道の奥、茂みの向こうで。
小さな影が動いた。
毛の長い、犬に似た獣。
背に、木の実の入った袋をくくりつけている。
村の子どもが背負うような、小さな袋だった。
「……あれは」
アリアの声が震えた。
「囮です。村の狩人が飼っていた獣に、子どもの荷を背負わせて、わざと足跡を残させたんです。本物の避難先から、目をそらすために」
囮。
村人ではない。
だが、村人のために働いている。
「長老たちが、そこまで」
レオンが低く呟いた。
「守れる人数が少ないから、守れないものにまで、やらせるしかなかったんです」
アリアが、目を伏せて言った。
その囮の後ろに。
もう一つの影があった。
白い。
人の形をしているが、輪郭が滑らかすぎる。
顔のあるべき場所に、目玉が一つだけ。
刻印と同じ、円に囲まれた目。
足音がしない。
枝を踏んでも、葉が鳴らない。
あれが。
「……施設の追跡個体、でしょうか」
ミミルの声が、かすれた。
白い個体は、囮の獣を追っている。
距離を詰める速度が、獣の全力より速い。
あと十数歩で、追いつく。
助けに行けば。
俺たちの本気の反応が、あの目に映る。
本物の避難先は、まだ探知圏の際にいる。
こちらが強い気配を出せば、追跡は分散するどころか、村人の方へ引き寄せられかねない。
見捨てれば。
あの獣は、追いつかれる。
荷ごと、回収される。
回収。
教会の回収所と、同じ言葉。
あそこに集められた探知記録や道具の山を思い出す。
使い終わった針。
外された捕獲具。
棚に並べられて、二度と誰にも呼ばれない。
あの獣も、同じ棚に並ぶのか。
子どもの荷を背負ったまま。
どちらも。
選びたくなかった。
「レオン、動かないでください」
ミミルが、剣の柄に伸びかけたレオンの手を止めた。
「今、私たちが動けば、あちらに気づかれます」
「だが、あのままじゃ」
「分かっています」
ミミルの目が、俺を見た。
「エッグ。あなたの灰は、今どこにありますか」
灰。
欠けた殻の破片。
自然に剥がれて、まだ拾われていないもの。
殻の表面を探る。
小さな灰の粒が、いくつも、殻にくっついたまま眠っていた。
いつもは、呼び戻して修復に使う。
今日は、まだ一度も使っていない。
「戻さずに、飛ばせますか」
飛ばす。
呼び戻すのではなく。
考えたことがなかった。
だが。
殻の奥から、赤黒い腕を伸ばした。
鹿を追いかけた、あの腕。
今度は、俺の意思で伸ばす。
うまく動くか。
また勝手に暴れないか。
少しだけ、怖かった。
指先に、灰の粒を一つ乗せた。
軽く弾く。
灰が、五つに割れた道のうち、囮のいない道の奥へ飛んでいった。
落ちた瞬間。
白い個体の頭が、かくん、と動いた。
獣を追う足が、止まる。
「反応が増えました」
ミミルが、感応針を見ながら言う。
「灰の粒に、あなたの魔力紋が残っています。針から見れば、今のあなたと同じ強さの反応です」
もう一つ。
もう一つ、飛ばした。
別の道の奥へ。
二つ目は、狙いが少しずれた。
枝に当たって、跳ねてから落ちる。
それでも。
反応としては、十分だったらしい。
白い個体の目が、二つに割れかけたように揺れた。
どちらへ向くべきか、決めかねている。
「あと三つ、いけますか」
右へ揺れた。
三つ目は、狙った場所より少し手前で落ちた。
白い個体の頭が、そちらへわずかに傾く。
まだ、足りない。
四つ目は、木の幹に当てて跳ね返し、狙いの道へ落とした。
跳ね返す、なんて器用な真似は、初めてだった。
腕の先が、少しだけ痺れている。
五つ目。
最後の一粒を、指先で挟んだまま、少し止まった。
これを撒いたら。
もう、修復に使える灰は残らない。
次に殻が欠けても、しばらくは元に戻せない。
それでも。
迷ったのは、一瞬だけだった。
弾いた。
残りの灰を、丁寧に配った。
五つの道、それぞれに一粒ずつ。
自分の匂いを、五つに薄めて撒くようなものだった。
白い個体が、動きを止めた。
円の目が、五方向を順番に舐める。
どれも、同じ強さ。
どれも、本物に見える。
『よくやった、灰の子』
黒竜が、低く言った。
『竜も、囮で群れを散らすことはあった。だが、自分の匂いを分けて使う知恵はなかった』
褒められている、のか。
よく分からない。
でも、悪い気はしなかった。
やがて。
個体は、囮の獣がいた道ではなく、一番遠い道へ体を向けた。
滑るように、そちらへ進み始める。
囮の獣が、袋を背負ったまま、反対方向へ走り去るのが見えた。
助かった。
少なくとも、今は。
「行きましょう」
アリアが、右から二番目の道を示す。
三つ結びの目印を辿って、一行は進んだ。
黒竜が、また頭上へ上がる。
半刻ほど歩いた頃。
『止まれ』
黒竜の声が、頭上から落ちてきた。
『匂いが変わった』
全員が足を止める。
『あの先で、風が違う場所へ抜けている。奴らの目が届かぬ境目だ』
「探知圏の境、ということですか」
ミミルが、感応針を掲げた。
針が、初めて。
ふらりと、力なく傾いだ。
どちらも指さない。
しばらく前まで確かにあった、あの北西への引きが。
消えている。
「……ここから先は、届いていません」
ミミルの声に、初めて安堵が滲んだ。
アリアが、木の幹に手をついた。
目を閉じる。
「長老たちの気配が、ここでは分かりません。でも、それは……悪いことではないはずです」
感じ取れないということは。
探知される側でもない、ということだ。
村人たちは。
逃げ切った。
少なくとも、この境目までは。
アリアが、境目の向こうへ向けて、小さく頭を下げた。
誰に、というわけでもなく。
ただ、そうせずにはいられないようだった。
「長老たちに会えたら、伝えたいことが増えました」
アリアが、涙をこらえるように笑った。
「道を教えてくれてありがとう、と。それから、目印の外にも、助けてくれた獣がいた、と」
ミミルが、帳面に何かを書きつけた。
字は見えないけれど、震えていないのは分かった。
「これで、記録できます。根守り村は、探知圏の外まで避難した、と」
レオンが、鞘の曲がった剣を仕舞い直した。
「なら、今日はここまでにしないか」
その声に、初めて軽さが混じっていた。
角兎が、俺の周りを一周した。
尻尾が、いつもより速く揺れている。
褒めているのか、安心しているのか。
どちらでもいいか、と思った。
「エッグ、灰は使い切ってしまいましたね」
ミミルが、俺の殻を覗き込む。
「今、欠けたら、しばらく戻せません。今日はもう、無茶をしないでください」
右へ揺れた。
今度は、素直に頷けた。
『あの獣も、村人も、ここまで来れば教会の目も届かぬ』
黒竜が、頭上を旋回しながら言う。
『安堵するのは早いが、休むには十分な理由だ』
俺のひびの奥が、久しぶりに静かだった。
熱もない。
命令もない。
ようやく。
そう思った、瞬間だった。
背後の茂みが、音もなく割れた。
白い個体が、そこに立っていた。
囮を追っていたはずの、あの個体。
円の目が。
俺たちが撒いた五つの灰を、一つずつ順に見せられたように。
その全部を素通りして。
まっすぐ。
俺だけを見た。
レオンが剣を抜く。
ミミルが俺の前へ出ようとする。
角兎が牙を剥いた。
黒竜の影が、頭上で急速に旋回を始める。
誰も、動けなかった。
まだ、距離がありすぎた。
白い個体の輪郭が、日の光を受けても影を作らない。
そこだけ、世界から切り取られたように白い。
円の目が、瞬きもせず俺を映している。
映っているのは、俺の形ではなく。
もっと違う何か、数字か記号のようなものに見えた。
白い個体の口があるべき場所が、裂けるように開いた。
「世界傷由来個体、回収優先」
平らな声だった。
殻の奥で響いていた、あの文字だけの声と、同じ響き。
でも、今度は。
誰の耳にも届いていた。
根守り村の避難は成功しました。でも、灰の囮に騙されなかった一体だけは、最初からエッグしか見ていなかったようです。
次はいよいよ、追われる側から追う側への切り替えです。