第五部 世界の傷編
第82話 / 全149話
灰の殻が欲しがるもの
朝。
焼け野原に。
霧が降りていた。
黒い地面。
崩れた結界の杭。
井戸の石組みだけが、昨日と同じ場所に残っている。
俺は。
その真ん中で転がっていた。
灰色の殻。
黒い鱗の模様。
頂点まで走る、赤黒いひび。
灰竜卵。
一晩たっても。
名前は変わっていない。
夢ではなかったらしい。
「おはようございます、エッグ」
ミミルが。
焚き火の向こうから歩いてきた。
目が赤い。
寝ていないな、これ。
「今日は、確認から始めます」
ミミルは帳面を開いた。
錬金術師の顔だ。
「新しい体で、できること。できなくなったこと。全部、一つずつ」
右へ揺れた。
ごとり。
……重い。
前より。
明らかに重い。
揺れるだけで。
地面が少しへこんだ。
「では、最初は炎です」
ミミルが。
焚き火から燃える枝を一本抜いた。
レオンが眉を寄せる。
「いきなり火か」
「昨日、あれだけの炎を浴びて平気だったんです。確かめないと、次に使えません」
枝の先が。
俺の殻へ近づく。
熱い。
と、思った。
思っただけだった。
火が。
殻の上を滑る。
焦げない。
熱くない。
むしろ。
ぬるい。
風呂か。
試しに。
焚き火の中へ転がってみた。
「エッグ!?」
薪が崩れる。
火の粉が舞う。
俺は。
炎の真ん中で。
普通に座っていた。
座るという表現が合っているかは知らん。
「……本当に、効いていませんね」
ミミルが帳面に書く。
炎の中に入っても、殻に変化なし。
レオンが額を押さえた。
「頼むから、先に合図をくれ」
左へ揺れた。
炎の中から。
「今のは『嫌だ』か」
右。
「……だろうな」
次。
ミミルが小刀を取り出す。
「少し、削らせてください。ほんの少しだけです」
削る。
その言葉に。
殻の奥が一瞬だけ固くなった。
けれど。
ミミルは「いいですか」と待っている。
右へ揺れた。
小刀の先が。
殻の縁をかすめる。
ぱらり。
欠けた端が。
灰になって落ちた。
落ちた灰は。
地面に届く前に。
赤黒い光を引いて戻ってくる。
欠けた場所へ吸いつく。
元の形。
「……戻りました」
ミミルの声が震えた。
喜んでいる、のだと思う。
たぶん。
その足元に。
灰にならなかった薄い殻が一枚、落ちていた。
自然に剥がれた欠片だ。
ミミルはそれを拾い上げた。
しばらく見つめる。
布で包む。
胸元の袋へ、そっとしまった。
何も言わなかった。
俺も。
聞かなかった。
次。
レオンが。
剣を鞘ごと構えた。
「軽く叩く。いいか」
右。
こつん。
殻の表面に。
黒い鱗の模様が浮かぶ。
衝撃が。
鱗の上で散った。
「もう少し強く」
ごん。
痛くない。
ひびも増えない。
レオンが。
自分の手首を振った。
「……俺の手のほうが痺れた」
勝った。
なんとなく。
最後。
「最後は、黒竜さんのような力です」
ミミルが帳面を見ながら言う。
「黒竜さんの言葉から推測すると、周りを威圧する力だと思います。ただ、どう出るのか分かりません。小さく、小さくお願いします」
小さく。
威圧を。
小さく。
どうやって。
とりあえず。
殻の奥へ力を入れてみた。
ぐっ。
瞬間。
森が黙った。
鳥が。
一斉に飛び立つ。
焚き火の火が。
横へ伏せる。
ゴブリンたちが。
全員、その場で気をつけの姿勢になった。
角兎が。
ミミルの足の後ろへ隠れた。
ミミルの膝が。
かくん、と折れかける。
解除。
解除だ。
どうやって。
とりあえず。
力を抜いた。
鳥の声が。
遠くで戻ってくる。
「……小さく、と言いました」
ミミルが。
木に手をついて言った。
左へ揺れた。
いや。
違う。
これは『嫌だ』じゃない。
『ごめん』の合図が。
ない。
作っていない。
俺は。
もう一度だけ、小さく左へ揺れた。
ミミルは少し考えて。
笑った。
「今のは、『ごめんなさい』にしておきます」
帳面に。
新しい合図が一つ増えた。
黒竜は。
焼け跡の端で、それを黙って見ていた。
できるようになったこと。
四つ。
次は。
できなくなったこと。
俺は。
自分のステータスを開いた。
通常スキルの欄。
《魔力腕》。
《火炎無効》。
《灰再生》。
《竜威圧》。
《竜鱗殻》。
それだけだ。
《微振動》が。
ない。
試しに。
殻を細かく震わせようとした。
ごとり。
転がっただけだった。
《殻籠り》も、ない。
殻の奥へ閉じこもる感覚が。
どこにも見つからない。
昨日。
仲間を炎の外へ押し出した光の壁。
《聖結界》。
それも。
ない。
灰になったのは。
殻だけじゃなかった。
ミミルが。
俺の前にしゃがんだ。
「エッグ。昨日より前のこと、確かめてもいいですか」
右。
「私の名前は、分かりますか」
右。
「レオンさんは」
右。
「角兎さんと、最初に会った森は」
右。
「工房で、あなたが最初に眠った木箱は」
……。
木箱。
工房。
柔らかい布。
分からない。
あったはずだ。
たぶん。
何度も見たはずだ。
でも。
その景色の場所だけが。
灰色に抜けている。
俺は。
ゆっくり左へ揺れた。
ミミルは。
帳面に何かを書いた。
手が止まる。
それでも。
最後まで書いた。
「大丈夫です」
ミミルは言った。
「分からなくなったことは、書いておきます。また一緒に見に行けばいいんです」
書いておく。
それは。
俺にはできないことだ。
だから。
ミミルがやってくれる。
右へ揺れた。
昼前。
一行は。
根守り村の退避路へ入った。
村のエルフたちは。
黒い炎が上がる前に、南東の林を抜けて退避している。
空白地帯とは、逆の方角へ。
途中の木々には。
細い根を結んだ目印が残っていた。
「三つ結びは、安全な道。二つ結びは、行き止まり」
アリアが。
目印に指を添えて言う。
「長老が、出発前に教えてくださいました。私たちが追ってくることも、見越していたのでしょう」
先頭はレオン。
その後ろにミミルとアリア。
ゴブリンたちが荷を担ぎ。
角兎が俺の横を跳ねる。
黒竜は。
人の姿を取るでもなく。
少し離れた上空を。
音もなく飛んでいた。
でかい影が。
ときどき頭上を横切る。
目立つ。
隠れる気があるのか。
あいつ。
しばらく進んだ時だった。
茂みが揺れた。
角のある鹿が。
一頭、道へ出てきた。
ただの獣だ。
こちらを見て。
耳を立てて。
逃げようとしている。
それだけの。
獣。
なのに。
ひびの奥が。
熱くなった。
――殺せ。
え。
――喰らえ。
声じゃない。
言葉でもない。
なのに。
はっきり分かる。
あれは。
力だ。
血。
肉。
生命。
取り込めば。
殻が厚くなる。
ひびの奥から。
赤黒い腕が伸びた。
一本。
二本。
俺は。
伸ばしていない。
「エッグ!」
レオンが。
鹿と俺の間へ飛び込んだ。
腕が。
レオンの剣の鞘を掴む。
握る。
鞘が。
みしり、と鳴った。
違う。
違う違う違う。
離せ。
離れろ。
腕が。
言うことを聞かない。
鹿が。
跳ねて森へ消えた。
その瞬間。
腕が。
ほどけた。
俺は。
転がった。
後ろへ。
ミミルたちから。
離れる方向へ。
止まらなかった。
木の根にぶつかって。
ようやく止まった。
怖い。
今の。
昨日の俺と同じだ。
灰から戻った直後。
ミミルへ腕を伸ばした、あの時と。
あれで終わったと思っていた。
選んだから。
もう大丈夫だと。
でも。
飢えは消えないと。
俺自身が知っていたはずだ。
獣を見ただけで。
あれだ。
なら。
人間を見たら。
ミミルを見たら。
俺は。
あの黒竜と。
同じものになったのか。
強いものを喰らう。
弱いものも喰らう。
そういう。
怪物に。
頭上の影が。
降りてきた。
黒竜が。
焼けていない土の上へ、静かに着地する。
『恐れるな、灰の子』
重い声。
『それは竜の本能だ』
本能。
『強き竜ほど、飢えも強い。我もそうだった』
黒竜の瞳が。
俺を見下ろす。
『恥じる必要はない。御せ。それだけだ』
御せ。
簡単に言うな。
今。
勝手に腕が出たんだぞ。
「……本当に、それだけでしょうか」
ミミルの声だった。
ミミルは。
胸元から、細い針を取り出していた。
教会の回収所から持ち帰った。
あの感応針の欠片だ。
布の上に置かれた針が。
ぴくり、と動いた。
「さっき、鹿が出た時。この針も、同じ瞬間に動きました」
ミミルは。
針の先を指さす。
針は。
鹿が消えた森ではなく。
俺たちの背後を指していた。
北西。
根守り村の、さらに先。
地図の空白。
あの施設の方角だ。
「エッグの熱が強くなった時だけ、針がこちらへ引かれます。竜の本能なら、方角は関係ないはずです」
アリアが。
針をのぞき込んだ。
「……施設の方へ、向き直るたびに強くなっている、ということですか」
「まだ、分かりません。でも、偶然にしては揃いすぎています」
黒竜は。
何も言わなかった。
ただ。
北西を見た。
瞳が。
ほんのわずかに細くなる。
否定しない。
肯定もしない。
その沈黙のほうが。
よほど怖かった。
ミミルが。
俺のほうへ歩いてくる。
来るな。
左へ揺れた。
また腕が出たら。
「エッグ」
ミミルは。
止まらなかった。
ただ。
一歩ごとに。
「いいですか」と待った。
俺が揺れる前に。
次の一歩を出さない。
それが。
三回。
四回目で。
俺は。
右へ揺れていた。
ミミルの手が。
灰色の殻に触れた。
冷たい手。
いや。
俺が。
熱すぎるのか。
「あなたは、鹿を追いかけませんでした」
ミミルが言った。
「腕は伸びました。でも、あなたは後ろへ転がりました。私たちから離れる方へ。それは、あなたが選んだことです」
殻の奥の熱が。
すう、と。
引いていく。
消えたわけじゃない。
まだ。
底のほうで燻っている。
でも。
声が遠くなった。
「離れないでください」
ミミルの指が。
ひびの縁をなぞる。
「離れたら、止める人がいなくなります。熱くなったら、また呼びます。何度でも」
角兎が。
俺の殻へ鼻先を押しつけた。
ゴブリンたちも。
少し離れた場所で、槍を下ろして待っている。
レオンは。
みしりと曲がった鞘を見て。
「修理代は、あとで考える」
とだけ言った。
離れれば。
安全だと思った。
でも。
離れたら。
誰も呼んでくれない。
呼ばれなかったら。
たぶん。
俺は戻れない。
昨日。
戻ってこられたのは。
呼ばれたからだ。
俺は。
右へ揺れた。
一緒に行く。
それから。
ミミルのほうへ。
一回だけ転がった。
距離を。
詰めた。
「はい」
ミミルが笑った。
目は。
まだ赤かった。
再び。
退避路を進む。
三つ結びの目印。
また三つ結び。
一行は。
小川を越え。
倒木の下をくぐった。
その先で。
道が二つに分かれていた。
右の木には、三つ結び。
左の木には、何もない。
「右ですね」
アリアが言った。
その時。
角兎が。
左の道の土を、前脚で掘り始めた。
「どうした」
レオンが屈む。
土の下から。
白い線が覗いていた。
細い。
まっすぐな線。
木の根ではない。
石でもない。
レオンが。
指で土を払う。
線は。
円を描いていた。
円の内側に。
目のような模様が一つ。
「……エルフの目印ではありません」
アリアの声が。
低くなる。
「こんな刻み方、長老たちはしません」
ミミルが。
感応針を近づけた。
針が。
跳ねた。
布の上で。
刻印のほうへ、ぴたりと向く。
「探知の刻印です」
ミミルが言った。
「誰かが、人の手で、ここに埋めたんです。退避路の上に」
退避路。
エルフたちが通った道。
その上に。
誰かが。
目を置いていった。
白い円が。
とくん、と脈打った。
同時に。
俺の殻の奥で。
燻っていた熱が、跳ね上がった。
とくん。
また。
刻印が脈打つ。
俺のひびが。
同じ拍で、赤く光る。
ミミルの手が。
すぐに殻へ触れた。
「エッグ」
呼ばれている。
聞こえている。
なのに。
刻印が脈打つたび。
殻の奥で。
熱とは別の何かが。
文字になって浮かんだ。
――敵性対象を、破壊せよ。
俺の声じゃない。
竜の声でもない。
冷たくて。
平らで。
どこかで聞いたことのある。
あの。
文字だけの声だった。
灰竜卵、できることは増えましたが、できなくなったことも増えました。
第5部「世界の傷編」開幕です。エッグの中の「飢え」は、本当にエッグのものなのか。