トップ / 目次 / 第三部 追跡者と魔物の森編
第58話 / 全149話
森で続ける錬金試験
武装ゴブリンは。
まだ、森へ逃げ切っていなかった。
泥に足を取られ。
倒れたまま。
こちらを振り返る。
腰の縄には。
小さな檻。
捕まえた魔物を縛るための輪。
それから。
黒い石。
探知石だ。
ミミルが。
新しい薬瓶を向ける。
「次は、目では済みません」
強い薬ではない。
たぶん。
さっき投げたものと同じ。
目と鼻に染みるだけの薬だ。
でも。
あいつは知らない。
俺は。
残った魔力を。
ひびへ集めた。
青白い腕が伸びる。
細い。
震えている。
見た目ほど強くない。
それでも。
鉄輪付きの棍棒を受け止めた腕だ。
武装ゴブリンの顔が。
引きつった。
「覚えてろ!」
立ち上がる。
腰の縄を押さえ。
森へ走った。
その拍子に。
黒い石が縄から外れた。
泥へ落ちる。
武装ゴブリンは。
拾わなかった。
いや。
拾えなかった。
俺の魔力の腕が。
石とあいつの間へ伸びたからだ。
攻撃するつもりはない。
その力もない。
だが。
武装ゴブリンはさらに顔を青くした。
逃げた。
枝を折り。
泥を跳ね上げ。
今度こそ森の奥へ消えた。
追わない。
追えない。
魔力の腕が。
青白い粒になった。
ひびへ戻る。
その瞬間。
殻の内側で。
じゅっ、と音がした。
熱い。
いや。
痛い。
腐毒が。
新しい亀裂へ染み込んでいる。
終わった。
敵を追い払った直後に。
自分の毒で溶ける。
格好がつかないにも。
ほどがある。
「エッグ!」
ミミルが駆け寄る。
俺を抱え上げる前に。
手を止めた。
正しい。
今の俺は。
ひびから腐毒が漏れている。
素手で触れれば。
ミミルまで危ない。
「布を。厚いものをください」
小さなゴブリンたちが。
一斉に動いた。
ぼろ布。
乾いた苔。
木の皮。
持てるものを。
次々に運んでくる。
スライムも来た。
半透明の体から。
粘液を少しだけ落とす。
角のある兎は。
地下蔵の隅へ走り。
茶色い塊をくわえて戻った。
「樹脂……?」
ミミルが受け取る。
鼻へ近づけ。
指先で表面を押した。
「柔らかい。まだ乾いていません」
薬草を抱えた小鳥も。
ゆりかごの縁へ降りた。
皆。
俺を見ている。
ありがたい。
ありがたいが。
素材の集まり方が。
完全に錬金術の作業台だ。
俺は。
今から調合される側だけど。
ミミルは補修布を広げた。
薬瓶の中身を垂らす。
布が。
黒く変わった。
腐毒が触れたところから。
繊維が崩れる。
「やはり、これでは駄目です」
街で使っていた保護材だ。
刺激は抑えてある。
殻の外側は守れる。
だが。
俺の内側から染み出す腐毒には。
耐えられない。
硬く固めても。
下から溶かされる。
塞げば。
腐毒が殻の内側にたまる。
どちらにしても。
まずい。
ミミルが荷袋を探る。
取り出したのは。
数枚の紙だった。
記憶殻についての記録。
逃げるときに持ち出したものだ。
だが。
今必要な配合記録はない。
原本は。
街の工房へ置いてきた。
「樹脂の比率は……」
ミミルの指が止まる。
高価な中和薬もない。
精密な加熱炉も。
濾過器もない。
あるのは。
崩れかけた地下蔵。
欠けた鍋。
森で集めた素材。
それと。
ミミルの記憶だ。
「できます」
ミミルが言った。
自分へ言い聞かせる声ではない。
俺を見て。
はっきり言った。
「街で一度、失敗しています。ですから、同じ失敗はしません」
樹脂を鍋へ入れる。
スライムの粘液を。
一滴ずつ加える。
小鳥が運んだ薬草は。
葉脈を避け。
柔らかい部分だけを刻む。
「硬さを出す必要はありません」
木の棒で混ぜながら。
ミミルが呟く。
「殻を固めようとしたから、内側から剥がれた。腐毒を止めようとしたから、逃げ場がなくなった」
鍋の中で。
樹脂と粘液が分かれた。
失敗。
ミミルは捨てなかった。
上澄みを別の器へ移し。
薬草を追加する。
もう一度。
混ぜる。
今度は。
泡が大きすぎた。
これも駄目だ。
俺の殻から。
細い音がする。
ぴし。
急かさないでほしい。
こっちも。
好きで割れているわけではない。
「分かっています」
ミミルが。
俺の揺れを見て答えた。
「もう少しだけ、待ってください」
俺。
今、揺れたか?
動けないはずなのに。
ひびの奥で。
魔力がかすかに波打っていた。
角のある兎が。
足を一度鳴らす。
俺の魔力と。
同じ間隔で。
ミミルが。
その音へ顔を上げる。
だが。
すぐに鍋へ戻った。
「腐毒を止めるのではなく……受け取らせる」
薬草を。
さらに細かく潰す。
「樹脂で殻に留まり、粘液で変形する。薬草に毒を吸わせて、中で弱める」
固めない。
溜めない。
吸わせる。
ミミルは。
黒くなった補修布を小さく切った。
染み込んだ腐毒ごと。
試作液へ触れさせる。
液の表面が泡立つ。
灰色に濁る。
失敗か。
そう思った。
だが。
泡は弾けなかった。
ゆっくり。
小さくなる。
灰色の濁りも。
底へ沈まず。
全体へ均一に広がった。
ミミルが。
細い木片で液をすくう。
曲げる。
伸ばす。
切れない。
「これなら」
俺へ塗る前に。
剥がれ落ちた殻片で試す。
殻片の割れ目へ。
薄く押し込む。
腐毒が触れた。
柔らかな層の色が。
透明から淡い紫へ変わる。
溶けない。
硬くもならない。
押せばへこみ。
離せば戻る。
「吸っています」
ミミルの声が。
わずかに弾んだ。
「腐毒を吸って、薬草の成分へ散らしている。完全には消せなくても、一か所にたまらない」
殻片の裏へ。
検査紙を当てる。
色は。
ほとんど変わらなかった。
無害化できている。
たぶん。
いや。
ミミルが三度確かめた。
間違いない。
「エッグ。今から、ひびの周囲へ塗ります」
俺は。
右へ震えた。
「染みたら左へ。痛みが強くなっても左です。すぐに剥がします」
もう一度。
右。
ミミルは。
俺の殻へ直接触れないよう。
細い木べらを使った。
冷たいものが。
ひびの周りへ広がる。
少し。
染みる。
だが。
痛みが。
引いていく。
内側で暴れていた腐毒が。
柔らかな層へ吸い込まれる。
息はしていないのに。
息が楽になった気がした。
ミミルが。
俺の反応を見ながら。
少しずつ塗り広げる。
「大丈夫ですか?」
右。
「痛みは増えていませんか?」
右。
いや。
この聞き方だと。
右でいいのか?
増えていない。
だから、はい。
合ってる。
たぶん。
質問は。
一つずつにしてほしい。
「よかった……」
ミミルの肩から。
力が抜けた。
小さなゴブリンが。
鍋を覗く。
「たまさま、なおる?」
「元通りにはなりません」
ミミルは。
ごまかさなかった。
「でも、これ以上崩れるのを抑えられます。動いても割れにくい、柔らかな補修です」
元通りではない。
ひびは残る。
それでいい。
ひびが消えなくても。
生きていられるなら。
ミミルは。
残った試作液を見た。
「殻の状態に合わせて、保護する役割を変える。毒が出るなら、吸って散らす。動くなら、一緒に曲がる」
樹脂。
粘液。
薬草。
全部。
ここにいる魔物たちが集めたものだ。
街の工房では。
作れなかった。
記録も。
高価な薬材もない森で。
完成した。
「卵殻錬金術」
ミミルが言った。
「そう呼びます」
俺のための。
錬金術。
ずいぶん。
そのままの名前だ。
でも。
分かりやすい。
悪くない。
俺は。
右へ震えた。
角のある兎が。
続けて足を鳴らす。
小さなゴブリンたちも。
意味は分からないまま。
右へ体を傾けた。
スライムまで。
右へ流れた。
お前たち。
それは。
たぶん違う。
ミミルが笑った。
久しぶりに見た。
気がする。
「まだ終わりではありません」
ミミルは。
荷袋から五本の小瓶を取り出した。
五号薬。
街で。
試験を終えられなかった薬だ。
「今の配合が偶然ではないか、確かめます。それから……前から気になっていた反応も」
同じ量の薬液を。
五本へ分ける。
同じ薬草粉。
同じ水。
同じ回数だけ振る。
一本目は。
俺のすぐそば。
二本目は。
ゆりかごの端。
三本目は。
地下蔵の入口。
四本目は。
階段の上。
五本目は。
外の崩れた壁際へ運ばれた。
距離を変えた。
同席試験だ。
「触れなくても、エッグの近くでは薬の泡が細かくなることがありました」
ミミルが記録紙へ線を引く。
「濁りも、沈殿せずに整うことがあった。けれど、街では人の出入りが多すぎて、距離を揃えられませんでした」
俺は。
五本の瓶を見る。
薬へ何かした覚えはない。
そもそも。
触れていない。
俺。
無実。
「何もしなくて大丈夫です。普段どおりにしてください」
普段どおり。
転がるな。
魔力を使うな。
殻を割るな。
かなり難しい注文だ。
ミミルが。
一本ずつ観察する。
すぐそばの瓶。
大きかった泡が。
細かく揃っていく。
灰色の濁りも。
筋を作らず。
全体へ薄く広がった。
ゆりかごの端も。
同じだ。
地下蔵の入口。
少し遅い。
それでも。
泡は揃った。
濁りも安定している。
階段の上。
泡の大きさが。
ばらばらのまま残った。
濁りは底へ沈み始める。
外の壁際も。
同じ。
「境目があります」
ミミルは。
階段の上の瓶を一段ずつ下げた。
一段。
変化なし。
もう一段。
濁りが。
わずかに揺れた。
さらに一段。
大きな泡の端が崩れる。
もう一段。
一斉に。
泡が細かくなった。
ミミルが。
その場所へ炭で印をつける。
今度は。
瓶を横へ動かした。
右。
左。
壁際。
地下蔵の中央。
同じ距離なら。
反応も同じだった。
俺を中心に。
見えない円がある。
その内側では。
五号薬の泡と濁りが整う。
外へ出ると。
整わない。
「もう一つ、確かめます」
ミミルが。
角のある兎へ手を向けた。
「エッグの波が分かる場所まで、離れてもらえますか?」
兎は。
俺を見る。
足を鳴らす。
とん。
ひびの奥が。
同じ間隔で応えた。
兎が階段を上がる。
一段ごとに。
足を鳴らす。
俺も。
魔力を返す。
返せている。
炭の印へ近づく。
兎が。
もう一度鳴らした。
分かる。
次の一段へ上がる。
足音。
聞こえる。
だが。
魔力の波が。
届かない。
兎も。
首を傾げた。
一段下りる。
足を鳴らす。
ひびの奥が。
応える。
ミミルは。
炭の印と。
兎の足元を見比べた。
同じ場所だ。
五号薬が整い始める境目。
俺と兎が。
魔力の波を送り合える境目。
「一致しています」
ミミルが。
記録紙へ書き込む。
「五号薬へ影響している範囲と、エッグの魔力が共鳴する範囲が同じです」
偶然ではない。
俺の近くに置かれたから。
何となく薬が整ったわけでもない。
俺の魔力の波が届く範囲で。
泡と濁りが整っている。
殻片も。
直接の接触もいらない。
ミミルが。
新しい補修材の小瓶を。
炭の印の内側へ置く。
柔らかな紫色は。
分離しなかった。
外側へ置く。
少しずつ。
樹脂が浮き始める。
再び内側へ戻す。
浮いた樹脂が。
時間をかけて混ざっていく。
「この補修材も、五号薬と同じです。エッグの近くなら安定する。でも、離れた場所で使うには調整が必要です」
完成した。
だが。
万能ではない。
俺のそばでしか。
今の安定性を保てない。
それでも。
距離が分かった。
理由も。
一つ見えた。
街で起きていたことを。
森で確かめられた。
ミミルは。
記録紙の端へ。
大きく円を描いた。
中心に。
卵の形。
その周囲に。
五本の小瓶。
「これで、試験は完了です」
その言葉を聞いた途端。
全身から。
力が抜けた。
もともと。
ほとんど残っていないけど。
俺は。
ゆりかごの布へ沈む。
殻のひびには。
柔らかな補修層。
腐毒の熱は。
もうない。
小さなゴブリンが。
俺の横へ木の実を置いた。
スライムが。
ゆりかごの下へ入り。
傾きを直す。
小鳥が。
残った薬草を揃える。
角のある兎が。
俺の届く範囲で。
足を一度鳴らした。
とん。
ひびの奥で。
小さく返す。
ここまで。
ここなら。
届く。
ミミルが。
泥の中へ落ちた黒い石を。
布越しに拾い上げた。
探知石は。
まだ冷たい。
光ってもいない。
だが。
表面には。
見覚えのある細い線が刻まれていた。
俺を捕らえた道具と。
よく似た線。
「持って帰っただけのゴブリンが、これを使えるとは思えません」
ミミルが。
石を何重にも布で包む。
武装ゴブリンは逃げた。
俺の殻も。
今は崩れない。
試験も終わった。
なのに。
森の遠くで。
白い面をつけた者たちが。
濡れた枝を避けながら進んでいた。
手の中の探知具には。
消えかけた光。
その光が。
一度だけ。
廃村の方角へ揺れた。
森の素材と集落の協力によって、街で未完だった試験が形になりました。
エッグの魔力が薬へ及ぼす影響も、ようやく距離を含めて観測されています。