トップ / 目次 / 第三部 追跡者と魔物の森編
第59話 / 全149話
殻魔獣
探知石は。
布を重ねても。
冷たいままだった。
なのに。
殻の奥が。
じくりと痛む。
腐毒の熱とは違う。
もっと深い場所。
俺を。
俺だと示している何かが。
あの石へ引かれている。
「エッグ?」
ミミルが。
俺の殻へ手を添えた。
小さく。
右へ揺れる。
大丈夫。
そう答えた直後。
視界の端に。
文字が浮かんだ。
来た。
進化。
待っていた。
はずだった。
今より強くなれる。
ミミルを守れる。
けれど。
周囲を汚染します。
やめろ。
俺一人で死ぬなら。
まだいい。
よくないけど。
まだ、俺の問題だ。
ここには。
傷ついた小さなゴブリンがいる。
スライムがいる。
小鳥がいる。
角のある兎がいる。
腐毒を撒けば。
全員が巻き込まれる。
俺は。
左へ揺れた。
「嫌、ですか?」
違う。
もう一度。
左。
それから。
周りの魔物たちへ向けて。
細かく震える。
ミミルは。
俺と。
住民たちを見回した。
「ここで進化すると、危ないのですね」
右。
「エッグの中に残っている毒が、出てくる?」
右。
ミミルの視線が。
石造りの中和槽へ向いた。
毒吸い草。
保水苔。
スライムの粘液。
水。
俺の腐毒を受け止めるために。
作った槽。
「中和槽で受ければ、進化できますか?」
分からない。
文字は。
答えてくれない。
排出された腐毒を。
あれが全部受け止められるかどうか。
俺は。
左右へ小さく揺れた。
「試してみなければ分からない」
右。
ミミルは。
中和槽の縁へ手を置いた。
水の深さを測る。
毒吸い草を持ち上げる。
槽の底へ沈んだ苔を確かめる。
「量が足りません」
やっぱり。
「でも、増やせます」
ミミルが立ち上がった。
小さなゴブリンへ。
毒吸い草を示す。
「これと同じ草を。触るときは、この布を使ってください」
ゴブリンは。
布を受け取った。
小鳥には。
乾いた苔。
「同じものを、屋根や井戸の近くから集めてください」
小鳥が飛ぶ。
スライムには。
空の木桶。
「水をお願いします。槽へ入る必要はありません」
スライムが。
ぺしゃりと潰れて。
木桶の下へ潜り込んだ。
角のある兎は。
何も言われる前に。
後ろ足で地面を叩いた。
とん。
森へ走る。
全員が。
動き始めた。
俺のために。
ここへ来たばかりの。
ひび割れた卵のために。
……断れない。
断りたくない。
俺も。
ここで変わりたい。
ミミルは。
中和槽の周りへ浅い溝を掘った。
あふれた水が家々へ流れないように。
溝の先へ。
さらに保水苔を敷く。
戻ってきた住民たちが。
集めた素材を置いていく。
毒吸い草。
保水苔。
水。
粘液。
槽の中身が。
元の倍近くまで増えた。
「エッグ」
ミミルが。
俺の前へ膝をつく。
「進化が始まったら、私は何をすればいいですか?」
分からない。
「触れていても大丈夫ですか?」
左。
殻の機能が止まる。
何が起きるか。
俺にも分からない。
ミミルの手まで。
腐毒に触れさせるわけにはいかない。
「分かりました。触れません」
ミミルは。
少しだけ唇を結んだ。
「でも、そばにはいます」
右へ揺れる。
それなら。
頼む。
俺は。
布を敷いた木板に載せられ。
中和槽の中央へ渡された。
下には。
濁った水。
周囲には。
集落の住民たち。
逃げられるように。
全員が槽から離れている。
ミミルだけが。
溝の外側に残った。
「始めてください」
視界に残る文字へ。
意識を向ける。
進化しますか?
右へ。
強く。
揺れた。
熱が。
消えた。
痛みも。
重さも。
何も感じない。
殻が。
俺のものではなくなったみたいだ。
揺れようとする。
動かない。
魔力を流そうとする。
流れない。
完全に。
無防備。
今。
武装ゴブリンが戻ってきたら。
今。
探知石を持つ誰かが来たら。
俺は。
転がることすらできない。
「エッグ」
ミミルの声が。
聞こえる。
「ここにいます」
その声だけを。
追う。
殻の内側で。
腐毒が動いた。
亀裂に染み込んでいた紫色が。
一か所へ集まる。
熱い。
殻の感覚はないのに。
中身だけが焼けている。
紫色の筋が。
ひびを逆向きに昇った。
一筋。
二筋。
三筋。
四筋。
殻の下側へ集まり。
別々の亀裂から。
外へ噴き出した。
しゅう。
中和槽の水が鳴る。
白い湯気。
紫の泡。
「毒が出ました!」
ミミルの声。
「槽の外へは出ていません!」
まだだ。
殻の奥には。
もっとある。
次の腐毒が。
四本の筋へ流れ込む。
しゅう。
水が盛り上がった。
毒吸い草が黒ずむ。
保水苔が紫色へ変わる。
小さなゴブリンが。
新しい草を槽へ投げ入れた。
小鳥たちが。
苔を溝へ落とす。
スライムが木桶を押し。
新しい水を流し込む。
角のある兎が。
後ろ足で木板を支えた。
板が。
腐毒の泡で滑っていた。
兎が離せば。
俺は槽へ落ちる。
それでも。
兎は逃げなかった。
四本の腐毒が。
さらに太くなる。
槽の縁から。
紫色の泡がこぼれた。
溝へ流れる。
苔が吸う。
止まらない。
「毒吸い草を、もう一束!」
ミミルが叫ぶ。
ゴブリンたちが運ぶ。
草が沈む。
黒くなる。
また運ぶ。
俺の中に。
これだけの毒があったのか。
腐毒を抑えた。
痛みが消えた。
それで。
なくなったつもりでいた。
全部。
殻の奥に残っていた。
紫色の噴出が。
止まった。
終わった。
そう思った瞬間。
四本の亀裂から。
何かが逆流した。
毒ではない。
槽の中へ出したはずの。
腐毒の形だけが。
殻へ戻ってくる。
紫ではなく。
半透明の魔力として。
一つ目は。
右前。
二つ目は。
左前。
三つ目は。
右後ろ。
四つ目は。
左後ろ。
四本の亀裂から伸びた魔力が。
水面の上で曲がる。
先端が。
開く。
閉じる。
腕だ。
指のない。
太く短い腕。
腐毒を外へ流すためにできた。
四本の通り道。
その通り道へ。
組み替えられた魔力が満ちている。
だから。
四本。
偶然。
生えたわけではない。
俺の毒を。
四方へ逃がした跡が。
そのまま。
殻の外で動く腕になった。
成功。
はっきりと。
書いてある。
進化成功。
俺は。
《殻魔獣》になった。
殻の感覚が戻る。
補修層の柔らかさ。
木板の傾き。
湿った風。
そして。
四本の腕。
右前の腕へ。
力を入れる。
木板を叩いた。
ばきっ。
板が割れた。
……え。
俺は。
そのまま中和槽へ落ちた。
「エッグ!」
四本の腕を。
全部伸ばす。
右前が槽の縁。
左前が石壁。
右後ろが水の中。
左後ろが空振り。
体が斜めになる。
顔はないけど。
たぶん。
ひどい格好だ。
右後ろを水から抜く。
左後ろを槽の底へ突く。
二本で押す。
二本で引く。
殻が。
水面から持ち上がった。
自分の力で。
転がっていない。
持ち上がっている。
四本の腕が震えながら。
俺を槽の外へ運んだ。
一歩。
二歩。
三歩。
歩ける。
卵なのに。
歩ける。
……いや。
四本腕で地面を這っているだけだ。
でも。
歩行だ。
「止まれますか?」
ミミルに言われて。
止まろうとする。
右前が動く。
左後ろが滑る。
残り二本が。
なぜか地面を強く押した。
加速した。
「こちらです!」
ミミルが。
厚い苔の山を指す。
突っ込む。
ぼすん。
止まった。
苔まみれで。
止まった。
進化は。
成功した。
制御は。
終わっている。
その後。
俺は広場へ移された。
最初は。
一本ずつ。
右前を上げる。
下ろす。
左前を上げる。
下ろす。
右後ろ。
左後ろ。
一本なら。
動く。
二本になると。
怪しい。
四本同時だと。
俺自身がどこへ行くのか。
俺にも分からない。
「急がなくて大丈夫です」
ミミルが。
地面へ四つの丸を描いた。
「一本ずつ、印へ置きましょう」
右前。
左前。
右後ろ。
左後ろ。
置く。
持ち上げる。
前の二本を伸ばす。
後ろの二本で殻を押す。
進む。
今度は。
苔の山へ突っ込まなかった。
広場の端まで。
自分の腕で歩けた。
次は。
防御。
小さなゴブリンが。
布を丸めた球を投げる。
右前の腕を広げる。
魔力が。
薄い膜になる。
球が当たり。
地面へ落ちた。
もう一つ。
左前。
受け止める。
二つ同時。
左右の腕で。
殻の前を覆う。
受け止めた。
俺の殻には。
触れていない。
今までなら。
避けるか。
殻で耐えるしかなかった。
今は。
殻の外で防げる。
次は。
運搬。
中和を終えた槽から。
黒くなった毒吸い草を出す。
右前と左前で。
草を挟む。
後ろの二本で歩く。
重い。
形が崩れる。
それでも。
汚染された草を。
集落の外れに掘った穴まで運べた。
スライムの木桶も。
薬草の束も。
割れていない小瓶も。
持てる。
歩ける。
防げる。
運べる。
俺に。
腕がある。
四本も。
……人間だった頃より。
二本多い。
少しくらい。
一本分けてもいい。
いや。
分けられないけど。
最後に。
角のある兎が。
木の棒をくわえてきた。
武装ゴブリンが落とした棍棒より。
ずっと細い。
訓練用。
兎が。
棒を地面へ置く。
その横には。
古い切り株。
あれを。
叩けということらしい。
右前の腕で。
棒をつかむ。
持ち上げる。
切り株へ。
軽く。
振る。
つもりだった。
魔力腕が。
膨らんだ。
殻の奥で。
何かが跳ねる。
壊せ。
強く。
もっと。
切り株ではない。
その向こう。
逃げた武装ゴブリン。
俺を捕らえた者。
探知石を持たせた者。
追ってくる者。
全部。
壊せ。
四本の腕が。
一斉に伸びた。
一本が棒を振り下ろす。
切り株が割れた。
二本目が地面を抉る。
三本目が。
そばにあった石を砕く。
四本目が。
動けずにいる。
小さなゴブリンへ向いた。
違う。
そいつは敵じゃない。
止まれ。
腕は。
止まらない。
殻魔獣。
魔獣。
文字の意味が。
殻の内側で熱を持つ。
強くなった。
壊せる。
だから。
壊せ。
「エッグ」
ミミルの声。
腕が。
小さなゴブリンの頭上で止まる。
「こちらを向いてください」
目はない。
それでも。
声の方へ。
意識を向ける。
ミミルが。
右手を上げた。
「右です」
合図。
右は。
はい。
「止まれます」
右。
「その腕は、エッグの腕です」
右。
「壊すためだけのものではありません」
右。
「さっき、みんなを守りました」
右。
「薬草も運びました」
右。
「だから、戻ってきてください」
四本の腕から。
力が抜けた。
魔力が縮む。
小さなゴブリンへ向いていた腕を。
ゆっくり下ろす。
地面へ。
四本とも。
置く。
とん。
角のある兎が。
足を鳴らした。
ひびの奥で。
小さく返す。
俺は。
戻った。
小さなゴブリンは。
しばらく動かなかった。
やがて。
足元に落ちた木の実を拾い。
俺の前へ置いた。
逃げなかった。
怖かったはずなのに。
俺は。
四本の腕を縮めた。
殻へ触れないほど。
小さく。
「今日は、ここまでにしましょう」
ミミルが。
俺のそばへ座る。
「進化は成功しました」
その言葉に。
右へ揺れる。
「腕も四本、できました」
右。
「歩けました」
右。
「守れました」
右。
「運べました」
右。
「でも、攻撃するときは止まれなくなりました」
動けない。
右にも。
左にも。
事実だった。
ミミルは。
探知石を包んだ布を見た。
「強くなった力と、あの石が関係しているかもしれません。そうでなくても、慣れるまでは一人で攻撃しないでください」
右。
今度は。
迷わない。
四本の腕を。
一本ずつ地面へ置く。
右前。
左前。
右後ろ。
左後ろ。
立つ。
まだ。
少し震える。
それでも。
殻だけで。
地面に転がっていた俺が。
四本の腕で。
ミミルの隣に立っている。
強くなった。
間違いなく。
そして。
強くなった俺は。
前よりも。
俺自身を止める方法が必要になった。
森の向こうで。
枝を踏む音がした。
一度。
また一度。
角のある兎が。
耳を立てる。
俺も。
四本の腕を地面へ広げた。
今度は。
壊すためではない。
ミミルと。
集落を。
守るために。
殻魔獣への進化が成立し、腐毒の排出路から四本の魔力腕が形成されました。
便利な腕を得た一方、その力には新しい危うさも伴います。