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トップ / 目次 / 第三部 追跡者と魔物の森編

第61話 / 全149話

記憶はなくても

約3,264字

追跡は。

 終わった。

 少なくとも。

 今日は。

 白い面の男たちが消えた森を。

 角のある兎が見つめている。

 長い耳が。

 まだ立ったままだ。

 小さなゴブリンの手は。

 俺の腕に触れている。

 温かい。

 魔力の腕だから。

 本当は温度なんてない。

 それでも。

 温かい気がした。

「怪我をした方を確認します」

 ミミルが立ち上がった。

「エッグも、腕を使い続けました。休んでください」

 右。

 休む。

 休むが。

 集落を見る。

 杭くいを打ち込まれた地面。

 踏み荒らされた薬草。

 逃げる途中で倒れた木箱。

 屋根から落ちかけている。

 乾燥肉。

 四本の腕を伸ばした。

「エッグ」

 ミミルが振り返る。

「休むと言いましたよね」

 右。

「それは、乾燥肉を下ろしてから休む、という意味ですか」

 右。

 ミミルが。

 少しだけ頬を膨らませた。

 怒られた。

 だが。

 あれは落ちる。

 落ちたら。

 土まみれになる。

 小さなゴブリンたちの。

 大事な食料だ。

 一本目の腕で木箱を立てる。

 二本目で乾燥肉を押さえる。

 三本目で切れた縄を結ぶ。

 四本目は。

 小さなゴブリンが。

 まだ掴んでいた。

 動かせない。

 いや。

 動かさない。

 残り三本で十分だ。

 屋根の下から。

 別のゴブリンが顔を出した。

 俺を見る。

 腕を見る。

 結び直した縄を見る。

 そいつは。

 何も言わずに木箱を支えた。

 さらに。

 痩せたコボルトが来る。

 縄を引く。

 角のある兎も。

 意味があるのか分からないが。

 垂れた縄を咥えた。

 全員で。

 乾燥肉を元の位置へ戻す。

 できた。

「結局、休んでいません」

 ミミルが戻ってきた。

 右。

「そこで肯定しないでください」

 怒られた。

 今度は。

 本当に休む。

 俺は広場の端へ移動した。

 土の上へ。

 四本の腕を畳む。

 小さなゴブリンもついてきた。

 俺の横へ座る。

 木の実を。

 半分に割った。

 片方を自分の口へ。

 もう片方を俺の前へ置く。

 食べられない。

 今の俺に。

 口はない。

 だが。

 くれるらしい。

 一本の腕で。

 木の実を受け取った。

 小さなゴブリンが笑う。

 俺も。

 少し揺れた。

 これで。

 笑ったことになるだろうか。

 分からない。

 俺は。

 昔もこうしたのだろうか。

 誰かの食料を拾って。

 誰かの仕事を手伝って。

 分けてもらったものを。

 受け取ったのだろうか。

 記憶はない。

 前の俺なら。

 同じことをしたかもしれない。

 しなかったかもしれない。

 ミミルを守った。

 集落を守った。

 白い糸を焼いた。

 それは。

 俺が決めたことだったのか。

 それとも。

 消えた記憶に残された。

 形だけの癖なのか。

 分からない。

 四本の腕を見る。

 白い面の男たちを。

 追わなかった腕。

 木の実を。

 潰さなかった腕。

 小さな手に。

 掴まれている腕。

 これは。

 今の俺が動かした。

「エッグ」

 ミミルが。

 俺の隣へ座った。

 膝の上に。

 記録帳がある。

「少し、試したいことがあります」

 左。

 嫌ではない。

 だが。

 何をする。

「先に説明します」

 ミミルは。

 記録帳を開かなかった。

 俺を見ている。

「記憶殻のことです」

 胸の奥が。

 ないはずの胸が。

 少しだけ固くなった。

「私は、失った記憶を殻片へ残せないかと考えていました」

 知っている。

 正確には。

 その研究を始めたことだけは。

 聞いている。

 何を失ったかは。

 知らない。

「でも」

 ミミルの指が。

 記録帳の端を握った。

「以前のエッグを戻すことばかり考えるのは、今ここにいるエッグを、違うと言っているのと同じかもしれません」

 違う。

 俺は。

 少し強く右へ傾いた。

 ミミルが目を伏せる。

「違いますか」

 右。

「過去を戻してもいい、という意味ですか」

 止まる。

 それは。

 分からない。

 右にも。

 左にも傾かない。

「……そうですよね」

 ミミルは。

 俺の沈黙を待った。

「では、質問を変えます」

 記録帳を閉じる。

「今日のことを、今日のエッグのものとして残すのは、嫌ですか」

 今日。

 小さな手。

 木の実。

 三本の腕で結んだ縄。

 自分で。

 追わないと決めたこと。

 右。

「過去を入れるのではありません」

 ミミルの声が。

 少しだけ柔らかくなる。

「今できたものを、今のまま残します」

 右。

「ありがとうございます」

 ミミルは。

 ようやく記録帳を開いた。

 だが。

 俺の殻には触れない。

 削らない。

 剥はがさない。

 近くへ。

 小さな布を広げただけだ。

「自然に落ちた殻片だけを使います」

 右。

「今日はもう、無理に何かを起こしません」

 右。

「新しい合図を一つ、決めてもいいですか」

 右。

 ミミルは考えた。

 俺の殻へ。

 指を近づける。

 触れる前に。

 止めた。

「私が指で地面を二度叩きます」

 こつ。

 こつ。

「これは、今ここにいる、という合図です」

 今。

 ここ。

 過去ではない。

 失った誰かでもない。

 今日の俺。

 一本の腕を伸ばす。

 ミミルの指の横を。

 二度叩いた。

 こつ。

 こつ。

 ミミルが笑った。

「はい。今、ここにいます」

 その日の残りを。

 俺たちは集落の片づけに使った。

 倒れた籠を戻した。

 折れた柵を。

 腕で支えた。

 コボルトが縄を巻き。

 ゴブリンが枝を差し込む。

 俺が力を入れすぎそうになると。

 角のある兎が。

 前足で腕を叩く。

 強い。

 それは強い。

 少し弱める。

 兎が耳を倒す。

 たぶん。

 それでいいらしい。

 言葉はない。

 だが。

 伝わる。

 昼を過ぎた頃。

 集落の中央で。

 ミミルが薬草を煮始めた。

 怪我人へ塗る薬だ。

 小さなゴブリンたちは。

 離れた場所から鍋を見ている。

 湯気が気になるらしい。

 近づくなと。

 大人のゴブリンが何度も手を振る。

 そのうち一匹が。

 木の根に足を取られた。

 転ぶ。

 鍋へ。

 俺の腕が動いた。

 考えるより先に。

 一本が鍋を押さえる。

 一本が地面を支える。

 もう一本が。

 小さな身体を受け止めた。

 熱い薬が跳ねる。

 腕の表面で。

 じゅっ、と音がした。

 魔力が少し散る。

 だが。

 小さなゴブリンは。

 無事だ。

 俺の腕の中で。

 目を丸くしている。

 遅れて。

 大人たちが駆け寄ってきた。

 俺は。

 小さな身体を下ろす。

 ゴブリンは逃げなかった。

 俺の殻へ近づく。

 こつ。

 こつ。

 小さな指で。

 地面を二度叩いた。

 今。

 ここ。

 俺も。

 腕の先で二度返した。

 こつ。

 こつ。

 その瞬間。

 殻のひびから。

 薄い欠片が落ちた。

 小さい。

 爪の先ほどしかない。

 自然に剥がれた殻片だった。

 布の上ではない。

 土へ落ちる前に。

 角のある兎が前足で止める。

「そのままです」

 ミミルが声を上げた。

「誰も触らないでください」

 ミミルは新しい布を出した。

 殻片を。

 土ごと掬すくい上げる。

 透かす。

 何も見えない。

 俺には。

 ただの薄い殻に見える。

 ミミルは。

 小瓶から透明な液を一滴落とした。

 殻片の表面を。

 淡い光が走る。

 線になる。

 曲がる。

 二つの小さな輪を作り。

 その先で。

 四本に分かれた。

 ミミルが息を止める。

 俺も。

 動かなかった。

 光は弱い。

 すぐに消えそうだ。

 それでも。

 消えない。

「追跡の痕ではありません」

 ミミルが呟つぶやく。

「捕獲具の魔力とも違います」

 殻片の横で。

 ミミルが地面を二度叩く。

 こつ。

 こつ。

 光が。

 わずかに強くなった。

 小さなゴブリンが。

 もう一度叩く。

 こつ。

 こつ。

 四本に分かれた線が。

 一瞬だけ。

 腕の形に広がった。

 小さな身体を。

 囲うように。

「残っています」

 ミミルの声が震えた。

「合図だけではありません」

 俺を見る。

「そのとき、エッグが何をしようとしたのかも」

 鍋を押さえた。

 身体を受け止めた。

 壊さないように。

 落とさないように。

 守ろうとした。

 昔の俺が。

 どうしたかではない。

 今の俺が。

 守りたいと思った。

 殻片の光が。

 もう一度だけ脈打った。

 ミミルは。

 記録帳を開く。

 けれど。

 すぐには書かなかった。

「エッグ」

 こつ。

 こつ。

 右。

「これは、戻すためのものではありません」

 右。

「なくしたものの代わりにするためでもありません」

 右。

「今日のあなたを、明日のあなたへ渡すためのものです」

 俺は。

 殻片を見る。

 小さすぎる欠片。

 薄いひび。

 消えかけた光。

 これで全部を残せるとは。

 思えない。

 声も。

 景色も。

 木の実の味も。

 俺には分からない。

 それでも。

 守ろうとしたことは。

 残っている。

 記憶がなくても。

 俺が。

 ここで選んだことが。

 残っている。

 四本の腕を広げる。

 ゴブリンたちは。

 逃げなかった。

 コボルトが。

 修理用の縄を一本の腕へ掛ける。

 角のある兎は。

 別の腕へ背中を預けた。

 小さなゴブリンが。

 木の実を持ってくる。

 ミミルは。

 俺の隣で記録を書き始める。

 今。

 ここ。

 俺たちはいる。

 森の外で。

 白い面を失った者たちが。

 次に何をするのか。

 俺たちは。

 まだ知らない。

 追跡する道は焼けた。

 なら。

 向こうはもう。

 追う必要のないものを。

 こちらへ寄越す。

失った過去を取り戻すのではなく、今生まれた記憶を未来へ渡す実験が始まりました。

エッグ自身が選んだ「守りたい」という感情が、小さな殻片に残ります。