第68話 / 全149話
五号薬、百歩の壁
廃村へ着いたのは。
日が傾く前だった。
家は。
半分ほど潰れていた。
残りの半分も。
潰れかけていた。
屋根がある。
というレオンの説明は。
屋根だけがある。
という意味だったらしい。
「工房に使えそうですね」
ミミルは前向きだった。
強い。
俺なら。
廃墟に使えそうですね。
としか言えない。
言えないけど。
村の中央には。
石造りの井戸があった。
井戸枠には。
黒く焼けた筋が走っている。
雷の跡にも見える。
ひびにも見える。
金色ではない。
だが。
俺の殻のひびが。
かすかに熱を持った。
嫌な感じではない。
遠くで。
誰かに呼ばれたような。
そんな。
妙な熱だった。
「エッグ?」
ミミルが振り返った。
俺は。
右にも左にも揺れなかった。
今のは。
質問ではない。
「井戸には近づかないでください。水を調べるまでは、触れるのも禁止です」
それには。
右へ。
了解。
角兎も。
右へ跳ねた。
お前も返事をするのか。
俺たちは。
屋根だけは無事な家を選んだ。
床の土を払い。
崩れた机を起こし。
ミミルが。
臨時の工房を作った。
レオンは入口の前へ立ち。
聖剣を壁へ立てかけた。
剣が。
小さく鳴った。
俺の殻も。
かすかに光った。
「離しておいたほうがいいか」
「念のため、お願いします」
レオンが。
聖剣を布で包む。
音は止まった。
便利な剣だ。
だが。
測定中に勝手に歌う剣はいらない。
俺は。
作業台の横へ転がった。
ミミルが木箱から。
五号薬を取り出す。
淡い緑色の液体。
底に。
少しだけ白い濁りがある。
「まず、同じ日に作った五号薬を六本使います。薬液の量も、瓶も、栓も同じです」
ミミルが。
床へ印をつけていく。
作業台から。
三十歩。
六十歩。
九十歩。
百歩。
百二十歩。
最後の印は。
家の外だった。
俺は。
百二十歩の印まで転がろうとした。
「エッグはここです」
止められた。
なぜだ。
「距離を測る試験ですから」
右へ。
分かっている。
だから俺も行く。
「エッグがついてきたら、距離が変わりません」
なるほど。
俺は止まった。
危ないところだった。
百二十歩ずっと。
近距離試験をするところだった。
「回復力は、同じ深さの切れ目を入れた治療苔で比べます。刺激性は、弱い反応を示す青滴草で確認します」
木皿の上に。
薄い苔が並んだ。
それぞれの中央に。
細い切れ目がある。
痛そうだ。
苔だけど。
「最初は、エッグのそばです」
五号薬が。
一滴落ちた。
白い泡が広がる。
泡はすぐに細かくなり。
切れ目へ集まった。
苔の裂け目が。
ゆっくり閉じていく。
青滴草の葉も。
赤くならない。
「反応開始、四呼吸。閉合まで、二十七呼吸。刺激変色なし」
ミミルが記録する。
次は。
三十歩。
レオンが薬瓶と木皿を持ち。
印の場所へ移動した。
俺も転がる。
「エッグ」
ミミルに止められた。
そうだった。
俺は。
作業台の横へ戻った。
レオンが薬を落とす。
泡立ちは。
少し遅い。
「開始、六呼吸。閉合、三十四呼吸。刺激変色、わずか」
まだ。
効いている。
六十歩。
今度も。
レオンが運ぶ。
その後ろを。
角兎がついていった。
薬瓶を見ながら。
ぴょん。
ぴょん。
「角兎さんは、こちらへ」
ミミルが呼ぶ。
角兎は止まった。
瓶を見る。
ミミルを見る。
また瓶を見る。
そして。
瓶の横へ座った。
なぜだ。
「この匂いが好きなのでしょうか」
五号薬には。
森で採った甘葉草が入っている。
食べ物ではない。
たぶん。
レオンが薬を落とした。
角兎が。
皿へ鼻を近づける。
「待て」
レオンが皿を持ち上げた。
角兎も跳ねた。
皿が揺れた。
薬がこぼれた。
記録不能になった。
角兎は。
床に落ちた一滴を追った。
こいつ。
試験に参加する気がない。
味見する気しかない。
「別の皿でやり直します」
ミミルは怒らなかった。
強い。
角兎は。
小さなゴブリンに抱えられた。
前足が。
薬瓶へ向かって伸びている。
六十歩では。
泡は大きく。
少し不揃いになった。
「開始、九呼吸。閉合、四十五呼吸。刺激変色あり」
九十歩。
百歩。
百二十歩。
離れるたびに。
泡は粗くなった。
濁りも。
底へ沈んでいく。
百歩では。
従来の低刺激薬と。
ほとんど同じ。
百二十歩では。
「閉合、百三呼吸。刺激変色、強」
従来薬より。
悪かった。
ミミルの筆が止まる。
「百歩が境でしょうか」
「なら、エッグから百歩以内でしか使えない薬になる」
レオンが。
遠くから答えた。
百歩以内。
狭い。
薬を使う人間が。
毎回俺を連れて歩くことになる。
俺は薬箱ではない。
いや。
薬箱より不便だ。
転がるし。
勝手に止まるし。
木の根で跳ねる。
ミミルが。
記録を見直した。
「まだです。距離だけが原因とは限りません」
別の五号薬を取り出す。
「次は、エッグの位置を変えます」
俺は。
右へ揺れた。
それなら。
参加できる。
レオンが。
俺を見た。
「運ぶぞ」
左へ。
自分で行ける。
「歩数を固定する。転がると止める位置がずれる」
左へ。
「殻への負担も減る」
左へ。
「試験が早く終わる」
右へ。
仕方ない。
試験のためだ。
抱かれたいわけではない。
レオンが俺を持ち上げた。
硬い腕だった。
ミミルより。
ずっと揺れない。
三十歩。
下ろされる。
薬は。
俺のそばで細かな泡を作った。
六十歩。
また。
細かな泡。
九十歩でも。
同じだった。
「薬を置いた場所ではなく、エッグとの距離に反応しています」
俺が移動すれば。
薬の効き目も移動する。
どういう仕組みだ。
俺は。
別に応援していない。
頑張れ。
とも言っていない。
そもそも。
言えない。
「魔力でしょうか」
ミミルが。
荷物の奥から板を出した。
表面に。
薄い銀を張った板。
「魔力を遮るための板です。完全ではありませんが、弱い干渉なら減らせます」
俺と薬の間へ。
板が立てられた。
距離は三歩。
近い。
近いのに。
薬の泡は。
少し粗くなった。
「やはり魔力の影響はあります」
板を外す。
泡が整う。
もう一度。
板を挟む。
泡が乱れる。
魔力。
俺から漏れている何かが。
五号薬へ届いている。
だが。
ミミルは首を傾げた。
「遮蔽しても、百二十歩のときほど落ちません」
「板を回り込んでいるのではないか」
「それもあります。ですが、それだけなら、もう少し差が出るはずです」
ミミルが。
使い終えた薬瓶を光へ透かした。
瓶の内側に。
小さな白い点がついている。
粉。
ミミルの指が。
止まった。
「この瓶は、どこから出しましたか」
「最初の木箱だ」
「移送中、エッグの保護布と同じ箱に入れていたものです」
俺の。
保護布。
何度も包まれ。
何度も転がり出た布。
自然に剥がれた。
細かな殻の粉がついている。
ミミルが。
布を広げた。
布目の間に。
白い粉が残っている。
「削りません」
先に。
ミミルが言った。
俺は。
まだ何もしていない。
「これは、すでに自然に落ちていたものです。使ってもいいですか?」
俺は。
布を見る。
殻粉を見る。
ミミルを見る。
右へ。
それならいい。
ミミルは。
粉を直接つままなかった。
清潔な刷毛で。
ほんのわずかだけ集める。
それを。
新しい五号薬の栓の内側へつけた。
「薬液には混ぜないのか」
「まずは、触れない状態で試します。核になるなら、直接溶かす必要はないかもしれません」
薬瓶だけを。
百二十歩先へ運ぶ。
今度は。
角兎も行かなかった。
小さなゴブリンに。
まだ抱えられているからだ。
前足だけは。
ずっと動いていた。
レオンが。
百二十歩先で薬を落とす。
白い泡が。
すぐに細かくなった。
遠い。
俺はここにいる。
それでも。
近くで使ったときと同じように。
泡が切れ目へ集まっていく。
苔が閉じる。
「開始、五呼吸。閉合、三十呼吸。刺激変色なし」
ミミルの声が。
少しだけ震えた。
もう一本。
殻粉なし。
同じ百二十歩。
泡は粗い。
閉合は遅い。
葉は赤くなった。
「間違いありません」
ミミルが。
記録へ線を引く。
「エッグの魔力が届く範囲では、五号薬は安定する。百歩を越えると急激に効果が落ちる」
さらに。
殻粉をつけた栓と。
何もつけていない栓を並べた。
「ですが、自然に落ちた殻粉を核にすれば、離れても反応を保てます」
「粉を薬へ混ぜず、栓に固定するなら、使用量も抑えられるか」
「はい。交換もできます。粉が薬液へ流れ込まないよう、薄い膜で封じれば――」
ミミルの言葉が。
速くなる。
瓶の形。
栓の材質。
殻粉を置く場所。
俺には。
半分も分からない。
だが。
俺が。
薬と一緒に運ばれなくてもいい。
それは分かる。
必要なのは。
俺そのものではない。
自然に落ちた。
ほんの少しの殻粉だけ。
削られない。
箱に詰められない。
薬を使うたびに。
連れていかれない。
実にいい。
俺は。
右へ揺れた。
ミミルが。
記録から顔を上げる。
「この方法で、携帯用を作ってもいいですか?」
右へ。
いい。
「エッグの殻粉だと分からない形にします。記録にも、詳しい由来は残しません」
右へ。
それは。
もっといい。
レオンが戻ってきた。
百二十歩を。
何度も往復した顔をしている。
疲れていた。
「次は何を運ぶ」
「今日は終わりです」
「そうか」
明らかに。
安心していた。
勇者でも。
百二十歩を何度も歩けば疲れるらしい。
角兎が。
ようやく解放された。
真っ先に。
空の薬瓶へ走る。
鼻先で転がした。
瓶が。
俺のところまで来た。
俺は避けた。
瓶はそのまま進み。
遮蔽板へ当たった。
板が倒れる。
床が。
かすかに震えた。
その瞬間。
村の中央から。
ごぼり。
音がした。
井戸。
誰も。
触れていない。
水も。
汲んでいない。
なのに。
黒く焼けた井戸枠の筋が。
淡く光っていた。
俺の殻のひびと。
同じ形で。
五号薬の距離別試験でした。
角兎には実験の意義より、甘葉草の匂いのほうが重要だったようです。