第72話 / 全149話
聖女は檻を携えて
白い仮面。
帳簿の印を見た瞬間。
レオンの顔から。
音が消えた。
「知っているんですか」
ミミルが聞く。
「いや」
短い答え。
「教会で、この印を見たことはない」
なら。
知らない。
そう思った。
だが。
レオンの手は。
聖剣の柄を握っていた。
「見せる相手を選ぶ印だ」
なるほど。
知らないのではない。
知らされていなかった。
勇者にも。
回収所は。
古い水路の脇にあった。
石造りの小屋。
窓はない。
扉も。
取っ手がない。
あるのは。
壁に刻まれた三重の円。
帳簿と同じ印だった。
ミミルが。
黒い捕獲具から抜いた感応針を近づける。
針が震えた。
壁の円も。
震えた。
俺の殻も。
震えた。
いや。
俺まで開ける鍵にするな。
不本意だ。
とても。
不本意だ。
石壁の一部が沈む。
冷たい空気が。
地下から吹き上がった。
「記録が戻る場所……」
ミミルが。
暗い階段を見下ろす。
角兎が。
耳を立てた。
とん。
前足が地面を叩く。
下に。
何かいる。
俺にも分かった。
細い振動が。
階段の奥から上ってくる。
一つ。
二つ。
多い。
「下がれ」
レオンが。
俺たちの前へ出た。
聖剣を抜く。
白銀の刃に。
光のひびが走った。
俺の殻も光る。
やはり。
似ている。
嬉しくはない。
聖剣とお揃い。
聞こえはいい。
実際は。
教会に見つけてくださいと光る卵だ。
最悪だ。
階段の下から。
白い光が上った。
結界。
俺の周りに出るものより。
ずっと大きい。
ずっと整っている。
そして。
冷たい。
「剣を納めてください、レオン」
女の声だった。
白い靴が。
一段ずつ上がってくる。
白い法衣。
金糸の刺繍。
胸元には。
三重の円ではなく。
翼を広げた鳥の紋章。
長い金髪の女が。
光の中から現れた。
年は。
ミミルより少し上だろうか。
後ろには。
白い鎧の神官騎士。
四人。
その中央を。
空の檻が浮いていた。
銀の格子。
内側に重なる光の膜。
大きさは。
ちょうど。
俺が入るくらい。
分かりやすい。
とても。
分かりやすい。
「聖女アリア……」
レオンが名を呼んだ。
聖女。
聖なる女。
そして。
卵用の檻を持ってきた女。
俺の中では。
二つ目のほうが重要だった。
「お久しぶりです」
アリアは。
レオンへ頭を下げた。
それから。
ミミルの腕の中にいる俺を見る。
目が合った。
その瞳に。
嫌悪はなかった。
欲も。
たぶんない。
あったのは。
心配だった。
だからこそ。
余計に困る。
「その子が、聖痕を宿した卵ですね」
その子。
素材ではない。
対象番号でもない。
少しだけ。
警戒が緩みかける。
「教会の保護下へ移します」
戻った。
警戒。
全開。
「断ります」
ミミルが。
即答した。
俺を抱く腕が。
少し強くなる。
「エッグは物ではありません。移すなら、本人の意思を確かめてください」
アリアは。
驚いたように俺を見る。
「意思があることは、報告で承知しています」
「承知していて、檻へ入れるんですか」
「これは檻ではありません」
アリアが。
浮かぶ銀の格子へ手を添えた。
「聖別封護器です。外部からの呪詛、探知、魔力災害を遮断します。内側の聖痕が暴走した場合も、周囲を傷つけません」
長い。
つまり。
檻だ。
「本人が出たいときに出られますか」
ミミルが聞く。
「安全が確認されるまでは、できません」
やはり。
檻だった。
俺は。
ミミルの腕の中で右へ傾いた。
「嫌だそうです」
「恐怖から保護を拒む者は珍しくありません」
強い。
善意が。
強い。
俺の右が。
恐怖に変換された。
「本人が何を選んでも、あなたは保護するんですね」
「災厄から守ることが、教会の務めです」
災厄。
その言葉に。
地面の下の傷が光った。
俺の殻のひびも。
淡く。
同じ形に。
アリアの視線が。
ひびへ落ちる。
「やはり、急ぐ必要があります」
銀の檻が。
俺へ近づいた。
角兎が。
ミミルの前へ飛び出す。
小さな体。
短い角。
勝てる相手ではない。
それでも。
退かなかった。
俺も。
ミミルの腕から降りる。
「エッグ?」
地面へ落ちる。
転がる。
角兎の隣へ並ぶ。
逃げるためではない。
選ぶためだ。
俺は。
右へ。
ミミルの足へぶつかった。
次に。
角兎へ。
こつん。
最後に。
レオンの靴へ。
白銀の檻には。
行かない。
「答えは出ています」
レオンが言った。
聖剣の切っ先を下げる。
だが。
鞘には戻さない。
「彼は、我々と行く」
アリアの眉が。
わずかに寄った。
「あなたは、その判断を保証できる立場ではありません」
「勇者だからか」
「いいえ」
アリアは静かだった。
「あなたは、勇者の地位を自ら捨てました」
レオンの手首で。
追跡印が光る。
アリアは。
そこを見た。
「教会の命令を拒み、聖剣を持ったまま失踪した。現在のあなたは、証人ではなく当事者です」
「だから、俺の見たものは嘘になるのか」
「私情を除いた証言とは扱えません」
レオンが。
一歩出る。
神官騎士たちの槍が上がった。
空気が。
固くなる。
レオンは。
剣を振らなかった。
「廃村を見た」
声だけが。
低く落ちた。
「魔力嵐で滅びた村ではない。教会の術式で記録ごと消された集落だ」
アリアの目が止まる。
「何を言っているのです」
「白い仮面の神官が、そこにいた」
初めて。
アリアの静けさが崩れた。
ほんの少し。
「そのような派遣記録はありません」
「記録を消す者が、自分の派遣記録だけ残すと思うか」
「教会が集落を消したというのですか」
「ああ」
「根拠は」
「生き残った魔物たち。消された地図。聖剣を誤認させた術式。そして、この卵を殺して再生を観測した白面だ」
殺した。
その言葉で。
ミミルの指が震えた。
俺の殻に触れる。
俺は。
小さく振動を返す。
今は。
いる。
大丈夫ではない。
けれど。
ここにいる。
アリアは。
俺を見た。
次に。
地下へ続く階段。
三重の円。
帳簿。
感応針。
「その帳簿を渡してください」
レオンが笑った。
冷たい笑いだった。
「教会へ戻すためか」
「調査するためです」
「記録が戻る場所へ、証拠まで戻せと?」
「私を、白面の神官と同じだと言いたいのですか」
「知らなかったと言う者へ、すべてを預けられないと言っている」
アリアは。
答えなかった。
知らなかった。
それは。
嘘ではないのだと思う。
でも。
知らなかった者が。
俺を守れると。
どうして言える。
風が。
水路を抜けた。
銀の檻が。
静かに浮いている。
アリアが手を上げた。
神官騎士たちの槍が下がる。
「即時の封護は行いません」
ミミルが息を吐く。
レオンは。
まだ剣を下ろさない。
「ただし、自由を認めたわけではありません」
やはり。
そう来た。
「三日後、中立評議を開きます」
「評議?」
「教会のみで判断すれば、あなた方は従わないでしょう」
「当然です」
ミミルの答えが速い。
「ですから、教会、冒険者ギルド、領主家、森の諸種族。関係する者を集めます」
アリアの視線が。
俺へ戻る。
「そこで、この子の所有権と管理権を決めます」
俺は。
止まった。
所有権。
管理権。
本人の前で。
本人以外が。
決める。
話が。
最初から。
終わっている。
俺は地面を叩いた。
ごん。
一度。
ごん。
二度。
ひびから。
金色の光が漏れる。
「エッグは怒っています」
ミミルが言った。
「俺もだ」
レオンも言った。
角兎が。
地面を蹴った。
こいつも。
たぶん怒っている。
アリアは。
困ったように俺を見た。
「意思があることと、危険な力を自由にしてよいことは別です」
正しい。
たぶん。
正しい部分もある。
俺の力は。
仲間を巻き込む。
遠くの傷と繋がる。
死んでも。
別のものになって戻る。
俺だって。
自分が安全だとは思わない。
だが。
「危険だから奪うのなら」
ミミルが。
俺の前へ立った。
「それは保護ではありません」
「では、暴走したとき、あなたがすべての責任を負えますか」
「負うとは言いません」
ミミルは。
逃げなかった。
「一緒に止めます。一緒に方法を探します。エッグ一人へも、私一人へも押しつけません」
アリアが。
目を細める。
「それができなかったときは」
「できるまで考えます」
無茶だ。
とても。
ミミルらしい無茶だ。
俺は。
その靴へぶつかった。
右。
賛成。
「三日です」
アリアが告げる。
「その間、封護器は使いません。騎士による拘束も行いません。ただし、所在を隠さず、評議へ出席してください」
「監視は」
レオンが聞く。
「付けます」
「断る」
「では、封護器を」
「監視でいいです」
ミミルが答えた。
早い。
レオンがミミルを見る。
「檻よりはいいです」
それは。
そう。
とても。
そう。
決まった。
三日後。
俺を誰が持つのか。
俺を誰が閉じるのか。
俺を誰が使うのか。
それを。
俺以外が話し合う。
冗談ではない。
評議へ行く。
行って。
全部。
断る。
そう決めたとき。
水路の向こうから。
馬の音がした。
一台ではない。
先頭の馬車に。
冒険者ギルドの紋章。
その後ろには。
青い旗。
貴族家の紋章。
「早すぎる」
レオンが呟いた。
アリアも。
馬車を呼んだ顔ではなかった。
反対側の森が揺れる。
黒い外套の男が。
枝の上へ降りた。
額に。
二本の角。
「聖痕を魔族の血で育てたと聞いた」
男が笑う。
「ならば、教会だけのものではあるまい」
さらに。
水路の枯れた蔓が。
一斉に芽吹いた。
緑の葉の間から。
長い耳の女が現れる。
「森の傷に触れた卵を、人の法で量るな」
俺は。
右を見る。
馬車。
左を見る。
魔族。
後ろを見る。
エルフ。
前を見る。
聖女。
囲まれた。
完璧に。
囲まれた。
銀の檻へ入っていないのに。
もう。
檻の中だった。
保護のための檻と、危険でも選ぶ自由が正面からぶつかりました。
次回、エッグを巡る「親権」の席に、それぞれの正義が集まります。