第75話 / 全149話
卵の中の芽
明朝。
世界樹の樹液が来た。
葉で作られた小さな器。
その底に。
緑色の光が、一滴だけ浮いている。
少ない。
少ないけど。
近づいてくるだけで分かる。
俺の中の腐毒が。
ざわついている。
逃げたいのか。
食いたいのか。
どっちだ。
「最後に確認します」
ミミルが俺を見た。
「やめるなら、左です」
左。
逃げ道。
「受けるなら、右です」
右。
俺は。
止まった。
樹液を見る。
長老を見る。
ミミルを見る。
昨日と。
答えは変わらない。
右へ。
転がった。
「分かりました」
ミミルの指が。
殻を撫でる。
「一滴だけです。異常があれば、すぐに止めます」
「止められるとは限らぬ」
長老が言った。
「世界樹の命は、薬ではない」
「それでも、見ます」
ミミルは。
引かなかった。
「この子が選んだ結果を、最後まで」
その言葉で。
少しだけ。
ひびの震えが止まった。
俺は布の上へ寝かされた。
周りには。
ミミル。
長老。
アリア。
レオン。
槍の女。
弓の男。
それから。
少し離れた根の陰に。
角兎。
ホーンラビットがいる。
朝からずっと。
こっちを見ていた。
昨日の枯死域を越えてから。
妙に静かだ。
草も食わない。
角も擦らない。
俺の中身でも見えているみたいに。
じっと。
俺を見ている。
「始めます」
葉の器が傾いた。
緑の一滴が。
落ちる。
俺の殻。
赤いひびの上へ。
触れた。
冷たい。
違う。
熱い。
違う。
どっちでもある。
朝露が。
火になって。
ひびの中を走った。
来る。
何かが。
入ってくる。
腐毒が動いた。
黒い濁りが。
緑の光へ噛みつく。
神性も動いた。
金色の光が。
その間へ割り込む。
三つ。
ぶつかる。
やばい。
これは。
割れる。
「エッグ!」
ミミルの声。
殻の奥で。
音がした。
ぱき。
小さい。
ひびの音ではない。
もっと。
柔らかい音。
ぱき。
もう一度。
緑の光が。
殻の内側へ沈んだ。
腐毒も。
神性も。
一瞬だけ。
静かになる。
代わりに。
俺の中で。
何かが開いた。
細い。
柔らかい。
先端が二つに分かれた。
緑の。
芽。
……生えた。
いや。
待て。
どこに。
俺の中に。
芽が。
生えた。
「反応が変わりました」
ミミルが。
透視用の水晶板を殻へ当てる。
淡い光が俺を通り。
布の上へ影を映した。
丸い殻。
赤いひび。
金色のひび。
その奥。
小さな。
二枚の葉。
全員が黙った。
俺も黙った。
声は出ないけど。
「植物、なのですか」
アリアが聞く。
長老は答えない。
白い枝杖を。
芽の影へ向ける。
枝杖の先。
何も光らない。
「世界樹の若芽なら、杖が応える」
「応えていません」
「見れば分かる」
槍の女が。
俺へ一歩近づいた。
「魔物の寄生器官では」
今度はアリアが。
聖印をかざす。
白い光が。
殻を撫でる。
芽は。
何も変わらない。
「魔物の器官なら、神聖術に反発があります」
「では、何だ」
知らん。
一番知りたいのは。
俺だ。
卵の中に芽。
鳥でもない。
爬虫類でもない。
そもそも俺は。
何の卵なんだ。
「抜きますか」
弓の男が言った。
簡単に言うな。
俺の中だぞ。
「まだ触りません」
ミミルが即座に返す。
細い銀針を。
水晶板の脇へ置く。
針の先から。
薄い魔力の糸が伸びた。
殻のひびを通り。
芽へ近づく。
触れる寸前。
根が動いた。
芽の下。
見えていなかった細い根が。
一斉に広がる。
赤いひびへ。
金色のひびへ。
さらに。
殻の内側の。
薄い層へ。
絡みついていた。
「止めてください」
ミミルが言うより先に。
自分で針を引いた。
顔色が変わっている。
「どうした」
レオンが聞いた。
「この層は……」
ミミルが鞄を開く。
布に包まれた。
古い殻片。
自然に落ちた俺の殻。
記憶を残すため。
魔力紋を移した殻片。
記憶殻。
それが。
布の中で。
淡く光っていた。
芽の根と。
同じ間隔で。
脈打っている。
「記憶殻の魔力紋と、似た流れです」
ミミルの声が低くなる。
「芽の根が、エッグの経験を留めている層へ絡んでいます」
「抜けばどうなる」
「分かりません」
ミミルは。
記憶殻を両手で包んだ。
「根だけを切れる保証がありません。殻の内側を剥がせば、記憶殻へ移すはずだった魔力紋まで傷つきます」
記憶。
また。
それか。
死ななくても。
失うのか。
芽を一本。
抜くだけで。
「除去はしません」
ミミルが言った。
「正体が分かるまでは、このままにします」
「育てば殻を割るかもしれぬ」
長老が告げる。
「育てません」
「枯らせば毒へ変わるかもしれぬ」
「枯らしません」
「ならば、どうする」
ミミルは。
葉の器に残った。
樹液の痕を見る。
それから。
俺の補修材が入った瓶を出した。
「眠らせます」
薬草液。
樹脂。
俺の魔力紋を消さずに。
殻を守るための保護材。
そこへ。
長老から受け取った。
世界樹の落ち葉を。
ほんの少し。
削って入れる。
「成長させず、拒絶もさせない濃さを探します」
さすがに。
今からか。
俺の中に。
謎の芽がある状態で。
調合か。
いつも通りだ。
いや。
いつもより悪い。
ミミルが液を一滴。
殻の端へ置く。
芽は動かない。
二滴目。
葉が。
少し閉じた。
「反応があります」
三滴目。
根の脈が。
遅くなる。
腐毒も。
神性も。
芽を挟んだまま。
静まっていく。
効いてる。
たぶん。
今度こそ。
冷たい。
普通に冷たい。
眠気みたいなものが。
殻の奥へ広がる。
「これで固定します」
ミミルが。
保護液を赤いひびへ塗る。
薄い膜ができる。
芽の二枚葉が。
ゆっくり閉じた。
根の光も。
消えていく。
よし。
寝た。
謎の芽。
休眠。
解決はしてない。
何一つ。
解決はしてないが。
今すぐ殻を割って。
木になることはなさそうだ。
俺が。
安心した。
その時。
とくん。
音がした。
俺の中。
芽の奥。
とくん。
鼓動。
植物に。
心臓は。
ない。
とくん。
根の陰で。
角兎が立ち上がった。
耳が伸びる。
角が。
淡く光った。
とくん。
角兎の胸。
とくん。
俺の中の芽。
同じ。
速さ。
同じ。
間隔。
「離して!」
ミミルが叫ぶ。
弓の男が角兎へ手を伸ばす。
でも。
遅い。
光が。
俺と角兎の間を走った。
見えないはずのものが。
見えた。
草原。
知らない。
どこまでも続く。
青白い草。
風。
低い空。
遠くに。
巨大な木。
世界樹ではない。
もっと細い。
けれど。
空を支えるみたいに。
まっすぐ伸びている。
草の上に。
小さな影が並んでいた。
丸い影。
角のある影。
動かない影。
その間を。
白い光が歩いている。
人か。
違う。
顔がない。
手だけがある。
一つに触れる。
右へ。
一つに触れる。
左へ。
選んでいる。
残すもの。
捨てるもの。
何を。
誰が。
俺は。
どっちだ。
光の手が。
近づく。
俺へ。
違う。
角兎へ。
違う。
どちらでもある。
触れられる。
冷たい。
古い。
ずっと前に。
同じことが。
『――これは』
声。
『芽を持たない』
やめろ。
『これは、殻を――』
とくん。
景色が割れた。
草原が消える。
白い手も。
声も。
残ったのは。
布の上の俺。
根の陰の角兎。
荒い息をするミミル。
抜かれた聖剣。
光を失った角。
俺は。
動けなかった。
今のは。
何だ。
俺の記憶か。
角兎の記憶か。
芽の記憶か。
「エッグ」
ミミルの手が。
殻へ触れる。
「聞こえますか」
右。
動こうとした。
少ししか。
転がれない。
「私が分かりますか」
右。
「レオンは」
右。
「ホーンラビットは」
俺は。
根の陰を見る。
角兎も。
こっちを見ている。
その目が。
怯えていた。
俺を見て。
違う。
さっきの光景を。
同じものを。
見た目だ。
俺は。
右へ転がった。
角兎も。
右へ一歩動いた。
合図ではない。
教えていない。
なのに。
同じ。
「記録します」
ミミルが。
震える手で帳面を開いた。
「芽の鼓動と、ホーンラビットの鼓動が同期」
ペンが走る。
「同期中、双方に強い硬直。終了後も同方向への反応」
そこで。
ペンが止まった。
「これまでの意思疎通とは、違う可能性」
ミミルは。
記憶殻を見る。
眠った芽を見る。
そして。
角兎を見る。
「失われた記憶に、触れている……?」
誰も答えない。
答えられない。
俺にも。
分からない。
ただ。
草原を知っている。
見たことがないのに。
あの風を。
知っている。
選ぶ手を。
知っている。
捨てられる側から。
見上げた光を。
知っている。
ミミルが。
保護液をもう一度確認する。
芽は閉じている。
光も消えている。
休眠している。
そのはずだった。
とくん。
俺の中で。
一度だけ。
芽が鳴った。
根の陰で。
角兎の胸も。
一度だけ。
同じ音を返した。
エッグの中へ芽吹いたものは、植物とも魔物とも判別できませんでした。
角兎との共鳴が触れた古い光景は、誰の記憶なのでしょうか。