第76話 / 全149話
ひび割れた世界地図
とくん。
芽が鳴った。
角兎の胸も。
同じ音を返した。
それきり。
何も起きない。
白い草原も。
選ぶ手も。
戻ってこなかった。
「……今は、休ませましょう」
ミミルが。
俺の下の布を整える。
角兎は。
世界樹の根へ体を寄せた。
逃げない。
近づきもしない。
俺と同じだった。
何が起きたのか。
分からない。
分からないものへ。
もう一度触れるのが怖い。
俺は。
殻の中を見る。
芽は閉じている。
根は。
記憶殻の魔力紋へ絡んだまま。
眠っていた。
「レオン」
アリアの声がした。
「腕を見せてください」
レオンが。
黙って左腕を出す。
手首には布が巻かれている。
白い布。
その下に鉛の薄板。
さらに。
聖剣の鞘から外した銀糸。
三重。
西水路の回収所を出る前。
アリアが巻いたものだ。
教会の追跡印。
勇者を辞めても。
レオンの手首に残った印。
あれが。
俺たちの居場所を教えるかもしれない。
だから。
回収所からここまで。
半日ごとに巻き直した。
夜は見張りを立てた。
それでも。
消したわけではない。
隠しているだけだ。
アリアが布を解く。
銀糸が外れる。
鉛板の下。
赤黒い印があった。
剣を囲む。
三本の輪。
その一番外側が。
薄く光っている。
「強くなっています」
ミミルが言った。
「世界樹へ近づいたからでしょうか」
「いいえ」
アリアは。
すぐに否定した。
「遮蔽を探っています」
探ってる。
印が。
こちらを。
「このまま巻き直すだけでは駄目です。遮蔽へ慣れ始めています」
嫌な印だ。
布の中で。
じっとしていろ。
「切り落とせるか」
レオンが聞いた。
何を。
印をだよな。
手首ではないよな。
「通常の解除ならできます」
通常。
その言葉が。
もう駄目そうだった。
「ただし、解除した瞬間に術者側へ通知が戻ります。勇者資格の放棄ではなく、印への破壊行為として」
「位置もか」
「最後に印が存在した位置が送られます」
ここ。
世界樹。
まずい。
ものすごくまずい。
俺は左へ転がった。
「はい。ここで解除するのは危険です」
ミミルが答えてくれた。
アリアは。
外した銀糸を並べる。
鉛板。
聖布。
その横へ。
黒い針の欠片を置いた。
回収所へ繋がっていた。
黒い探知具。
「遮蔽を続ければ、いずれ破られる。今すぐ解除すれば、世界樹の場所を教える」
「偽装は」
レオンが聞く。
「別の場所に印があるよう見せかけられるか」
「印そのものは移せません」
アリアの指が。
黒い針の欠片へ触れる。
「ですが、反応を写すことはできるかもしれません」
写す。
嫌な言葉だ。
殻片。
腐毒を吐き出した残り。
俺の魔力紋は。
何度も追跡へ使われかけた。
俺は。
右にも左にも動かなかった。
ミミルが。
すぐに黒い欠片を遠ざける。
「エッグの殻片は使いません」
「分かっています」
アリアが答えた。
「必要なのはレオンの印から漏れた反応です。この銀糸には、半日分が残っています」
俺のではない。
レオンの。
だからいい。
とは。
ならない。
本人に聞け。
俺はレオンを見た。
レオンも。
俺を見た。
「俺の印だ。俺が決める」
そう。
それだ。
「写せるなら使ってくれ。ただし、誰かがいる場所へは流すな」
「西水路の回収所は閉鎖されています」
ミミルが帳面を開いた。
「周辺の退避も確認しました。偽の反応を返すなら、あそこです」
「回収所へ戻ったように見せるのか」
「はい。その間に本物を解除します」
決まった。
隠し続けない。
放置もしない。
半日ごとの遮蔽は。
解除の準備が終わるまで。
偽の反応は。
人のいない回収所へ。
その後。
本物の印を消す。
「解除場所は世界樹の外にします」
ミミルが。
はっきり言った。
「根にも、集落にも影響しない枯死域の縁。解除通知が偽装を破った場合に備えて、すぐ移動できる場所を選びます」
「異論はありません」
アリアが頷いた。
「私が術式を外します。ミミルは反応の記録と偽装。レオンは解除中、聖剣へ触れないでください」
「分かった」
「エッグは」
ミミルが俺を見る。
「少し離れていてください。印が聖痕へ反応する可能性があります」
離れる。
右。
即答。
あんなものと。
仲良く共鳴する気はない。
方針が決まると。
アリアは新しい聖布を巻いた。
さっきまでと違う。
銀糸を外側。
鉛板を中央。
内側へ。
光を失った黒い針の粉を。
ほんの少し挟む。
「探知を防ぐのではなく、同じ反応を内側へ返します」
「印自身に、自分を追わせる?」
「そうです」
ミミルが息を吐いた。
「これなら解除まで持つかもしれません」
追う側が。
自分の尻尾を追う。
少しだけ。
いい気味だった。
新しい布が巻き終わる。
印の光が。
弱くなる。
一度。
二度。
輪の内側を回って。
消えた。
「遮蔽、安定」
ミミルが記録する。
「次の確認は夜明け前。解除は偽装具の完成後。完成までは、この場から動かない」
今度は。
決まっている。
いつまで隠すか。
どこで消すか。
失敗したらどうするか。
全部。
俺は右へ転がった。
そのとき。
殻の金色のひびが。
ちかりと光った。
追跡印ではない。
芽でもない。
赤くなっていた。
細いひび。
枯死域で見た。
あの傷と同じ色。
「エッグ?」
ミミルが寄ってくる。
俺の殻を。
覗き込む。
「昨日より、伸びています」
赤い線は。
殻の下側から。
斜め上へ伸びていた。
その途中で。
二つに分かれている。
一つは細い。
一つは。
妙に深い。
ミミルが。
昨日の写しを取り出す。
薄い紙に。
俺のひびを写したもの。
今のひびへ重ねる。
「新しい分岐です」
「枯死域の傷と一致した線か」
レオンが聞く。
「そこから伸びています」
アリアが。
眉を寄せる。
「まだ、同じ形の傷が増えただけです。エッグの殻と枯死域に関連があるとしても、これだけでは」
偶然。
そう言いたいらしい。
分かる。
俺も。
できれば偶然がいい。
世界樹の傷が。
俺の殻に出る。
意味が分からない。
アリアは。
三枚の資料を広げた。
エルフの古地図。
教会の災害記録。
ギルドの魔力異常報告。
「一致を確かめるなら、他の異常地点とも比べる必要があります」
「比べています」
ミミルの前には。
紙が山になっていた。
だが。
どれも向きが違う。
大きさが違う。
印の付け方も違う。
「エルフの地図は世界樹を中心に、根の伸びる方向で場所を示しています」
一枚目。
大きな樹。
そこから伸びる。
無数の根。
「教会の記録は、各聖堂から徒歩で何日かを基準にしています」
二枚目。
丸と。
日数。
「ギルドは街道の里程石と、方位盤です」
三枚目。
線と。
数字。
ばらばら。
同じ場所でも。
同じ場所に見えない。
「毒の湿地は、こちらでは南東の第五根沿い。教会記録では聖都から巡礼路を十七日。ギルド報告では東街道の里程石から北へ百二十六」
長い。
もう。
聞いただけで。
比べたくない。
「測り方が違います」
ミミルが。
俺のひびの写しを回した。
「向きを合わせても、距離が合いません」
「では、やはり」
「いいえ」
ミミルが。
アリアを遮った。
丁寧な声。
でも。
強い。
「合わないのは、場所ではありません。基準です」
ミミルは立ち上がった。
世界樹の根へ近づく。
触れない。
長老に禁じられた場所の。
手前で止まる。
根の脇には。
切り出された古い木片が置かれていた。
世界樹から。
自然に落ちた枝の断面。
幾重もの年輪。
「古地図の端に、同じ輪があります」
本当だ。
地図の隅。
飾りだと思っていた。
輪がある。
年輪。
「災害記録にも」
教会の紙。
古い頁の裏。
薄い円。
「これは染みではありません。災害が起きた年に、世界樹の年輪へ現れた傷の写しです」
ミミルが。
三枚の紙を。
年輪の上へ重ねた。
「距離ではなく、年輪を合わせます」
円と円。
古地図の根。
教会の傷。
ギルドの方位。
ずれていた線が。
少しずつ。
一つになる。
世界樹を中心に。
同じ方向へ。
同じ場所へ。
線が伸びた。
「毒の湿地」
一つ目。
「沈んだ王国」
二つ目。
「魔王城跡」
三つ目。
「空の裂け目」
四つ目。
俺の殻の。
赤いひび。
分岐した先。
全部。
重なった。
偶然ではない。
一つなら。
偶然。
二つでも。
たぶん偶然。
四つ。
形も。
分かれ方も。
同じ。
「そんな」
アリアの声が。
かすれた。
「災害の年代まで違うのに」
「殻に出ているのは、災害が起きた順ではありません」
ミミルの指が。
ひびの太さを追う。
「現在の傷の深さです」
現在。
今。
昔の地図ではない。
今の地図。
俺は。
自分の殻を見られない。
だから。
紙の上の線を見る。
世界。
大陸。
海。
そして。
傷。
ひびだらけだった。
俺だけじゃない。
世界も。
ひび割れている。
その一部が。
俺の殻に。
出ている。
ちり。
赤いひびが。
また伸びた。
紙の上にはない方向。
世界樹から。
北西。
細く。
だが。
止まらない。
「待ってください」
ミミルが。
新しい線を写す。
古地図へ重ねる。
その先。
小さな印があった。
樹が三本。
井戸が一つ。
「集落です」
長老の顔色が変わった。
「北西の根守り村」
「どれくらい離れていますか」
「半日もかからぬ」
近い。
新しいひびは。
そこへ向かっている。
アリアが。
もう偶然とは言わなかった。
レオンの手首を見る。
遮蔽は安定している。
今すぐ動けば。
追跡印を連れていく。
動かなければ。
異常が集落へ届くかもしれない。
「予定を変えますか」
レオンが聞いた。
ミミルは。
首を横に振った。
「変えません。決めた対策を先に完了させます」
帳面を閉じる。
「偽装具を急いで作ります。解除まで、ここから動かない。根守り村にはエルフの方から退避の合図を送ってください」
長老が頷く。
笛を取り出す。
高い音が。
森を走った。
「解除後、私たちは傷の先へ向かいます」
放置しない。
焦って。
別の危険を連れていかない。
順番を。
守る。
俺は右へ転がった。
ミミルが。
俺の殻の写しを見る。
世界の地図を見る。
同じ形。
同じ分岐。
同じ傷。
「エッグの殻は、異常を記録しているのではありません」
ミミルが言った。
「今、この瞬間の世界の傷を映しています」
生きた地図。
ひび割れた。
世界地図。
ちり。
赤い線が。
根守り村へ。
もう一筋。
伸びた。
世界の傷とエッグのひびが、ついに一枚の地図として重なりました。
追跡印への対策を完了させる間にも、次の異常は近隣集落へ迫ります。