第77話 / 全149話
地図にない工場
ちり。
また。
赤いひびが伸びた。
北西。
根守り村。
近づいているのは。
俺たちではない。
傷のほうだ。
「できました」
ミミルが。
細い革帯を持ち上げた。
表は灰色。
裏には。
砕いた探知石。
封印塩。
世界樹の落ち葉から取った樹脂。
そして。
ごく小さな。
銀色の針。
教会の回収所から持ち帰った。
感応針の欠片だ。
「追跡印を消す道具ではありません」
レオンが。
自分の手首を見る。
皮膚の下。
白い輪が。
脈に合わせて光っている。
「消せないのか」
「はい」
即答。
つらい。
そこは。
少しくらい。
迷ってくれてもいい。
「印はレオンさんの魔力と結びついています。無理に剥がせば、手首だけでは済みません」
手首だけでも。
十分。
済んでない。
「この偽装具で、反応だけをすり替えます」
「誰の反応に?」
アリアが聞いた。
ミミルは。
机の端へ。
一枚の金属札を置いた。
古い。
錆びた。
教会印。
「回収所に残っていた、廃棄済みの巡礼証です」
「死者のものですか」
「記録上は」
記録上。
嫌な言い方だ。
「追跡印が探すのは、レオンさん本人ではありません。登録された魔力紋と、教会式の認証です」
灰色の革帯を。
レオンの手首へ巻く。
「だから、別の認証を先に返します」
「俺を、死んだ巡礼者に見せるのか」
「正確には」
ミミルが。
留め具を閉じた。
「生きているはずのない人が、同じ場所を歩き続けているように見せます」
怖い。
発想が。
見習い錬金術師のものではない。
追われすぎた結果。
ミミルが。
どんどん追う側に厳しくなっている。
かち。
留め具が閉じた。
白い輪の光が。
一度。
強くなった。
「離れてください」
ミミルが言う。
全員。
三歩下がった。
俺は。
二転がり。
角兎は。
一跳び。
アリアだけ。
少し遅れた。
白い輪が。
革帯の下で明滅する。
一回。
二回。
三回。
灰色の革が。
青く染まった。
その瞬間。
机の上の水盤に。
光の点が浮かんだ。
レオンのいる場所。
ではない。
世界樹の南。
古い街道。
誰もいない方向。
光の点が。
ゆっくり動き始めた。
「反応が移りました」
ミミルが息を吐いた。
成功。
俺は右へ転がる。
だが。
ミミルは笑わなかった。
「外せば、戻ります」
「すぐに?」
「おそらく、一呼吸もありません」
一呼吸。
短い。
くしゃみより短い。
「水に濡らしても、強い魔力を受けても駄目です。革帯が切れた場合も、追跡印は元の反応へ戻ります」
「つまり」
レオンが。
手首を持ち上げた。
「これから先、外せない」
「新しい対策ができるまでは」
「枯死域の縁で、本物を解除するはずだったな」
レオンが言う。
ミミルは。
水盤の光を見たまま、首を横に振った。
「偽装をかけて、分かりました。この印は、解除の術式に触れた瞬間に、偽装の上から本来の位置を送り返します」
「解除そのものが、通知になるのですね」
アリアが。
小さく息をのんだ。
「はい。すり替えたまま解除すれば、すり替えごと破られます。解除の手順は、一から組み直します」
解除すれば、居場所が漏れる。
外しても、居場所が漏れる。
なら。
今は、すり替えたまま進むしかない。
消えていない。
封じただけ。
しかも。
別人の名前を被せているだけ。
追跡印。
しつこい。
教会。
もっとしつこい。
ぶうん。
アリアの鞄が震えた。
中から。
白い板が光る。
神殿から持ち出した。
連絡板。
アリアが触れる前に。
文字が浮かんだ。
『北西域の調査を中止せよ』
短い。
理由なし。
説明なし。
命令だけ。
「早いな」
レオンが言った。
偽装具が動いてから。
まだ。
十も数えていない。
「偽装を見破られたのではありません」
アリアが。
板を見つめる。
「これは私宛てです」
『神殿鍵を封じ、世界樹より退去せよ』
文字が増えた。
『地図上の空白域へ近づくな』
空白域。
根守り村ではない。
その先。
地図にない場所。
「教会は知っている」
レオンの声が低くなる。
「何を調べようとしているかまで」
「違います」
アリアが。
首を横へ振った。
「少なくとも、私は知りませんでした」
板の文字を。
指でなぞる。
「この命令は、通常の神殿系統ではありません」
文字の隅。
白い仮面。
帳簿にあった印と。
同じ。
「回収所を動かしていた者たちです」
調査中止。
近づくな。
そう言われると。
近づきたくなる。
人間だった頃から。
そこは変わらない。
卵になっても。
駄目と言われた場所ほど。
だいたい。
何かある。
「行きます」
ミミルが言った。
アリアを見る。
「あなたは戻っても構いません」
「戻れば、鍵を取り上げられます」
アリアが。
腰の鍵へ触れた。
白銀の鍵。
神殿の封印を開くもの。
「そして、私が知らなかったことは、二度と見せてもらえません」
連絡板を伏せる。
「同行します」
命令。
無視。
聖女。
大丈夫だろうか。
いや。
もう。
たぶん大丈夫ではない。
「ならば、森から出てもらう」
長老が言った。
低い声。
怒ってはいない。
だからこそ。
重い。
「世界樹はこれ以上、外の争いを抱えられぬ」
視線は。
レオンの手首。
アリアの鍵。
俺の殻。
三つを順に見た。
「傷を追えば、傷を作った者も来る。追跡印を欺けば、次は兵が来る。神殿鍵が反応する場所へ進めば、教会は森そのものを疑う」
「根守り村の方々は」
「退避の笛は送った」
長老が答える。
「だが、村を捨てぬ者もいる」
「では」
「行くことは止めぬ」
長老の杖が。
地面を打った。
「戻ることを許せぬだけだ」
世界樹を守る。
それが。
長老の選択。
俺たちを嫌ったからではない。
だから。
余計に。
何も言えない。
俺は。
右へ転がった。
分かった。
行く。
戻らない。
ミミルが。
俺の殻へ手を置く。
「ありがとうございます」
長老は。
答えなかった。
ただ。
道を開けた。
北西へ。
根守り村へ。
俺たちは進んだ。
レオンの手首には。
灰色の偽装具。
ミミルの鞄には。
殻の写し。
アリアの腰には。
神殿鍵。
俺の殻には。
伸び続ける赤いひび。
森は。
静かだった。
鳥がいない。
虫も少ない。
世界樹から離れるほど。
地面の根が細くなる。
代わりに。
土の下から。
脈打つような震えが来た。
一定。
ではない。
吸う。
止まる。
吸う。
止まる。
何かが。
土の魔力を。
遠くから引いている。
角兎が。
立ち止まった。
耳を伏せる。
俺を見る。
怖い。
たぶん。
そう言っている。
俺も怖い。
左へ。
少し。
右へ。
一緒に行く。
角兎が。
俺の横へ戻った。
半日より。
少し手前。
木々が途切れた。
柵。
屋根。
三本の大樹。
そして。
村の中央に。
井戸。
根守り村。
人影は。
ほとんどない。
笛を聞いた者たちは。
逃げたらしい。
井戸の前だけ。
一人。
老いたエルフが立っていた。
「水を置いて、どこへ逃げろという」
それが。
最初の言葉だった。
「井戸に異常が?」
ミミルが聞く。
「三日前から冷たい」
井戸だ。
冷たいのは。
普通では。
「水ではない」
老人が。
縄を引いた。
桶が上がる。
中には。
透明な水。
だが。
桶の縁に。
白い霜が付いていた。
「魔力が冷たい」
アリアが呟く。
水面へ。
神殿鍵を近づけた。
ちりん。
鍵が鳴った。
聖剣が鳴る音に。
似ている。
だが。
もっと細い。
もっと遠い。
何かに呼ばれている。
俺の殻も。
熱くなった。
赤いひび。
北西へ伸びていた線が。
井戸の前で。
止まる。
違う。
止まったんじゃない。
下へ。
曲がった。
「井戸の底です」
ミミルが。
縄を握った。
「エッグの傷は、ここから地下へ続いています」
井戸を覗く。
暗い。
水面の奥。
赤い線が見えた。
光ではない。
割れている。
水が。
ではない。
水の向こう。
空間そのものに。
細いひびが走っている。
吸う。
止まる。
吸う。
止まる。
村の魔力が。
ひびへ流れ込む。
そして。
どこかへ運ばれている。
「自然の枯死域ではありません」
ミミルが。
試験紙を水へ浸した。
緑。
青。
最後に。
黒。
「奪われた魔力が、ここに溜まっていない」
「流れているのか」
レオンが聞く。
「はい。決まった方向へ」
ミミルが。
帳面を開いた。
殻の写し。
各地の傷。
世界樹の年輪から割り出した座標。
毒の湿地。
沈んだ王国。
魔王城跡。
空の裂け目。
そして。
根守り村。
五つの線。
地図の上では。
ばらばら。
「感応針を」
アリアが言った。
ミミルが。
鞄から細い針を出す。
くすんだ銀色。
教会式の封印に覆われた。
探知具の中核。
針を。
根守り村の印へ置く。
反応なし。
毒の湿地へ。
かすかに震えた。
沈んだ王国。
また震えた。
魔王城跡。
強くなった。
空の裂け目。
針先が。
勝手に回った。
「置く場所ではありません」
ミミルが言った。
「向きです」
五つの傷から。
針が示した方向へ。
線を引く。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
線は。
一点で重なった。
北西。
根守り村より。
さらに先。
どの国の境界線にも。
属していない。
山も。
森も。
街道も。
何も描かれていない。
空白。
「こんな土地はありません」
アリアが言った。
「神殿の地図にも、王国の測量図にも」
白銀の鍵が。
勝手に持ち上がった。
アリアの腰から。
鎖を張る。
鍵先が。
空白地帯を指す。
同時に。
レオンの手首が光った。
偽装具の下。
追跡印。
隠したはずの白い輪が。
空白へ向けて。
細い光を伸ばす。
「追跡印まで」
レオンが。
手首を押さえる。
水盤の偽の光点は。
まだ南の街道を進んでいる。
偽装は効いている。
それでも。
印の奥にある何かだけが。
空白へ反応している。
アリアの鍵。
レオンの印。
どちらも。
教会のもの。
「この二つは、人を探しているのではないのかもしれません」
ミミルが。
地図へ。
感応針を置いた。
針は。
空白の一点へ倒れた。
かち。
地図の下で。
何かが光る。
世界樹の年輪を写した薄紙。
そこに刻まれていた。
無数の円。
年輪。
時間の座標。
五つの傷から引いた線が。
円と重なる。
一本の道になった。
枝分かれ。
合流。
送り込み。
排出。
これは。
川ではない。
根でもない。
「回路です」
ミミルの声が震えた。
「自然に生まれた傷ではありません」
各地の傷が。
魔力を集める。
線を通す。
一点へ送る。
長い年月。
別々の災害に見せながら。
同じ場所へ。
「何のために」
老人が聞いた。
ミミルは。
答えない。
答えられない。
代わりに。
アリアが。
神殿鍵を地図へ重ねた。
鍵の歯が。
年輪の一部と噛み合った。
白い文字が浮かぶ。
『受入』
『選別』
『器』
『定着』
その四つ。
俺の中で。
何かが。
脈打った。
青白い草原。
並べられた何か。
白い光。
選ばれる。
捨てられる。
俺は。
転生した。
気づけば。
卵だった。
ひび割れて。
捨てられていた。
「魂を受け入れ」
アリアが。
一つずつ読む。
「選別し、器へ定着させる」
「転生を」
レオンが言う。
「処理しているのか」
処理。
魂を。
器を。
俺を。
巨大な。
工場。
そんな言葉が浮かんだ。
命を作る場所ではない。
命を。
仕分ける場所。
ミミルの手が。
俺の殻へ伸びた。
触れる。
いつもの温度。
俺は。
右へ揺れた。
ここにいる。
まだ。
俺だ。
地図に。
最後の文字が浮かび始めた。
施設の名称。
最初の一字。
次の一字。
白い光が走った。
文字だけが。
消えた。
紙が焼けたのではない。
墨が消えたのでもない。
そこだけ。
最初から何も書かれていなかったように。
白い。
「消去術式」
アリアが。
息を呑む。
「読む者ではなく、名称そのものに封印が掛けられています」
名もない。
地図にもない。
魂と器を。
処理する場所。
俺の殻のひび。
世界の傷。
教会の針。
神殿の鍵。
勇者の追跡印。
全部。
そこへ繋がっている。
かち。
感応針が。
空白の上で立った。
針先が。
こちらを向く。
違う。
こちらではない。
俺を。
向いている。
井戸の底から。
吸う音が止まった。
ほんの一瞬。
静かになった。
次に。
地の底で。
何かが動いた。
俺たちが見つけたのではない。
向こうも。
俺を見つけた。
追跡印は消えず、別人の反応へすり替えられました。
地図に存在しない施設と、エッグの転生にはどんな関係があるのでしょうか。