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トップ / 目次 / 第四部 親権戦争編

第78話 / 全149話

井戸の底の黒竜

約3,127字

井戸の底で。

 何かが。

 息をした。

 ごう、と。

 水のない井戸から。

 熱い風が吹き上がる。

「離れてください!」

 ミミルが地図を抱えた。

 老人が杖を突く。

 根守り村のエルフたちが。

 一斉に弓を構えた。

 アリアは神殿鍵を握り。

 レオンは聖剣を抜く。

 白銀の刃が。

 鳴った。

 敵への警告ではない。

 怯えている。

 聖剣が。

 かたかたと。

 震えていた。

 いや。

 聖剣だけではない。

 地面も。

 井戸も。

 村を囲む大樹も。

 俺の殻も。

 全部。

 同じ震えに捕まっている。

 熱い。

 殻の奥が。

 燃えている。

 懐かしい。

 知っている。

 知らないはずなのに。

 この熱を。

 俺は知っている。

 赤い血。

 砕けた鱗。

 夜を埋めるほど巨大な翼。

 死にかけた俺へ降り注いだ。

 あの。

 竜の血。

 俺の中で。

 どくん。

 何かが脈打った。

 井戸の石組みに。

 黒い線が走る。

 ひびではない。

 鱗だ。

 一枚。

 また一枚。

 石の表面を覆い。

 巨大な顎の形を作る。

「下がれ!」

 レオンが前へ出た。

 聖剣を両手で構える。

 白い光が。

 刃から噴き上がった。

 次の瞬間。

『伏せよ』

 声がした。

 音ではない。

 空気でもない。

 血に。

 直接。

 命じられた。

 レオンの膝が地面へ落ちた。

 聖剣の光が消える。

 アリアも。

 老人も。

 弓を構えていたエルフたちも。

 立っていられない。

 角兎つのうさぎが俺の横で腹を地につけた。

 耳が。

 ぺたりと倒れる。

 ミミルだけが。

 俺の殻を抱こうとして。

 途中で膝をついた。

「エッグ……」

 苦しそうに。

 それでも。

 手を伸ばしてくる。

 俺は。

 動けなかった。

 違う。

 俺も。

 伏せていた。

 卵だから。

 いつも地面にいる。

 そういう問題ではない。

 殻の中。

 血の中。

 もっと深いところで。

 頭を垂れている。

 逆らうな。

 従え。

 あれは上だ。

 俺は下だ。

 あれは親だ。

 俺は子だ。

 命を受けた。

 血を受けた。

 ならば。

 従うのが当然だ。

 そう。

 俺ではない何かが。

 勝手に決めている。

 井戸を覆った黒い鱗が。

 持ち上がった。

 二つの金色が。

 闇の中で開く。

 目だ。

 井戸より大きい。

 村より。

 森より。

 もっと大きな何かが。

 狭い穴の向こうから。

 こちらを覗のぞいている。

『見つけたぞ』

 黒い目が。

 俺だけを見る。

『我が血を継いだ子よ』

 子。

 俺が。

 あれの。

 どう見ても。

 似ていない。

 向こうは竜。

 こっちは卵。

 いや。

 卵なら。

 むしろ似ているのか。

 そんな場合ではない。

「エッグは、あなたのものではありません」

 ミミルが言った。

 声は震えている。

 肩も。

 指も。

 全部震えている。

 それでも。

 俺へ伸ばした手だけは。

 引かなかった。

 金色の目が。

 初めて。

 ミミルを見る。

『小さき者』

 空気が。

 重くなった。

『我と子の間へ入るか』

「入ります」

 即答だった。

 早い。

 少しは考えてほしい。

 死ぬ。

 本当に。

 声だけで死ねそうなのに。

「この子が、私の相棒だからです」

『相棒』

 黒竜の声に。

 地の底が鳴る。

『脆き身で。短き時を生きる者が。我が血へ並ぶと申すか』

「血が何であっても」

 ミミルの指先が。

 俺の殻へ届いた。

「エッグが誰といるかは、エッグが決めます」

 そうだ。

 評議でも。

 決めた。

 俺は。

 誰かの所有物ではない。

 教会のものでも。

 貴族のものでも。

 黒い探知針を作った連中のものでも。

 竜のものでも。

 俺は。

 俺のものだ。

『血は命ずる』

 黒竜の目が細くなる。

『来い』

 どくん。

 殻の内側が。

 大きく脈打った。

 四本の魔力腕まりょくわんが。

 勝手に伸びる。

 ミミルへ。

 レオンへ。

 アリアへ。

 違う。

 掴むためではない。

 押し退けるためだ。

 俺の道から。

 邪魔なものを。

 排除するために。

 金色の腕へ。

 黒い色が混じる。

 熱い。

 強い。

 こんな力。

 今まで出たことがない。

 これなら。

 全員を退かせる。

 聖剣だって。

 折れるかもしれない。

 それから。

 井戸へ行く。

 黒竜のもとへ。

 守られる。

 従う。

 安全だ。

 俺より強いものの下にいれば。

 もう。

 砕かれなくて済む。

 死ななくて済む。

 記憶を。

 失わなくて済む。

 悪くない。

 むしろ。

 最高では。

 金色の腕が。

 ミミルの肩へ触れる。

 ミミルは。

 逃げなかった。

 俺を見ていた。

「エッグ」

 名前を呼ぶ。

 それだけ。

 命令しない。

 来いとも。

 残れとも。

 言わない。

 俺に。

 選ばせる。

 黒い力が。

 魔力腕を満たす。

 押せ。

 退かせろ。

 従え。

 俺は。

 腕を。

 地面へ叩きつけた。

 土が割れた。

 反動で。

 身体が浮く。

 一度。

 跳ねる。

 着地。

 ころり。

 俺は転がった。

 井戸へではない。

 反対へ。

 ミミルたちの前へ。

 黒竜と。

 みんなの間へ。

 小さな。

 ひび割れた殻を。

 割り込ませた。

 何をしているんだ。

 俺は。

 相手は竜だぞ。

 しかも。

 たぶん。

 とんでもなく強い。

 俺は卵だ。

 竜の子を名乗るには。

 丸すぎる。

 翼もない。

 牙もない。

 足すらない。

 でも。

 道を選ぶくらいは。

 できる。

 俺は。

 左へ揺れた。

 行かない。

 黒竜の目を見て。

 もう一度。

 左へ。

 行かない。

 血が叫ぶ。

 伏せろ。

 従え。

 戻れ。

 殻の中で。

 何かが暴れる。

 敵を壊せ。

 邪魔なものを焼け。

 ミミルたちを退かせろ。

 全部。

 うるさい。

 俺は。

 四本の腕を広げた。

 後ろの全員を。

 隠すように。

 隠れていない。

 俺の横幅では。

 ミミルの靴すら。

 半分も隠せない。

 それでも。

 前に出た。

 長い。

 沈黙。

 逃げたい。

 今すぐ。

 転がって逃げたい。

 だが。

 足がない。

 知ってた。

『く』

 黒竜の喉が鳴った。

『くく』

 地面が揺れる。

 笑っている。

 たぶん。

 笑われている。

『我が血に抗い。我が前に立つか』

 金色の目が。

 愉快そうに細くなる。

『よい』

 重さが。

 消えた。

 レオンが息を吸う。

 アリアが倒れかけた身体を支える。

 エルフたちは弓を下ろした。

 下ろしたというより。

 持ち上がらないらしい。

 老人が。

 杖に縋すがりながら黒竜を睨にらむ。

「世界樹の根へ、何をした」

『木の民よ』

 黒竜の視線が向く。

 老人の顔から血の気が引いた。

『我へ問うには。まだ若い』

 どう見ても老人だ。

 竜の基準は。

 知らない。

「この回路を作ったのは、あなたですか」

 アリアが問う。

 黒竜は。

 答えなかった。

 ただ。

 地図の空白へ目を落とした。

 金色の瞳に。

 白い光が映る。

 嫌悪。

 怒り。

 ほんの一瞬。

 そう見えた。

『浅き器が。深きものへ手を伸ばした』

 井戸の底から。

 また。

 吸う音がする。

 空白の施設へ。

 世界の傷から。

 何かが送られている。

『選び。削り。押し込める』

 俺の中へ。

 青白い草原が浮かんだ。

 並べられた影。

 白い光。

 選ばれるもの。

 捨てられるもの。

 あれを。

 黒竜も知っている。

『不出来な模倣よ』

 その一言で。

 白い光景が砕けた。

 頭が。

 殻が。

 痛い。

 ミミルが俺を抱き上げる。

 今度は。

 黒竜も止めなかった。

『だが。器は生じた』

 金色の目が。

 俺のひびを見る。

 聖剣から得た金色。

 森の傷を映した赤。

 竜血が燃える黒。

 殻の内側に眠る。

 小さな芽。

 すべてを。

 見透かされている。

『血を呑み』

 黒い線が。

 俺の殻をなぞる。

『毒を呑み』

 赤いひびが光る。

『神を呑み』

 金色のひびが光る。

『なお。定まらぬ』

 黒竜の声から。

 笑いが消えた。

『世界を映すか』

 ミミルの腕に。

 力が入る。

「エッグに、何が起きているのですか」

 黒竜は。

 ミミルを見ない。

 俺から。

 目を逸らさない。

『子よ』

 また。

 血が震える。

 今度は命令ではない。

 警告。

 恐怖を知らないはずの声に。

 わずかな。

 硬さがあった。

『完全に孵かえれば』

 井戸の周囲へ。

 ひびが走った。

 根守り村の地面を越え。

 森を越え。

 俺の見えない場所まで。

 一瞬だけ。

 世界そのものへ。

 亀裂が走ったように見えた。

『世界が割れる』

 誰も。

 声を出さなかった。

 俺も。

 揺れることすら。

 できなかった。

 完全孵化ふか。

 できないと思っていた。

 俺は。

 孵化未遂ふかみすいで。

 卵のままで。

 それが。

 欠陥なのだと。

 ずっと。

 思っていた。

 違う。

 孵れないのではない。

 孵ったら。

 駄目なのか。

『ゆえに』

 黒竜の目が閉じていく。

 鱗が。

 井戸の石へ戻る。

 熱が遠ざかる。

 地の底へ。

 巨大な気配が沈んでいく。

『孵るな』

 最後の声だけが。

 血の中へ残った。

 黒い鱗が消える。

 井戸は。

 ただの井戸へ戻った。

 感応針が倒れる。

 地図の空白も。

 何も語らない。

 俺は。

 ミミルの腕の中で。

 自分の殻を見た。

 金色。

 赤。

 そして。

 今までなかった。

 細い黒。

 新しいひびが。

 殻の頂点へ向かって。

 伸びていた。

黒竜との再会でした。

守る者なのか、支配する者なのか。そして「孵るな」という警告が何を意味するのか、次話へ続きます。